つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

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日本上海史研究会<近代上海における日本文化を考える>ワークショップ

2013-08-31 10:25:26 | 日記

上海に着いて、8月31日、日本上海史研究会の仲間と<近代上海における日本文化を考える>ワークショップを開催した。
戦前も、現在も、アジアの有数の国際都市である上海には、多くの日本人も生活している。彼ら彼女らはどのように上海を認識し、また上海社会で日本人はどのように受容されたのか。上海の研究者や日本文学の研究グループからも報告をお願いして、今回は特に武田泰淳、内山完造やまた日中戦争期の日本人の上海ツーリズムを具体例に取り上げて、活発な議論が展開された。参加したのは、我々日本上海史研究会のメンバー、大阪学院大学を拠点とする中日文化協会に関する共同研究グループのメンバー、旧知の上海の研究者たち、そして現在の上海在住日本人(上海和僑)の方たちである。歴史研究者の私には、文学研究者による、中国人の場所・西洋人の場所・日本人の場所の交錯する上海の都市空間の構造を小説のテキストから読み解く方法なども、興味深いものだった。
会場は上海豊田紡織廠記念館をお借りし、会議の前に展示を参観した。ここは以前の上海豊田紡織廠の場所で、豊田作吉翁が晩年の1920年代の六年間、上海に住んで紡織業と紡織機械製造業の会社を作り、産業発展に努力した場所だ。当時、世界最先端のG型自動織機の実演などが興味深かった。工場の食堂だったという、当時の雰囲気を残した煉瓦造りの風情ある会議室で、上海の日本人の歴史を体感しながらのワークショップだった。
戦前の上海には、多い時で10万人の日本人が生活していた。現在は、約12万人の日本人が上海に暮らしているという。現在の上海の日本人社会は、開かれた、中国人社会と日常的に交流し融合したものになっており、戦前とは同じでない。国際結婚も多く、この日も夫婦で参加してくれた日中カップルもいた。最先端の日中学術交流を、上海の実業界の第一線で活躍している和僑の人々に知ってもらうという点でも意味のある会だったといえる。
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岳陽にて-地方都市と農村

2013-08-28 11:14:11 | 日記

(村の遠景)
湖北省襄陽での社会史学会を終えて、湖南省岳陽に来た。まず襄陽から約300㎞の漢水と長江の合流点である武漢に向かい、それから約240㎞ほど南下して洞庭湖畔の岳陽まで、汽車で7時間かかった。(ちなみに「陽」の字がつくのは川の南・山の北にある町で、襄陽は漢水の南、岳陽は長江の南にある)
岳陽は湖南省北部の岳陽地区の中心で、省内第三の高層ビルの建ち並ぶ地方都市である。都市部の人口は250万人余。この地区の農村で以前フィールドワークをしたことがあり、その後の様子を見ようと三年ぶりにやってきた。翌日、現地の知人の車で、洞庭湖大橋を渡り、まず県へ向かう(中国の行政区画は、省-地区ー県-(鎮)-郷-村、が基本)。「八百里洞庭」と謳われた洞庭湖は、現在では湖水が縮小してずいぶん小さくなっているが、このあたりの農村は「魚米之郷」と称えられてきた所で、みどり豊かな田園風景は、絵のように美しい。岳陽近くでは、道路脇にブドウ畑が並び、ちょうど葡萄の実る季節で岳陽の街の人目当ての観光葡萄園が並んでいた。
一時間ほど走って、県政府所在地に着く。三年前の印象では、ここは中心部にやや古びた5階建てのビルが並ぶ、ひなびた田舎町だった。ただ夜になると、広東省の深圳あたりへの出かせぎで稼いできた人たちがお金を使うのでネオンの眩い不夜城の様相を呈していた。ところが今回行ってみると、片側三車線で中央分離帯やピカピカの街灯のある新しい道が縦横に走って、街の雰囲気が一新していて驚いた。両側の建物は以前からのものだが、道路の拡張に伴って移転した事務所もかなりありそうだ。綿花の加工品などを作る県の「工業集中区」などの看板も見える。遠くには、なんと二十数階建ての高層マンションが建築中で、「売出し中」の看板が掛かっていた。昼食を食べにレストランに入る際には、車を停める場所を見つけるのに苦労した。自動車の数もずいぶん増えている。
県を出て郷政府のある町までさらに一時間ほど走る。この間の道は、アスファルトではなくコンクリ舗装で、県で整備した道だという。郷中心部は、二階建ての店などが並ぶ町で、社会主義時代は人民公社の中心だった。ここは3年前からそんなに変わっていない。郷中心部から村までは、車ではほんの十分弱である。県道を曲がって、車一台が通れるコンクリートの道になったら、もう村の中だ。ちなみに、村の道は、政府からの補助と村民の出資とで整備したもので、誰がいくら出したかを書いた掲示が掲げられていた。村の中は、建て替えられた家がいくらかあるくらいで、ちょっと見たところ三年前とそう変わっていない。村の主要産物は綿花で、今年、水稲は飯米以外は作らなくなったというが、主要な収入源は農業ではなくて、出稼ぎである。各家庭では、大型カラーテレビ、冷凍冷蔵庫、エアコンなどの電化製品が、この何年来、着実に増えていて、「貧しかった昔」とは変わって、生活がだんだん豊かになっていくのが当たり前の感覚になっている。中国のあちこちの田舎の、億を以て数える人々が、以前より豊かになったという実感を基に、さらに豊かになろうと頑張って働いているとしたら、いろいろな矛盾を抱えながらも、中国の経済発展は当分続くだろう。三年後に来たら、今度は郷の中心町が大きく変わっているかもね、と知人と冗談を言い合った。

岳陽の街

洞庭湖大橋

葡萄売り

県の町並み

郷の町並み

村の道
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第5回中国近代社会史国際学術討論会-襄陽にて

2013-08-27 09:44:05 | 日記


中国は湖北省襄陽で開かれた第5回中国近代社会史国際学術討論会に参加した。
この学会は、中国社会科学院近代史研究所の李長莉教授が中心になって、2年ごとに場所を変えて各地の研究機関や大学と共同で開いているもので、今回は湖北大学との共催だった。私は初めての参加で、日中関係緊張の折、とにかくいろいろな中国の研究者との交流の機会を持とうという気持ちもあって日程を調整して襄陽までやって来た。
会議の場で、旧知の中国の研究者や、初対面のよい仕事をしている人たちに囲まれると、日中関係の悪化など忘れてしまう。この20年間に重ねてきた中身のある学術交流は、顔を見ればすぐに研究上の議論の続きを始めよう、という空気を当たり前にしていた。それでも一応、報告の前に「政府間の関係がどうであれ、我々は真摯な学術交流を深めよう」という一言を付け加えたけれど(こういうことは、言葉に出して確認することも意味がある)。
討論会の内容で、特筆すべきは女性史・ジェンダー史関係の報告の多さだ。社会史の学会とはいえ、全体のほぼ三分の一がこの分野だったのには驚いた。婚姻問題・女性の自殺・農村の巫女などテーマは多岐にわたっていて、具体的な事例を様々な資料から紹介しながらその意味を論じている。中国における女性史・ジェンダー史の研究の進展を実感して、参加して良かったと思った。
私は「中国農村計画生育的普及-囲繞生殖的技術与権力」のタイトルで、1960-70年代の中国東北地方のある農村の計画出産の普及について報告した。「一人っ子政策」に関わるこの問題は「敏感」なところがあるので、中国の歴史研究者は敢えて研究しようとはしないテーマだ。しかし自身の生活や経歴に関するこのテーマについて、言いたいことはみないろいろあるようで、報告の後、たくさんの人から話しかけられた。きちんと学術的なやり方でこの問題を取り上げ、中国国内の学会で報告したことには、意味があったと考えよう。すでに「一人っ子政策」に関する社会的な矛盾のピークを過ぎた現在、学術的この問題を取り上げることはできるはずだ。
会議が終わって、翌日はエクスカーション。北京の社会科学院の皆は、近くの武当山に登るのだ、と一泊で出かけて行った。若い研究者にとっては金庸の小説に出てくる武道のメッカは人気のあるパワースポットのような感じらしい。日本からの数名の参加者は、そんな元気と時間に恵まれずに、市内の三国志ゆかりの古隆中(劉備が諸葛孔明を三顧の礼で訪れたところ)や米公祠(北宋の書家・米芾を記念する)などの参観に行った。
襄陽城の城壁は、三国時代の荊州牧劉表の創建にかかるもので、現在も明代に修築された城壁が漢水の南岸に古い街を取り巻いている。午後には暑い中、漢水を渡し船でしばらく遊覧。少なくない人が漢水で水泳を楽しんでいた。省都の武漢などとは違った、ちょっとのんびりした地方都市の風情だった。


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ヨーロッパの衰退と世界の平準化?-フランスにて

2013-08-01 07:15:45 | 日記

マンチェスターでの学会を終えて、フランスに来ている。学生時代に一度ツァーで来て以来で、ほとんど初めてのヨーロッパなのでお上りさん状態である。
古い友人のNさんがブルターニュの小さな町に住んでいるのを訪ねた。お連れ合いはフランス人のコンピューター技術者で、3人の男の子のいる彼女のお宅に、「フランスの庶民の生活を見ていって」という言葉に甘えておじゃまし、モン・サン・ミッシェルなどの観光地にも連れて行って頂いた。
モン・サン・ミッシェルに私達が着いた時には大嵐で、雨風の中をかなりの距離を歩いて、巡礼の気分で修道院兼教会を訪れたのは良い経験だったが、付き合わせたNさん夫妻には申し訳なかった。巡礼の気分になれたもう一つの理由は、観光客がとても少なかったことだ。7月末のバカンスの季節の週末だったにもかかわらず、混雑というほどのことはなく、ゆっくり見て回ることが出来た。サン・マロは英仏海峡を望む港町で、日本のガイドブックにも小さく載ってはいるが、観光客は基本的にフランス国内からの人が中心だ。こういう所に人が来ていない、というのは、フランスがよっぽど景気が悪くて、皆がバカンスを楽しめないでいる、ということらしい。Nさんのお連れ合いの両親の頃は、フランスの人々は5週間くらいバカンスをとり、3週間くらい海などの保養地に出かけてゆっくり楽しむことが普通に出来ていた、という。しかし近年そのようなゆとりのある暮らし方は過去のものになり、とりわけヨーロッパの金融危機の影響でこのところ皆大変になっている。最近は3週間くらいの夏休みを取るのがせいぜいになっている、とか。その昔、話にきいた長いバカンスを本当に皆が取っていた、というのもすごいと思ったが、それが今は無理になったというのは、ここにもまたグローバリゼーションの波がそれなりの仕方で及んでいるらしい。
日本人もフランス人も少なくなったモン・サン・ミシェルやパリの有名観光地の売り上げを救っているのは、近年増えた中国人観光客(とロシア人観光客)だ、という事情は日本の観光地と似たものがある。中国の人々(といっても中間層以上の人たち)が海外に観光旅行に行くようになったのはここ数年で、商業ツーリズムに目覚めた彼らは今、あちこちに出かけて、買い物しまくってみたくて堪らないようだ(たぶん一世代前の日本人のように)。一世代前の中国人にはそれは夢のまた夢だったことを思えば、多くの国の人が旅行を楽しめるようになったのは、悪いことではないのかもしれない。欧米に偏在していた富が日本に移動し、今は中国に動いている。それでもまだ、ほとんどの日本人や中国人にとっては、三週間の夏休みは望みがたいことを思えば、少しばかり世界が平準化する時にフランス人の休暇が短くなるのはやむを得ないのかどうか、よくわからないけれど。

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