先日、ルームシューズを編み上げました。去年家をリフォームして、畳の部屋をあらかたフローリングにしてしまったので、足元に寒さを感じていたのですが、このルームシューズのおかげで、とても足が暖かく、重宝しそうです。
編み物もこれで一段落、そろそろ絵が描きたいと思い、スケッチブックに手を出しました。ひさしぶりに描いた切り絵の下書きは、以前と少し雰囲気がちがいます。ちょっとは勉強がすすんだみたいです。出来上がったら、皆さんにお見せしたいと思います。
さて、今日はこれまでと少し気分を変えてみたくなり、一番中身の少ないカテゴリをあけてみました。アートについては、前のブログで語りつくしたような感があったので、なかなか書けなかったのですが。
絵は、ティツィアーノ・ヴェチェリオ(16世紀イタリア・ヴェネツィア派)の、「マグダラのマリア」です。この画家は、語るのが難しく、つい避けてしまいがちだったのですが、最近、どうしようもなく、ひかれてしまいます。
レオナルドやミケランジェロなどのルネサンスの巨人と比べれば、陰が薄くなりがちなのは、画家として栄光の人生を歩み、長寿と幸福を得た人だったからです。その絵は、衝撃的というより、とにかく、「うまい」、「完璧」、「すごい」。けちのつけようがない。レオナルドやミケランジェロを批判することはできても、これはあまり批判できない。それはなぜか。
それは彼が、人には見えないところで、絶妙の仕事をやっているからです。
こんなことができるのか、という仕事を、見えないところで本当にやっているからなんです。これが不可能じゃないんだ、ということを、見事にやってのけているからです。
このマリアの顔をご覧ください。まるで、自分を見失っているかのような、瞳でしょう。ほんとうに、気がおかしくなっているかのようだ。もちろん、気がおかしくなっています。しかし、ほんとうはそうではないのです。難しいことを、彼女はやっているんです。本当に気がおかしくなっているのだけど、ほんとはそうじゃないということをやっているんです。
ティツィアーノは、これができる芸術家だったのだと、わたしは感服しています。要するに彼は、ほんとうの自分自身、禅のことばで言うところの「主人公」を、微妙に定位置からずらし、その隙間に、世俗的価値観や人間的な好みなどを、ソフトを入れ替えるように差し込んで、自分の才能や技量を存分に使わせて、やっているんです。わかりにくいかなあ。要するに、わざと、やっているんですよ。すごいや。
これがレオナルドなら、絶対にできないってことを、やってるんです。頑固一徹レオナルドは、自分の技法を純真に追い求めて、完璧にやりとげることはできるけれど、これはできない。豊かな才能と技量を、惜しげもなく開放して、みんなが、いいなあと思うことをやってくれてるんです。これをやるには、よほどの器用さ、巧みさが必要だ。
天才レオナルドは、一つの技法でまっすぐにやるという不器用な天才です。だから、その人生は悲劇的なことになった。けれど、ティツィアーノの天才は、その天才を完璧に殺して、非凡でありながら平凡にすることができるという天才なのです。
自分を完璧に殺して、本当の自分をやる。きついことだけど、やれるんですね。この人は。すごい。