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ファイナルファンタジーⅦアドベントチルドレンの背景に思うこと

2005-05-19 | エッセー(雑文)

ファイナルファンタジーⅦアドベントチルドレンの背景は、
現代の思想状況を象徴してるように思える。
(新しい映像はここで http://www.gpara.com/movie/ff7/index.htm )

現在という状況に、個人が有効にアクセス出来るために、
実存主義以来、近代的「知の枠組み」にたいして、
批判、分析を繰り返し、そういう流れは、実際は個人の体験、
個人の思考の表現にすぎないが、孤独な孤立した個人ではなく、
異質な他者との出会い、つながりがなければ、自分という意識さえ
成立しないことを明らかにし、個々の思想家に共通「知」の枠組みを
もたらした。
事実、多くのポストモダンの理論家は、一部の教育機関によって、
形成されたといってもいいという側面がある。
それは、フランスの高等師範学校といえるだろう。
(サルトル、レヴィ=ストロ-ス、デリダなどを排出している。)
国家的知の戦略によって、個人は多くの異質なものと出会い、
交流、つながりを体験し、自分を見失いそうになりながら、
そこに他者の存在を理解するという態度の反省をもたらした。
その訓練された「知の枠組」みが、今の近代の「知の体系」の弊害を
越えようとしている。
意識の性質やその構造を、モデルとして表した世界は、
権力の仕組み=ことば・言語システムによる抑圧された人間像であった。
そこから、解放(弊害をのぞく)されるためには、新たに知の体系を
組み立てるのではなく、規制のことばの意味を<ズラす>という方法である。
そういう流れからみると、ポストモダンの代表的理論を寄せ集め、
それを融合し、まとめようとしても、無駄なような気がする。
ニーチェ以来「~の終焉」をつげる表現は多い。
しかし、実際に神がいなくなった訳でもないし、物語も人間も終わってはいない。
言語のシステムに意識の基盤がある以上、つねにその組み合わせは生成続けられ、
自由な組み合わせが出現するのだ。
FFⅦの重要なライフストリーム観は、こういうポストモダン的な
無意識の構造を基盤としたシステムに着目したように思える。
さらに現実の敵は神羅カンパニーという、企業の支配装置である。
その企業に訓育された兵士は交換可能の機械として、変容されるという
アナロジーとして表現されている。
そして主人公のクラウドは誰かに許されることを願い、戦いに赴くのである。
現代人が異質なものと、自分の欠けたものを求めるかのように・・・。 
 

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