富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(13)

2012年08月02日 14時34分50秒 | 昔話
13善得寺(考)其の場所(5)

善得寺の草創は、雪斉の供養の「香語」に僅かに記されているだけであり、
殊に場所は須津の小県とあるのみで、現在須津にこの地名は無い。
「ちいさがた」と読むとすると、全国に上田市の南の別所・塩田平の
部分で昔の小県郡だけである。此処には富士山と言ふ名の山が在り、
富士山村と言ふ村があった。開山或いは開基の方が此の地に関係がないかと、
此の地の数寺を訪ねまた市の文化担当を訪ねたが、
今のところ関係は得られていない。

然し古文書に開基の上杉憲顯が関東管領を追われ信濃に逃れたの記があるが、
地名は明記無く私見するしかない。約10年間の寓居である。
「香語」には大勲策禅師は雲岩寺の名利を捨て、此の地に留滞し、
須津小県に天寧の名の一庵に居すとある。大壇越も無く
一堂程度に拠っての修業だったと思はれる。

開基である上杉憲顯は波乱多き武将で、貞治2年の時は、
関東管領を追われて京都におり、将軍義詮の命を受け弟の
教朝と共に鎌倉追討の途次此の地を攻め、畠山国清を滅ぼし、
鎌倉に入り,管領に復している。此の途次天寧庵に寄り教化に服し、
大壇越として1寺を整備し此の地の領を確かにした。

憲顯は畠山国清を滅ぼし、其の国清寺を整備拡大し、子院数十を数える
大寺とし関東拾刹とし此の地領する拠点とした。今国清寺は仏殿を残す
のみであるが、奥庭に畠山国清と上杉憲顯の五輪塔が並んで残されている。
一寺を創することは其の地に宗を広め、勢力を広める拠点造りだったでは
ないだろうか ?

一寺を開山・開基した場所を探したが、地名は無く地元の方の考える如く、
天神川原砦推定の場所と思われる。昔は城と寺が並立が多く、
この場所推定の一因と考える。
付近の地形の写真・地図を示す。

慶昌院の南と推定天寧庵の場所の南を鎌倉古道が通り,
根方街道として使われていたと思われる
図は富士市須津の北部の慶昌院所在の部分である。



砦の跡は今は天神様が祭られ、遠方の杜である。
此の辺に天寧庵は在ったと考える。



近くに栢の大樹のある慶昌院があり、禅宗を示す栢が見事の為写真を示す。




後にこの地より寺の移転の一因とされている旱湿の地とはどのような場所だろうか?
過湿が老師の健康に悪くなら意味がわかるが過湿の地とは思われない。