moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

FF12「大灯台上層ムービー」を解釈する

2006-04-22 | エッセー(雑文)

FF12もリドルアナ大灯台上層部に入ると、目新しく
ゲーム戦闘部分とCGアニメが交互に入れ替わりながら
物語が進んでいくという演出が試みられている。
ここで主に語られている物語のテーマは「逃走」であるが、
登場人物それぞれには、過去にたいしての「シガラミ」があり、
過去の幻影によって、いちじるしく行動の選択の幅を狭められている。
特に、ここで進行したシドとバルフレア=ファムランの確執の物語では、
シドの「執念=神を気取るオキューリアになりかわる。」という期待を
裏切り、逃げ回っていたシドの息子ファムランという姿が強調され、
物語(テーマ)の流れのクライマックスを、ここで迎える。
シドとバルフレアの闘争の結末は、バルフレア達の勝利という形になるのだが、
シドが最後に父親の顔で、ファムランに「逃げ切ってみせろ」というシーンと
ミストで弱ったフランが、バルフレアを母親のような目で見つめ、
緊迫したミスト暴発から早く逃げろというシーンを、
うまく重ねている構成は、過去による呪縛を断ち切ることの意味、
そこから、生まれる自由という可能性の印象を強めている。

その「自由という可能性」の選択性の中に、
『逃避・逃走』を含めたのは、近年ポストモダニスト等が謳っていて、
(この趣向はクリエィテイヴな業種界に浸透しているように思えるが・・・。)
それはキャピタリズムの行動型式を、人々の行動の選択性を二者選択性に狭め、
ひとつの選択しかないかのように追いこみながら、逆に社会的生産効率を高めて、
不平不満を閉じ込めてしまうという懐柔策と分析し、
それにたいしての、個人の自主の尊厳性・自由を守る有効な方法を提出した。
それは、「逃げる」という行動の隠れた意味を復権させて、
「獲得される自由」に再検討をくわえることであった。

物語の消費構造の中で、その「逃げ切ることで獲得される自由」が
シーフ(盗賊)という主人公に直結するのは、至極当然のことであり、
歴史をかえりみても、権力に富が集中し、貧富の差が
拡大したときの圧倒的な閉塞感は、自由な盗賊の活躍する物語
特に冒険=トレジャーハントによって解消されていたのである。
今期のFF12は、自由な空賊の職業を創出し、主人公を『逃避・逃走』を
基底とするトレジャーハンターにスキルアップさせていて、物語の中で
「過去は人々を生々しく縛る。その幻を絶ち真の道へ至れ」と語り、
縛る幻=すべてを支配の権力構造に絡めとる体制と暗示させている。
『逃避・逃走』はそれにたいし、実にシンプルな基本的な戦略なのである。
ゲームの中のボス戦でも、一部逃げることが可能になったことや
闘争中にモンスターから盗んだものを店に売ることで金に代えるという
システムの意味は大きかったのである。

それは、トレジャーハンティングを目的とするフットワークの軽い「IT産業」系に、
牽引されている時代の流れを、そのイメージに影響された結果といえるかもしれない。


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