牛込日乘

日々の雜記と備忘録

所有という概念はもう時代遅れなんだそうだ。

2011-05-23 15:22:35 | Weblog

 このところ比較的時間に余裕があったので、合間を見て家にいくつか書棚を拵えたり作業机や文房具等がらくたの収納を改善したりしていた。三月十一日の地震の際には、幸いにも家具が倒れたりはしなかったが、書棚の天板の上に無造作に積み上げておいた文庫本の類が落ちていたり、やや小さな書棚が傾きかけたりということがあった。地震に備えてということもあるが、一年に一度くらいは部分的であっても書棚を整理し、頭の中を棚卸しする必要がある。

 この一年ほどの間に増えたのは、仕事に関するもの以外では太平洋戦争末期の旧日本軍や社会の動向に関する本だったり、あるい五十代以上の人によるエッセイや対談だったり、あるいは(全然読めていないが)数学や物理学の入門書だったり。二十代の頃、当時師匠としていた先生に私を含む弟子たちの無意識的な反知性主義的傾向を厳しく叱責されたことがあり、それ以来この経験を常に身を省みる軸にしてきたつもりだった。十五年前に比べて自分自身が知的に退化しているのかわからないが、いわゆる文化的、文学的な本はあまり読む気にならず、買っても積ん読になっている。

 世の中には文化・芸術・思想が大好きという人が一定数存在し、よくもまあ次から次へといろいろな固有名詞を繰り出してくるものだと思うが、彼らの好きな「アート」や思想の知識がその人格や見識の向上に全く貢献していない(と少なくとも私には思われる)のを見るとき、ああ、こうした知識はプロ野球マニアの頭の中に入っている打撃ランキングや有名選手のトリビア的エピソードと本質的に何が違うのだろうと思わざるを得ない。しかし、これもまた危険な態度で、ここから本来の意味での保守反動的な反知性主義までは紙一重の距離である。



 “職業不詳”の高城剛氏が四十代になるのを期に所蔵していた段ボール箱千個分の持ち物(本、レコード、服など)を処分したとか、ギタリストの土屋昌巳氏があるとき今までのスタイルを変えるために持っていたレコード数千枚を捨てたとかいう話を思い出すと、何と思い切りのいい人がいるものなんだろうかと感嘆してしまう。これはかなり高いレベルの知性(頭脳的、身体的両方の)を持っていないとできないことである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。