moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

ゲームモデルに近代のパラダイムをもちこむのは疑問・・・

2005-06-15 | エッセー(雑文)

現代はメディア先行によって、情報が商品として流通し、
その結果ゲームと現実が接近した社会になってる。
それは現実を、ゲームの構造で、理解しようとすることでもある。
しかし、ここに近代の哲学原理をもちこんで、その理解を企てようとすると、
いかに市民による相互承認という発想であっても、資本のグロバリ-ゼーションが
もたらす、ハイブリッド化によって、富者と貧者の階層化の再生産を激化させ、
ゲームに参加するものが市民であっても、富者の代理であって、その少数の
メンバー同士による相互の権利を、承認するゲームに変質したモデルが、
提示されることになるだろう。
そもそも、お互いの自由を認め合うというのは、実は権利を認め合うことであって、
権利である以上それを善きものとして、根拠付けているにすぎない。
自由という概念には「選択の自由」とか「~の解放」程度の意味しかあらわれていない。
そのため自由の意味は何かに置き換えられ、遅れていつも現れてくるため、
自律的市民の責任能力ではなく、現実は権力による「当為」や「要請」によって、
「ルール」に従ってるに過ぎない市民という結果をまねいてるのではないだろうか?
けっして罰せられることを、自ら引き受ける良心的市民で構成されてなどは
いないのではないだろうか?
それには、フェアにゲームに参加し、互いに「ルールに意義申し立て」「承認」「変更」
可能な状況でなければならないが、しかし現実は「圧倒的遅れ」としてその意味をあらわす。
そのため、未だ語られぬものと、語られたものの「差」に個人の意識は裂かれることとなる。
ある意味「新しいダブルバインド」にさらされ、判断力を失った階層が出現し、
それは、ゲームの駒でしかない市民という結果をまねきかねない。
「ゲームモデル」によって現実を操作する実感を持つものと、
「ゲーム」は所詮絵空事という実感をもつものの「差」は非常に大きくなり、
その溝は、簡単に相互承認などというもので、埋めることなどはできはしない。
もはや、良心的な市民モデルを前提とした相互承認という概念自体、廃棄するか
再検討しなくてはならないと思われる。
ゲームである以上参加する、しないという自由から、そしてルールの決め方から
検討したほうが有効のようにおもえるが・・・。
そのゲームは見ていても、誰もが楽しめるのかということのほうが、
今は大事のような気がするが・・・。 






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