つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

被災地にて(2)

2012-01-10 04:26:17 | 日記
石巻被災地

(「百聞は一見に如かず-」の続きです。)
昼食は、地元の大規模ホテル「観洋」で。地震の際は下層階を津波に洗われながらも避難所となって地域住民に大いに頼りにされ、女将の奮闘ぶりは語りぐさになっている。この日はよく晴れた良い天気で、海に突き出したガラス張りのレストランから見える太平洋は、多くの人の命を飲み込んだとは思えない穏やかさだった。海面上には養殖筏がすでにかなり浮かんでおり、牡蠣・わかめ・ほや等が育ち始めている。もっとも以前から比べれば筏はまだ半分くらいだとか。
このあたりは三陸のリアス式海岸で、入り組んだ海岸線の浦々に大小の町があったのだが、のきなみ津波にやられてしまった。どの浦も海沿いは家の基礎のみ残った更地になっていて、やや高いところに車を走らせると、「○○地区仮設住宅」の案内が幾つも目につく。この南北にもっと多くのこのような浦が続いていることを思うと、被害の大きさにくらくらする。ホテルの売店では復興・支援テーマのTシャツが売られていた。「おだづなよ!津波!!(ざけんなよ!津波!!)」と黒地に大きく白で書かれたものはあまりに直截でひるみそうになるが、そうやって気力を奮い起こして頑張っているのだ。
車を石巻に走らせて、街中の小高い日和山にある神社から海側を見る。海と日和山の間は何度も津波が往復して完全に壊滅した地域で建物もほとんど残っていない。弟は、以前石巻に通っていたことがあり、震災後はじめてみた街の変わりように涙ぐんでいた。この地域で二千人が亡くなったという。しばらくいると地元のおじさんが話しかけてきた。代々のこの地域の方で、氏子五十人の内十七人が亡くなった、という。自宅は住めなくなったが、その後も近くに移って片づけや修理を手伝っておられるとか。色々話さずにはおれない様子に、経験の重さを想う。
日和山を降りて街(のあったところ)に車を走らせると、壊滅を免れて街並みが残っていると見えた地域も、流失していない家々も浸水してドアや壁が失われており、住める状態ではないことがわかる。そのまま西へ向かって東松島へ。日が落ちて暗くなってきても、明かりのついている家は少ない。この辺りに実家があって浸水したゼミ生がいるが、彼の家は住み続けられているのだろうか。東松島市小野で道路沿いのコンビニに寄る。近くに仮設住宅がたくさんあり、よく見ればコンビニも新たに開店したもののようだ。とにかくもこの場所で生活するための努力が続けられている。
仙台に戻っても、街中のあちこちに段差があり、歩道の路肩が崩れて補修してあるところが目につく。弟のマンションは「大規模半壊」で、中央部の部屋にはかなりの亀裂が入ったとか。津波に遭わなかった地域も、これまでにない地震での被害は小さくなかった。
新幹線に二時間乗って東京に戻ると、日々の生活の表面からは震災の影はもう大きくは感じられない。だが仙台・宮城では「震災後を生きる」ことが日常であり(山形はそこまでではないように感じられた)、被災地の再建のビジョンもまだしっかりとは見えない。しかし困難は人を鍛えるというように、震災後の情況の中で成長した人の話もいくつか聞いている。願わくば日本社会全体が鍛えられてより良いものになるよう、そのために出来ることを試みたい。