つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

百聞は一見に如かず-被災地にて(1)

2012-01-09 04:20:21 | 日記
被災地にて

年明けに山形で所用があったので、その足で仙台に出て、一日、震災の被災地を回ることにした。それで何が出来るというわけでもないが、とにかく現地に行って自分の目で被災地を見よう。仙台在住30年の弟が車を出してくれるという。
まず山形で、地震後一日間停電だったのでテレビが見れず、津波があったことを知ったのは翌日だったと聞き、現場に近いほど全体の様子がわかりにくいことを再認識。
その夜は山形と仙台の間にある秋保温泉で一泊し、秋保の元保健師さんと話す。秋保は地盤が固くて相対的に被害は少なかったが、4日間停電した。彼女は、役場勤務のお連れ合いと、地域の避難所のバックアップなどに尽力されたという。保健師・役所勤めのカップルは地方にはけっこうあって、地域の人々を熟知して日常的な暮らしを支えてきた。災害の時にはそのネットワークを活用して、地元での救援、とくに心身に不自由を抱えた方達の支援等に大きな力を発揮した。ただ、近年の町村合併で勤務地が自分の住む地域から遠くなると、そのようなネットワークがなくなってしまう、と残念がっておられた。
彼女の友人に南三陸町歌津の保健師さんがいる。南三陸町は、津波の被害が甚大だったところだ。保健師さんも自宅が流失し、役場勤務のお連れ合いと共に避難所の設立・運営の中心となって大車輪の活躍をした。「保健師のなすべき仕事を全力でやっている」と元気に連絡してきたが、身体的には無理に無理を重ねている友人のバックアップに、秋保の保健師さんはようやく車が出せる状態になると支援物資を積んで駆けつけ、また友人の過労が極限になった時には温泉に連れてきて休ませた。友人ご夫婦は、歌津に仮設住宅が設置されると最後に鍵をかけて避難所を閉鎖し、仮設に移られた、という。
翌日、弟の車で被災地を回る。東北自動車道で内陸部を北上すると、周囲の田圃に青いビニール袋がたくさん置かれているのが目につく。この辺りはいくらか放射能が検出されており、客土の為の土ではないか、気合いをいれて米作りをしている地域なんだが、と弟。
まず南三陸町志津川へ。山間から海の方へ出てゆくと、樹々が皆、ある高さで色が変わって下の葉が落ちていて、津波がどの高さまで来たかわかる。最初に海岸近くの以前は町の中心部だったらしい所へ。3階建ての鉄筋の骸骨は、防災対策庁舎の残骸だという。車を降りると、お線香の香りに気づく。防災庁舎の正面に設けられた祭壇からだ。まず亡くなった方達の冥福を祈る。この辺り、民家のあった場所はもう整理されて多くは基礎だけになっている。所々に大きな建物の残骸を残したたけで街は完全に消滅して、聞こえる音は瓦礫処理のパワーショベルの働く音のみ。海岸沿いには、整理された瓦礫の山や、積み上げられた車の残骸などが見える。瓦礫もある程度整理してあって、この日、「車の墓場」を何カ所か見た。海には船が浮かんでいるが、まだ漁をしているのではなく、おそらく海中の瓦礫を処理しているのだろう。
車に乗って隣の浦の南三陸町歌津へ。海岸沿いを走っていた気仙沼線の線路の土台が寸断されて、橋桁だけ残っていたりする。歌津の町も、海岸近くは壊滅して、もう瓦礫の処理も済んで更地になっている。海岸段丘にある段々と高くなってゆく住宅地のどこまで津波が来たか、家の情況で一目でわかる。流失してもう更地になっている場所、半壊状態の家、そのすぐ上は無傷で今も生活が続いている。高台の小学校の校庭に立てられた、一ヶ月前に開いたというプレハブの復興市場で、地元の産品を購入した。三陸名産の「ほや」がわずかに残っていたが、この後は四年後にしか採れないとか。さらに上には中学校があり、校庭に仮設住宅が並んでいる。保健師さんもここにお住まいだ。
被災地では、流出した集落をどこに再建するかをめぐって、いろいろ複雑なものがある。この地域では、地域住民には山林だった場所を拓いて宅地にしようという合意ができたが、県は「道も通っていないところは困る」と消極的。「それなら」ということで、地元住民・協力企業・NPOなどで、山を切り開いて道を造ってしまった。「未来道」という手作りの看板のかかったその道は、地域の再建へ向けての意思が具体的な形になったものだ。このような動きが行政とも良い形での連携を創って未来を拓いていくことを祈らずにはおられない。