つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

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中国風信23 歩平先生の逝去を悼むー日中の歴史認識の相互理解を求めて(『粉体技術』8-10, 2016.10より転載)

2017-09-18 00:13:54 | 日記
 今年(2016年)の終戦記念の日、歩平先生が前日8月14日に亡くなったというニュースに接した。中国社会科学院近代史研究所の所長であった歩平先生は、一般にはなじみが薄いかもしれないが、私たち歴史研究者の間では知られた人だ。日中関係史を専門とし、日中戦争をめぐる歴史認識についての両国間の相互理解を深めるべく、大きな力を注いでこられた。ご逝去は本当に残念である。
 歩平先生に初めてお会いしたのは、2001年に新潟で開かれた「東北アジア歴史像の共有を求めてⅡ」シンポジウムだったと記憶する。当時、黒竜江省社会科学院におられた先生は、「21世紀に向けての日中関係と歴史認識」という報告の中で、自身の“相互理解”に関する経験を話された。
 1948年生まれの歩平先生は、日本軍による重慶大空襲で親しい友人を亡くした父の話など、子供のころから日本が中国を侵略した残酷さを聞いて育ち、“日本の鬼”のイメージを強く持っていた。
 1986年に初めて日本を訪れた時、日本各地に広島や長崎の原爆被害を追悼する施設があるのを見て、鬼のような人々がなぜそのように自分の被害を強調するのかわからず、中国人として感情の上で受け入れにくかった。1994年に広島の原爆資料館を見学した時、絶対多数の被害者が直接戦争に参加していない女性や子供であることを知り、彼らが血まみれになって廃墟の中をもがいている姿に震撼した。とくに印象深かったのは、被爆した学生が遺した黒く焼け焦げた弁当箱で、天真爛漫に通学路を歩いていた子供たちが見えるように感じた。また、瀬戸内の大久野島の旅館で、かつて広島の被爆者の救護活動に参加した友人から当時の人々の苦難を聞き、戦争と平和の問題を明け方まで飲みつつ話した。その時から、日本各地で被爆者が追悼される理由がわかりはじめ、自分も手を合わせて追悼の念を表すようになった。
 日本人の戦争での被害について、多くの中国人はそれを知らず、自分も原爆資料館を見学したり多くの日本人と交流したりしなかったら、日本国民の戦争被害の感情を理解できなかったろう。
 同様に多くの日本人は、中国人の戦争における被害を深く理解することはできないし、中国人の戦争の被害者としての認識や感情がわからない。中国人と日本人は異なる社会環境になって、互いの歴史認識に大きな相違がある。この意味で、重要なことは相互理解である、と。
 大柄な先生が、訥々とした日本語で、ゆっくりと話されたこの報告に、私は強い印象を受けた。その後、2004年に歩平先生は北京の社会科学院に移って近代史研究所長の要職に就かれた。2006年、安倍総理と胡錦濤主席との会談で日中歴史共同研究の開始が合意され、その年の暮れに共同研究はスタートする。中国側委員会の座長は歩平先生で、その学識と人柄から、日中間の歴史認識の溝の縮小をめざすこの仕事に、もっともふさわしい人選だと思えた。
 日中歴史共同研究委員会は、三年の間、時に厳しく対立しながらも精力的に会合を重ねて意見を交換し、2010年1月に報告書を提出し、2014年に公刊されている。それによると、共同研究は終始真剣、率直で友好的雰囲気の中で進められ、両国の研究者は、学術的かつ冷静、客観的に討論し、討論や論争を進める中で相互理解を深めて、「たとえ相手の意見に賛成できなくとも、相手がそう考えるのはある程度理解できる」という学術研究領域の段階に達した。この意味で日中歴史共同研究は大きな成功をおさめ、今後の日中の相互理解の促進に建設的な意義があった、という。
歩平先生が、「私の名前は、ほ・へいと言います。ほは歩く、へいは兵隊の兵ではなくて、平和の平です」とおっしゃっていたの思い出す。謹んでご冥福をお祈りしたい。

【北岡伸一・歩平編『「日中歴史共同研究」報告書1・2』
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