moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

「書き込み」の悪意にもとづくもの・・・

2005-06-13 | エッセー(雑文)

2chなどの「書き込み」において、なぜ不平や悪口に
傾きやすいのか、時には悪意にもとづく表現や
荒らしという行為にまでおよぶのは何故か?
それは、表現の獲得により、個人の環境世界が広がり、自我意識が、
飛躍的に広がった世界を対象化し、今までは気づかずに、
暗黙のうちに形成された自分の価値観に、違和感を感じるからではないだろか。
それは一方で、その中における行動の「自由度」を、高めようとする欲求でもある。

その欲求は、既存の自我の価値観に疑いをもたらし、自我を分裂させる。
最終的に新しく価値観を、再構築しなければ、不安定になった自我が回復
(自己の同一性は得られない)することはないだろうし、そのために、
確かなものを自然に求めてしまう。
自分を見失う感覚から回復するために、ほんとうの自分探しが始まる。
この時に、「ズレ」が生じると、異質なものを排除することで、
自己の中の確かな価値観を補強しようとし、自分の信じて疑えないもの以外は
異質なもの=悪であるということになり、自分は正義として、自己の正当性を、
主張することになる。
正義である自分の価値観と対立するもの、あるいは無視するものは、
許されるものではないということとなり、その結果悪意にもとづく表現や
荒らしという行為にまで、およぶのではないだろうか。
しかし自分にとっての真なるものは、自分固有の「真」なるものであって、
一般的あるいは客観的には一つの信念でしかない。
「表現」の中に、自己の正当性の証明という欲求がまぎれ込むという「ズレ」が
いつも起こっていて、その両義的意味合いは言語の本質かもしれないが・・・。
匿名性自体が、悪意を増幅させているわけではなく、ただ、自己証明の獲得に
つながらない表現という矛盾を露呈し、不安におちた自我は、
掲示板においての「書き込み」では、容易に回復できず、瞬間的自己満足を得る
ということを繰り返すこととなり、類型的な否定の立場という表現獲得へといたる。
ある種のポストモダンの状況であるが、市民的欲求の衝突緩和あるいは共通理解の
場を提供することにはつながらないように思える。
批判する正当性の獲得は、共通理解の足場を獲得しなければならず、
例えば、それはフェアな参加を、可能とするゲームのようなものに、
求められるのかもしれない。単純に勝敗を決する目的ではないゲーム、
ゲームに参加していることで、ある種の個人的欲求に答えられる充足感を、
得られるルールを相互に、理解することが必要なんだろうと思ってみた。




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