つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

出産への医療介入

2012-01-28 14:32:54 | 日記
中国女性史研究会で、一緒に中国農村の調査をしているYさんの現代中国の出産の近代化に関する報告を聞いて討論。中国農村では、21世紀に入って、自宅での出産から病院出産への移行が急激に起こった(都市では1950年代から病院出産が普及しており、この面でも中国の都市と農村の違いは大きい)。ところが、病院で出産すると、「胎児の首に臍の緒が巻いていて危険」などと医師から言われて帝王切開になったケースがとても多く、Yさんが調査したある村では、21世紀の8件のお産うち6件が帝王切開だった。予期せぬことに不満が残っている産婦さんも少なくない。近年、中国の医療は商業化が進んで、病院は以前と違って収益を考えなければならないため、必要以上に出産への医療介入が進んでいる、という指摘もある(帝王切開の方が病院にとっては収入になる)。
出産は病気ではないがリスクを伴うので、どれだけの医療介入が必要かは難しい。私たちの研究仲間でも、できるだけ医療介入は少ない方が良いという人と、過剰なそれは慎むべきだが適切な医療介入は必要だと考える人との間で、議論がある(何が「必要」かも難しい)。
ずいぶん前になったが、私は二回、出産を経験している。二回とも骨盤位(いわゆる逆子。ふつう胎児は頭が下にあって最初に出てくるが、逆になっている)だったが、「下から」経膣分娩で産んだ。じつは医学的には逆子は帝王切開の適応だ(逆子の場合、頭が最後に出るので、途中で帝王切開に切り替えられない分リスクが高い)。最初の時は実家近くの個人病院で、院長から「帝王切開にしますか。医者としてはその方が安心だけど」といわれたが、私は「可能なら下から産みたい」と希望した。お医者さんはレントゲンで胎児の頭囲と母体の骨盤の大きさを測って、「大丈夫でしょう。でも胎児が大きくなりすぎると危険なので、点滴で産みましょう」ということになり、結果的にちょうど予定日に促進剤で陣痛を起こして、やや大きめの3150gの子供が産まれた。私はこのお産に基本的に満足しており、適切な医療介入だったと思っている(小さな反省点はあるにしても)。
二人目の時は、自宅に近い産科がメインの賛育会病院で産んだ。逆子でも下から産むのは当然という感じで、帝王切開が話題になった記憶はない。助産師さん達は「逆子のお産は、最後まで息んではいけません」とか教えてくれて、逆子のお産も慣れたもの。この病院は現在も、VBAC(上の子を帝王切開した産婦が次を経膣分娩で産むこと)などもさせてくれる母子にフレンドリーな病院として知られている。
ひるがえって、私がなぜ「逆子でも下から産みたい」と言えたかと考えると、周りの年長の女性たちから「逆子で産んだ」人が何人もいることを聞いていたからだ。そうした女性の間での経験の継承がないと、「医師にとっては帝王切開の方が安心」に抗して自分の納得できるお産をするのは無理だったと思う。
数日前、他人の卵子を貰って50歳過ぎて子供を産んだ野田聖子元郵政相のインタビューを読んだ。彼女は若い時から政治家として頑張っていて、結婚して子供を産もうと思った時には40歳になっており、その時はじめて年齢が高くなると妊娠・出産が難しくなることを知った。不妊治療も試みたがうまくいかず、「知っていたら別の人生設計も考えたのに」という。彼女のような知識の豊富な人でも、出産にも適齢期があることを知らなかった、と知って驚いた。彼女は、結局、自分の遺伝的な子供は無理な年齢で今の夫と出会い、(日本では認められていないので)アメリカまで行って提供卵子によって子供を得た。障害児だが、多くの幸せとこれまで知らなかった世界を与えてくれている、という。
産む女性自身が満足できるお産をするためには、産むことに関する知識を持ち、きちんと自分の希望をもってしっかり医療関係者と話し合える主体となっていることが必要だ。それが「必要」な医療介入を少なくして、女性自身の負担や社会的コストを減らすことにもつながるだろう。もちろん、子供を持つことが女性のキャリアや自己実現を妨げないような社会的なシステムづくりも。

世界を変えるモノ

2012-01-11 08:33:43 | 日記
最近、iPhoneを購入した。
「お母さんにiPhone4Sの機能は必要ない」と言われて、待たずに買えたiPhone4なのだが、あまりの便利さにハマっている。なにせ携帯サイズで持ち歩いて、メールも読んで返せるし、twitterもFacebookもOK. どこの天気も気温も瞬時に出してくれるし、カメラの性能は非常にいい。マップは伸び縮みして、現在地もすぐわかる。私は動画や音楽にはあまり使わないが、そちらの性能も悪くないはず。
さまざまなアプリを入れれば、用途はさらに広がって、遊びも学びも思いのまま。
で、このところ触っていなかったiPadもひょっとして、と思ったら、しばらくの間に進化していること!
私にとって一番ありがたいのは、辞書のアプリが去年の11月頃に各種出ていたことだ。電子辞書は例文が少ないのが難点だったのだが、これは紙辞書に載っている内容全部が出てくる。しかも、関連語句へジャンプしたり、メモを書き込んだり電子の栞を挟んだり出来るし、間違いがあっても順次アップデートされるので、これはもう完全に紙辞書を超えている! 私の学科ではこれまで紙辞書を推奨してきたが、考え直す必要がありそうだ。嬉しくなって、英語と中国語の辞書と商売道具の世界史事典を購入し(紙版より割安)、iPadにダウンロードした。
しばらく使ってみると、iPhoneにも入っていると便利だと思う。心配なかれ、iCloudというサービスが始まって、iPadでもiPhoneでもiPodでも、どこかで購入したものは他の機器でも使えるようになっているとか。
こうなると、導入が面倒くさそう、等と言っていられない。覚悟を決めてやってみたら、それなりに手間はかかったが、iPhoneにも辞書を装備できた。これで、いつでもどこでも各種辞書も携帯できる。なんと便利なこと!
ついでに無線ルータも買ってきて、自宅でiPadもiPhoneも「上網(ITにつなぐ意の中国語)」出来るようにした。
ちょうどアメリカから戻った羽田空港でアップルの創設者のステーブ・ジョブズの伝記を買って、年末年始に読んだところだ。「世界を変えるすごいモノを作る」ことに対するジョブズの強い意志に感じるものがあったが、たしかにiPadやiPhoneは世界を変える。これでどのように世界が変えられるか、使い方を研究してみよう。



被災地にて(2)

2012-01-10 04:26:17 | 日記
石巻被災地

(「百聞は一見に如かず-」の続きです。)
昼食は、地元の大規模ホテル「観洋」で。地震の際は下層階を津波に洗われながらも避難所となって地域住民に大いに頼りにされ、女将の奮闘ぶりは語りぐさになっている。この日はよく晴れた良い天気で、海に突き出したガラス張りのレストランから見える太平洋は、多くの人の命を飲み込んだとは思えない穏やかさだった。海面上には養殖筏がすでにかなり浮かんでおり、牡蠣・わかめ・ほや等が育ち始めている。もっとも以前から比べれば筏はまだ半分くらいだとか。
このあたりは三陸のリアス式海岸で、入り組んだ海岸線の浦々に大小の町があったのだが、のきなみ津波にやられてしまった。どの浦も海沿いは家の基礎のみ残った更地になっていて、やや高いところに車を走らせると、「○○地区仮設住宅」の案内が幾つも目につく。この南北にもっと多くのこのような浦が続いていることを思うと、被害の大きさにくらくらする。ホテルの売店では復興・支援テーマのTシャツが売られていた。「おだづなよ!津波!!(ざけんなよ!津波!!)」と黒地に大きく白で書かれたものはあまりに直截でひるみそうになるが、そうやって気力を奮い起こして頑張っているのだ。
車を石巻に走らせて、街中の小高い日和山にある神社から海側を見る。海と日和山の間は何度も津波が往復して完全に壊滅した地域で建物もほとんど残っていない。弟は、以前石巻に通っていたことがあり、震災後はじめてみた街の変わりように涙ぐんでいた。この地域で二千人が亡くなったという。しばらくいると地元のおじさんが話しかけてきた。代々のこの地域の方で、氏子五十人の内十七人が亡くなった、という。自宅は住めなくなったが、その後も近くに移って片づけや修理を手伝っておられるとか。色々話さずにはおれない様子に、経験の重さを想う。
日和山を降りて街(のあったところ)に車を走らせると、壊滅を免れて街並みが残っていると見えた地域も、流失していない家々も浸水してドアや壁が失われており、住める状態ではないことがわかる。そのまま西へ向かって東松島へ。日が落ちて暗くなってきても、明かりのついている家は少ない。この辺りに実家があって浸水したゼミ生がいるが、彼の家は住み続けられているのだろうか。東松島市小野で道路沿いのコンビニに寄る。近くに仮設住宅がたくさんあり、よく見ればコンビニも新たに開店したもののようだ。とにかくもこの場所で生活するための努力が続けられている。
仙台に戻っても、街中のあちこちに段差があり、歩道の路肩が崩れて補修してあるところが目につく。弟のマンションは「大規模半壊」で、中央部の部屋にはかなりの亀裂が入ったとか。津波に遭わなかった地域も、これまでにない地震での被害は小さくなかった。
新幹線に二時間乗って東京に戻ると、日々の生活の表面からは震災の影はもう大きくは感じられない。だが仙台・宮城では「震災後を生きる」ことが日常であり(山形はそこまでではないように感じられた)、被災地の再建のビジョンもまだしっかりとは見えない。しかし困難は人を鍛えるというように、震災後の情況の中で成長した人の話もいくつか聞いている。願わくば日本社会全体が鍛えられてより良いものになるよう、そのために出来ることを試みたい。

百聞は一見に如かず-被災地にて(1)

2012-01-09 04:20:21 | 日記
被災地にて

年明けに山形で所用があったので、その足で仙台に出て、一日、震災の被災地を回ることにした。それで何が出来るというわけでもないが、とにかく現地に行って自分の目で被災地を見よう。仙台在住30年の弟が車を出してくれるという。
まず山形で、地震後一日間停電だったのでテレビが見れず、津波があったことを知ったのは翌日だったと聞き、現場に近いほど全体の様子がわかりにくいことを再認識。
その夜は山形と仙台の間にある秋保温泉で一泊し、秋保の元保健師さんと話す。秋保は地盤が固くて相対的に被害は少なかったが、4日間停電した。彼女は、役場勤務のお連れ合いと、地域の避難所のバックアップなどに尽力されたという。保健師・役所勤めのカップルは地方にはけっこうあって、地域の人々を熟知して日常的な暮らしを支えてきた。災害の時にはそのネットワークを活用して、地元での救援、とくに心身に不自由を抱えた方達の支援等に大きな力を発揮した。ただ、近年の町村合併で勤務地が自分の住む地域から遠くなると、そのようなネットワークがなくなってしまう、と残念がっておられた。
彼女の友人に南三陸町歌津の保健師さんがいる。南三陸町は、津波の被害が甚大だったところだ。保健師さんも自宅が流失し、役場勤務のお連れ合いと共に避難所の設立・運営の中心となって大車輪の活躍をした。「保健師のなすべき仕事を全力でやっている」と元気に連絡してきたが、身体的には無理に無理を重ねている友人のバックアップに、秋保の保健師さんはようやく車が出せる状態になると支援物資を積んで駆けつけ、また友人の過労が極限になった時には温泉に連れてきて休ませた。友人ご夫婦は、歌津に仮設住宅が設置されると最後に鍵をかけて避難所を閉鎖し、仮設に移られた、という。
翌日、弟の車で被災地を回る。東北自動車道で内陸部を北上すると、周囲の田圃に青いビニール袋がたくさん置かれているのが目につく。この辺りはいくらか放射能が検出されており、客土の為の土ではないか、気合いをいれて米作りをしている地域なんだが、と弟。
まず南三陸町志津川へ。山間から海の方へ出てゆくと、樹々が皆、ある高さで色が変わって下の葉が落ちていて、津波がどの高さまで来たかわかる。最初に海岸近くの以前は町の中心部だったらしい所へ。3階建ての鉄筋の骸骨は、防災対策庁舎の残骸だという。車を降りると、お線香の香りに気づく。防災庁舎の正面に設けられた祭壇からだ。まず亡くなった方達の冥福を祈る。この辺り、民家のあった場所はもう整理されて多くは基礎だけになっている。所々に大きな建物の残骸を残したたけで街は完全に消滅して、聞こえる音は瓦礫処理のパワーショベルの働く音のみ。海岸沿いには、整理された瓦礫の山や、積み上げられた車の残骸などが見える。瓦礫もある程度整理してあって、この日、「車の墓場」を何カ所か見た。海には船が浮かんでいるが、まだ漁をしているのではなく、おそらく海中の瓦礫を処理しているのだろう。
車に乗って隣の浦の南三陸町歌津へ。海岸沿いを走っていた気仙沼線の線路の土台が寸断されて、橋桁だけ残っていたりする。歌津の町も、海岸近くは壊滅して、もう瓦礫の処理も済んで更地になっている。海岸段丘にある段々と高くなってゆく住宅地のどこまで津波が来たか、家の情況で一目でわかる。流失してもう更地になっている場所、半壊状態の家、そのすぐ上は無傷で今も生活が続いている。高台の小学校の校庭に立てられた、一ヶ月前に開いたというプレハブの復興市場で、地元の産品を購入した。三陸名産の「ほや」がわずかに残っていたが、この後は四年後にしか採れないとか。さらに上には中学校があり、校庭に仮設住宅が並んでいる。保健師さんもここにお住まいだ。
被災地では、流出した集落をどこに再建するかをめぐって、いろいろ複雑なものがある。この地域では、地域住民には山林だった場所を拓いて宅地にしようという合意ができたが、県は「道も通っていないところは困る」と消極的。「それなら」ということで、地元住民・協力企業・NPOなどで、山を切り開いて道を造ってしまった。「未来道」という手作りの看板のかかったその道は、地域の再建へ向けての意思が具体的な形になったものだ。このような動きが行政とも良い形での連携を創って未来を拓いていくことを祈らずにはおられない。

新しい年に

2012-01-03 08:41:09 | 日記
2011年が終わり、新しい年が始まった。
旧い年、考えても見なかった大地震に津波、そして原発事故によって大きな被害がもたらされた。そしてそれに対する政府などの対応や世の中の反応にも、様々なことを考えざるを得なかった年だった。
個人的には、日本と中国語圏でしか過ごしたことがなかった私が、はじめてアメリカ暮らしを経験をした。
年末年始は、日本へ戻って東京の自宅で家族と過ごした。食卓に夫婦と子供二人に義母の5人がそろうのは、我が家の場合、年に何回かしかない。私は(原稿の〆切を気にしつつ)、お節料理を作ったりして久々の主婦モード。去年は春から一人で国外だった私は、この間はどっぷり家族と過ごして脱力していた。昨年、認知症の始まった義母は、「お正月にはみんなそろう」ことを楽しみに、ずいぶん不安だったに違いない毎日を頑張って暮らしてきた。お正月は嬉しかったようでハイテンションになり、疲れないかと心配したが、まずは楽しく年末年始の節目を過ごせたようだ。
元旦早々にけっこう大きな地震があって、まだまだ気を許せない、とあらためて思わされた新年でもあった。この間もずっと、経産省前テントには脱原発を訴えて座り込みを続けた人たちがいただろうし、沖縄では辺野古への基地移設に向けたアセス評価書の年内提出を阻止すべく県庁で監視を続けている人たちがいた。昨年、よりはっきりと明らかになった社会のゆがみを糺そうと行動し続けている人たちがいること、そして地震・津波と原発事故のため一年前とは大きく変わったお正月を過ごさざるを得なかった人がたくさんいることに思いを致しながら、まずは自分の家族との関係を大事に過ごした。(仕事を気にしつつ・・・原稿が,・・・・)
新しい年が皆にとってよい年になりますように。とりわけ昨年、理不尽に辛い思いを強いられた人達にとって。
そして私は、自分の場所でなすべきことをしっかり果たして、それがきちんと機能する公正な社会を実現することに繋がるようにしてゆきたい。