moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

リテラシーの立体性

2006-01-18 | エッセー(雑文)

リテラシーの立体性
-観察者の位置から見えることの限界を踏まえると-

デズモンド・モリスはかつて、オッパイはお尻の代用物
であるというような趣旨をいっていたが、
そういう思考は西洋の伝統的な衣服の流行を押さえたことからの
発想なのではないだろうか。
西洋貴族や、娼婦の衣服のデザインは、オッパイに注目が
いくように奇妙に誇張されていて、その伝統が、
お尻が前に移動し、性的ディスプレイとして、オッパイが
大きくなり・・・という展開をなしたとおもわれる。
しかし、日本の伝統では、着物に隠されたオッパイは
性的ディスプレイとしては機能してはいなく、
もらい乳という慣習や、乳母とかの権力が社会的機能上大きな
意味を為していたのであって、「乳・オッパイ」は性的な意味から
忘却されていたのである。
大雑把な「道具」システム観では、オッパイを「道具システム」として
とらえなおすだろうし、オッパイが個性から切り離され、性的ディスプレイ
として、効率的に消費される。
また一方で、乳=ミルクという貴重な「食の原点」から構成される社会性が
母系的な権力を許容し、影の権力者という位置を成立させるのである。
その「影の権力者」という位置は歯車のように取り替え可能になるのも
「道具システム」による消費だからである。
昨今の天皇制の男系女系の変更にたいして、抵抗が少ないのも
取り替え可能な大雑把な「道具システム」によるものだという認識が
あるからだろう。
大雑把な「道具システム」は「機械」が社会に比重を増すごとに
社会自体が「機械」に変容し、「効率」がその血となり「有機的機械」
となった「欲望」を自動的に変更を繰り返すシステムとして位置付ける。

それはとても映像表現的でコラージュの構成から、
とめどなく意味があふれ、「欲望」がアニメ「ガンダム」のように、
自動的に学習し成長するということであり、
その機体が組織とリンクした成長ではなく、
それぞれ個体的な特殊な成長発達として受け取られるのである。
社会はその「特殊な欲望機械」をコントロールしようと試みるが、
その方法が上手くいく場合と行かない場合があり、
相対的にコントロールという制度は後手にまわり、「欲望機械」は
既成枠を越えた欲求を自動生成していくのである。

イリイチのコンヴィヴィアリティ という概念もコントロールという制度からの
射程による案出であるし、そのため究極的には個人の道徳的・理性的
生活というスタイルを要求することになる。
実際イリイチらが問題視する特権階層でなければ、道徳的・理性的生活という
スタイルは実現可能ではないだろうし、さらにいうなら、特権階層であろうと
既成枠を越えた欲求を自動生成していく「特殊な欲望機械」としての
システムから自由ではありえないのである。
それはリテラシーの両義的な方向性によって、
既に決定されているといえるのかもしれないが、
それでもそこには、言語の自由な組み合わせのごとく、
360度の展望を内包しているのである。
しかし、貧困化した現代の大衆あるいは「負け組み」にとっては、
リテラシーというコンセプトに理解する余裕に欠けあるいは拒み、
その展開図の立体性を想像できない。
そのため両義的意味の構造をくみとり、
方向転換をはかるようなビジョンを共有できなく、
孤立したオタク消費者の群れにならざるえないのである。

数年後はネットで読み書きが主流になるであろうし、
やはり「情報リテラシー」という能力を、特に十代の青少年たちには
上手く読み取り、簡潔に書きこなせる能力を期待せざるえない。
そのときラディカルなイリイチらのコンヴィヴィアリティというコンセプトも
競争社会の中で補完的に機能し、効率的な機械の様態も
「人(他者との共存性に富む)」の道具として使用され、
競争性に埋没した人自身が機械の歯車・道具として使用される状態から
解放されるのではないだろうか 
 

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