むじな@金沢よろず批評ブログ

台湾、国際情勢、アニメなどについて批評

228事件60周年に寄せて

2007-02-27 06:06:58 | 台湾その他の話題
 今日2月27日は、228事件の発端となったタバコ売り女性殴打事件から60年目にあたる。
 228事件というと、2月28日に発生したと思われがちだが、実際には27日夕刻の事件が発端となったのであり、私自身も毎年2月27日には、震源地となった南京西路と延平北路の交差点に立って、黙祷をささげることにしている。
 ここに改めて、228事件および白色テロの犠牲者に改めて哀悼をささげるとともに、二度とこうした悲劇が繰り返されることがないよう祈りたい。

 228事件の記念日は民進党政権になってから「228和平紀念日(平和記念日)」として国定休日となっている。今年の228記念日は、60周年と、ちょうど干支が一巡することもあって、その前後には台湾本土派の政党や市民団体の合同により「転換期の正義(価値観の基準の転換)」をテーマに記念行事が相次いでいる。
 特にメーンイベントは、手護台灣大聯盟、二二八事件紀念基金會、台灣基督長老教會總會、台灣教授協會、台灣社、民主進歩党など100あまりの団体の共催で、「紀念二二八60周年萬人大合唱(228事件60周年記念数万人大合唱)」が28日(水曜日)午後3時半から6時まで、総統府前の凱達格蘭大道(ケタガラン大通り)で開かれる。曲目は合唱曲目:1.台灣翠青(事実上の台湾国歌);2.福爾摩莎頌;3.毋通嫌台灣;4.台灣;5.海洋的國家が指定されているが、ほかにも台湾民謡や「母親的名叫台灣」なども歌われるはずだ。(参照:http://www.hand-in-hand.org.tw/
 同じ28日には、台北市中山足球場で、12時から夜10時半まで「獨立音樂協會」という台湾独立派若者バンドの団体主催で、「正義無敵」と題するロックコンサートが開かれる。詳しくは、http://www.sayyestotaiwan.org/

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 ここで、当時の模様を振り返っておきたい。
 228事件の発端は、1947年2月27日、ヤミタバコを売っていた寡婦・林江邁(リムカン・マイ、姓は江姓に夫の林姓をつけているいわゆる冠姓で、邁が名前、以下邁とする)が外省人ヤミタバコ取締員によって殴打されたことで民衆が激怒し、翌日から台湾全土に蜂起が広がったものだ。
 228事件発生当時、邁は41歳だった。かつて邁を老婆と記述している本が多かったが間違いで、実年齢に比べて風貌が老けていたため老婆のようにに見えたというのが真相のようだ。
 邁は、娘の明珠とその三番目の息子・文山とともに台北市延平北路に住んでいた。ほかに一番目と二番目の息子がいたが、いずれも桃園県亀山郷龍寿村の林家に住んでいた。邁の実家は亀山郷の旧路坑にあり、呉姓であった。邁は江姓の家に養女として出されたために江姓となったが、邁は結婚前には実家の呉家に住んでいた。
 夫の死亡後、邁は林家の人との折り合いが悪かったうえ、しゅうとめが台北市延平北路にお茶の販売店をやっていたので、幼い子供たちを台北に連れて行き、しゅうとめの家事の手伝いをした。終戦後、しゅうとの林枝が茶販売店をやめたため、邁は延平北路でタバコ販売を始めた。しかし邁はたばこ販売の免許を持っていない、いわば闇販売業者だった。
 事件は、27日午後5時ごろ、現在の延平北路と南京西路交差点の南京西路の北側、当時「天馬茶房(テンマー・テーパン)」という喫茶店の店の前で発生した(後に「黒美人」という店になったが、これも店じまいしている)。
 専売局取締員らに邁が闇タバコを販売しているのを見つけた。
 取締員六人は全員、戦後中国から来た外省人だったが、彼らはヤミたばこだけでなく、邁のなけなしの売上金まで没収しようとした。邁は「生活の糧だから金だけは取らないで欲しい」とすがりついたが、言葉が通じない外省人はこの哀れな寡婦の頭をいきなり銃で殴りつけた。邁は血を流してその場に倒れた。邁は付近の外科病院に担ぎ込まれた。
 それを見ていた通行人たちが憤激して取締官を取り囲んだ。取締官はその場から逃走したが、逃げながら銃を何発か撃ち、そのうちの一発が傍観していた市民に命中、死亡させた。
 これを見て怒り心頭に達した群衆は、近くの警察局と憲兵隊を取り囲んだ。
 翌28日、抗議の群衆は数を増し、専売局と台湾行政長官公署(総督府にかわる国民党政権の台湾行政機構)を包囲した。ところが、長官公署側はこれに対して発砲を繰り返し、数十人の死傷者が出た。このため、さらに民衆の怒りは燃え広がり、抗議運動は台北市全体に広がった。続く3月1日には台湾全土に抗議活動が拡散、台湾人側は228事件処理委員会を組織して、当時台湾行政のトップだった陳儀・行政長官に、高度な自治など要求をつきつけた。
 このころはやった言葉に「イヌが去ってブタが来た」「イヌは番犬にもなるが、ブタはただむさぼり食うのみだ」というのがあった。イヌというのは日本統治時代からの日本人に対する蔑称で、ブタというのは中国人の蔑称だ。起源は日本の戦時漫画「のらくろ」だといわれている。日本人はイヌのように獰猛で小うるさいが、日本時代は治安もよく番犬としてはしっかりしていた。中国人は賄賂や略奪をするだけだ、という意味である。
 ちなみに台湾人自身のことは、牛と形容した。こきつかわれても黙々と働く姿を、外来政権に支配されながら、豊かな島を築いた台湾人の姿を重ねあわせたという。
 かつてはあれほど差別され、悔しい思いをしたはずの日本時代が、むしろ中国人の支配よりもましだったと考えられたのである。
 日の丸を取り出し、日本語で軍歌を歌い出す台湾人も現れた。「日本のラジオで"台湾人がんばれ"という声援があった」という噂がまことしやかに広まったりした。台湾人は台湾語と日本語で「おまえは台湾人か」とたずね、答えられない者を外省人だとみなして、殴打していった。もちろん、植民地支配で不平等待遇が多かった日本統治が、掛け値無しで良かったはずがない。ここには、一度も自らの運命を選べず、常に外来支配に翻弄された台湾人の悲哀がにじみ出ているのである。
 当時、台湾行政のトップだった陳儀(日本の陸士出身で妻は日本人)は、いったんは台湾人の要求をのむような姿勢を示した。しかしそれもつかのま、3月8日午後、中国大陸から派遣された国民党政権の増援部隊が台湾に上陸し、手あたり次第に台湾人を殺戮しはじめた。殺戮の方法は、機関銃による射撃のほか、鼻や耳を削ぎ落としたうえ、手のひらと足首に針金を通して、数人一組につないで射撃した後、川に投げ捨てるというもので、ありとあらゆる残酷な方法が実行された。2週間にわたった「鎮圧」の過程で、2万人あるいは5万人ともいわれる(90年代の真相究明作業の公式統計では2万8千人)台湾人が殺害された。死体が投げ捨てられた川は赤く染まったという。
 さらに、国民党当局は、将来反抗の種となる恐れがある指導的な人物をいっせいに逮捕し、すべて秘密裡に処刑していった。その人選は見事に優秀な人間ばかりを選んでいた。代表的な知識人である林茂生、阮朝日、張七郎らはこうして殺された。
 事件の粛清の過程で、台湾人社会は、有能な人材をすべて根こそぎ抹殺されてしまい、名実ともに中国大陸人の支配に従わざるを得ない状況に置かれた。台湾人の間から、人材が育つにはその後、一世代にあたる三〇年の歳月を待たなければならなかった。
 戦後の台湾では、二・二八の責任をすべて陳儀に押し付けようとする傾向が強い。それは、蒋介石の責任を回避しようという国民党政権時代の世論工作も関係している。しかし、陳儀は当時一介の地方首長に過ぎず、たいした権限もあるわけではなかった。やはり台湾人虐殺の一義的責任は蒋介石にあると見るべきだろう。実際、昨年2月19日に政府系外郭団体「二二八基金會」が発表した(台湾派歴史学者らへの委託)「二二八事件政治責任帰属研究報告」では、蒋介石に最終的責任を求めている。
 一方、林江邁のその後だが、足腰がしっかりしていた邁は、事件の後、再び台北円環付近でたばこ売りに復帰し、自分の身を立てていた。そのたばこ屋台は遠東劇場の斜向かいにあり、太原路から路地に入ったところの小さな家に住んでいた。働きものだった邁は、商売がよくないときは、太原路で地面や排水溝の日雇い清掃員をやって日銭を稼いで家計を補ったりした。しかし228事件で殴られ入院もした邁は、このころから喘息を患うようになっていたため、夜になると咳が止まらず眠れない日が続いていた。そして事件の数年後に息を引き取った。

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 ところで、毎年228記念日が近づくと、国民党は馬英九を筆頭に「これは当時の政府の政策に不満を持った民衆が反乱を起こしたもの。国民党全体の問題でも、まして外省人の問題でもない」と言い逃れに懸命だが、その伝で行けば、自分自身が日本の戦争責任を追及できなくなってしまう矛盾に気付いていないのだろうか?
 私は日本の戦争責任を追及すべきであると思うが、同じ基準で国民党と外省人権力層の虐殺責任も追及されるべきである。
 国民党の屁理屈に対して、民進党支持の20代の若者はこうつぶやいていた。「やっぱり加害者や右翼というのは、どこも同じなんだね」。