富士市今泉の昔話(144)善得寺城(再1)
今泉の地に残る昔の大きな2件、善得寺と善得寺城がある。共に此の地の名となり、此の
地の利となりながらその由緒は忘れられがちである。
此の2件共に、何時何処でどの様にとの解明は出来ていない。資料少なく伝承は失われて
居る為であるが、私見を交えつつ再記して見る。
善得寺と善得寺城は隣接しての一体の拠点と考えられる。善得寺の名は永徳元年(1381)建長寺派であった福王寺が寺市場に移転の時に妙心寺派となり大冨山善得寺となっている。
此の寺が禅秀の乱の後今川範政の功により領となり、此の地の拠点として築城された城が
善得寺城の名となった。範政は善得寺の中興開基とされており縁が多い。当時場所の名は
善得寺村で無く、勢子村或いは南荻ノ原村であったと思はれるが一体の考えで善得寺城の
名にしたのではないだろうか?
この様な例を挙げて見る。興国寺城は愛高山麓の丘陵末端に位置し、字古城と字大城を占
めている。此処に在った興国寺と言ふ寺院を移転し、その跡に築城し興国寺城と名が付い
ている。
富山県に城端城といふ城がある。領主荒木大膳が城端別院善徳寺(浄土真宗)を城地に招聘し、同名の城と寺が一体化している。
此の地に在った大寺善得寺は、上杉(犬懸)を大壇越として建長寺派より妙心寺派となり、
寺名を大冨山善得寺として栄え、富士市の現在の字寺市場に威容を見せていた。応永8年 (1411)上杉氏憲(禅秀)は関東管領になったが、応永13年(1416)禅秀の乱
をおこし滅亡した。
此の時駿河守護であった今川範政は、将軍義持の命を受けて鎌倉を攻め禅秀を打つ功を挙
げた。義持はこの功を称し、禅秀の所領を没し功の在った武将に分け与えた。今川に下方
庄を、大森には小田原の地を等である。
応永24年(1417)守護大名であった今川範政は所領を得て、此の地に東方への拠点
ともなる国境の城を立てた。戦国大名への変化である。
築城の場所・縄張り等明記されていないが、善得寺の西の荻野原の地に和田川を濠として
築城と言はれているため、この記を拠り所に私見を加えていってみたい。
今川の東方への拠点としての後、河東一乱に当たって北条の支配となり北条の十二の一塁
とも為った時期もある。瀬古善得寺の大寺建立の時期に、義元は東方北条への防備を厚く
整備し、次の侵攻は撃退している。武家屋敷地を設け、これを含めて惣構えの形に整備し
たと思はれる。善得寺と接し、一体化しての拠点になったと思はれる。三国会盟の時期に
は今川の大軍の拠り所となる規模になっていたと考える。
現在城に関係と思はれる字上和田・下和田・鍛冶屋瀬古は開発都市化され、城の面影は
見られない。
僅かに残る地形と城に関する古文書より、場所・形を私見して見る。
1、瀬古推定善得寺跡地。
此の地は東・西・南の3方を1~2丈の崖の上に1,5町歩程の平地があり、後の家康の
瀬古御殿の場所である。南に富士川の大川を控え、3方の崖は要害を為している。然しな
がら北の平地との間に堀切跡は見られず、考えられない。一重の城郭は考えられず、城と
一体とある寺の位置と考える。
城跡とは考えられない。
2、東泉院付近。
南に和田川があり、荻野原の名の場所であり、南の大石垣東の虎口等城の形があるが余りに
も狭く国境の城としての堅固さわ持ち得ないと思はれる。城の一部と考えるが適当ではと
思はれる。
3、城山付近の山城東西型。
和田川を南に荻野原の地に伝えられる山城の円郭式の図を配した鈴木氏の案である。図は
縮尺が読める為城図とし、図に愛鷹山がある為東西に配したが廓としての地形は全全適合
し得なかったとの事である。
4、城山付近の山城南北型。
和田川を南に荻野原の地に円郭式の図の愛鷹山を富士山と考えてみた仁藤私案である。本
丸位置が現在の愛鷹神社に当たり、意味がありそうであるが大空壕等の姿は適用しようが
なく取り得ない。
春となった途端の雪、枝打ち済の幼齢樹の雪景色である。

春浅い日に鳳来寺の近くの石雲寺に節分草の群落を見る事が出来た。住職の丹精による境内の梅園に見事の節分草の群落を楽しむことが出来た。


今泉の地に残る昔の大きな2件、善得寺と善得寺城がある。共に此の地の名となり、此の
地の利となりながらその由緒は忘れられがちである。
此の2件共に、何時何処でどの様にとの解明は出来ていない。資料少なく伝承は失われて
居る為であるが、私見を交えつつ再記して見る。
善得寺と善得寺城は隣接しての一体の拠点と考えられる。善得寺の名は永徳元年(1381)建長寺派であった福王寺が寺市場に移転の時に妙心寺派となり大冨山善得寺となっている。
此の寺が禅秀の乱の後今川範政の功により領となり、此の地の拠点として築城された城が
善得寺城の名となった。範政は善得寺の中興開基とされており縁が多い。当時場所の名は
善得寺村で無く、勢子村或いは南荻ノ原村であったと思はれるが一体の考えで善得寺城の
名にしたのではないだろうか?
この様な例を挙げて見る。興国寺城は愛高山麓の丘陵末端に位置し、字古城と字大城を占
めている。此処に在った興国寺と言ふ寺院を移転し、その跡に築城し興国寺城と名が付い
ている。
富山県に城端城といふ城がある。領主荒木大膳が城端別院善徳寺(浄土真宗)を城地に招聘し、同名の城と寺が一体化している。
此の地に在った大寺善得寺は、上杉(犬懸)を大壇越として建長寺派より妙心寺派となり、
寺名を大冨山善得寺として栄え、富士市の現在の字寺市場に威容を見せていた。応永8年 (1411)上杉氏憲(禅秀)は関東管領になったが、応永13年(1416)禅秀の乱
をおこし滅亡した。
此の時駿河守護であった今川範政は、将軍義持の命を受けて鎌倉を攻め禅秀を打つ功を挙
げた。義持はこの功を称し、禅秀の所領を没し功の在った武将に分け与えた。今川に下方
庄を、大森には小田原の地を等である。
応永24年(1417)守護大名であった今川範政は所領を得て、此の地に東方への拠点
ともなる国境の城を立てた。戦国大名への変化である。
築城の場所・縄張り等明記されていないが、善得寺の西の荻野原の地に和田川を濠として
築城と言はれているため、この記を拠り所に私見を加えていってみたい。
今川の東方への拠点としての後、河東一乱に当たって北条の支配となり北条の十二の一塁
とも為った時期もある。瀬古善得寺の大寺建立の時期に、義元は東方北条への防備を厚く
整備し、次の侵攻は撃退している。武家屋敷地を設け、これを含めて惣構えの形に整備し
たと思はれる。善得寺と接し、一体化しての拠点になったと思はれる。三国会盟の時期に
は今川の大軍の拠り所となる規模になっていたと考える。
現在城に関係と思はれる字上和田・下和田・鍛冶屋瀬古は開発都市化され、城の面影は
見られない。
僅かに残る地形と城に関する古文書より、場所・形を私見して見る。
1、瀬古推定善得寺跡地。
此の地は東・西・南の3方を1~2丈の崖の上に1,5町歩程の平地があり、後の家康の
瀬古御殿の場所である。南に富士川の大川を控え、3方の崖は要害を為している。然しな
がら北の平地との間に堀切跡は見られず、考えられない。一重の城郭は考えられず、城と
一体とある寺の位置と考える。
城跡とは考えられない。
2、東泉院付近。
南に和田川があり、荻野原の名の場所であり、南の大石垣東の虎口等城の形があるが余りに
も狭く国境の城としての堅固さわ持ち得ないと思はれる。城の一部と考えるが適当ではと
思はれる。
3、城山付近の山城東西型。
和田川を南に荻野原の地に伝えられる山城の円郭式の図を配した鈴木氏の案である。図は
縮尺が読める為城図とし、図に愛鷹山がある為東西に配したが廓としての地形は全全適合
し得なかったとの事である。
4、城山付近の山城南北型。
和田川を南に荻野原の地に円郭式の図の愛鷹山を富士山と考えてみた仁藤私案である。本
丸位置が現在の愛鷹神社に当たり、意味がありそうであるが大空壕等の姿は適用しようが
なく取り得ない。
春となった途端の雪、枝打ち済の幼齢樹の雪景色である。

春浅い日に鳳来寺の近くの石雲寺に節分草の群落を見る事が出来た。住職の丹精による境内の梅園に見事の節分草の群落を楽しむことが出来た。

