つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

上海のお産

2012-07-30 17:08:59 | 日記
今回の上海では、ワークショップ以外にも重要なできごとがあった。知人の出産に付き添ったのだ。
旧知のAさんは、昨年から夫の上海赴任に伴って上海に住んでおり、こちらで妊娠し、こちらで産むことにした。朝、入院したという連絡を受け、ワークショップが終わると、参加者との昼食を抜けて急いで産院へ。国際和平婦幼保健院という、中国で最高水準を誇る大型の産婦人科専門病院だ。
中国では日本より帝王切開が多いが、彼女は自然分娩を希望しており、主治医(女性。中国の産婦人科医は女性が圧倒的に多い)も了解していた。
15階のVIP病棟へ直行すると、入院する病室かと思った部屋はLDR(陣痛から出産、産後の休養まで過ごせる設備のある部屋。家族の付き添い付きも可)だった。ゆったりしたホテルのような部屋にバスルームもついていて、窓から光も入ってゆったりした雰囲気だ。昨夜から陣痛が始まって、明け方に入院し、陣痛がひどくなったので、昼に無痛分娩のための下半身の麻酔をうって、少し落ち着いた状態だった。昨夜から付き添っている夫とともに寝不足気味。担当になった助産士がまめに様子を見に来るし、分娩監視装置でナースステーションでも陣痛の様子や胎児の心音を常時確認している。処置について説明してくれるし(Aさんは中国育ちで中国語はできる)、「VIP病棟だからか、中国の病院とは信じられないくらい態度がいい」という。たしかに、その後も「大丈夫、心配いらないから」などと常に声かけして、フレンドリーだった。
11時頃から陣痛がひどくなって、一時間くらい大きな声で「痛い、痛い」と叫んで辛かった、というが、麻酔をかけた後は、痛みはない。朝から陣痛は5分間隔なのだが、子宮口の開きが遅くてお産があまり進まないので、2時に人工破水させる。相変わらず5分間隔で、3時に陣痛促進剤(子宮の収縮を強める。中国語で「催産素」)の最も少ない量を点滴を始めた。少し子宮の収縮が強くなってお腹に痛みを感じるが、期待したほどにお産は進まない。促進剤の量を増やすと、子宮の収縮は強まるが、胎児の心拍が下がり(あまり低くなると危険になる)、あちらを立てればこちらが立たない状態になった。主治医がやってきて、どうしてもお産が進まないなら帝王切開になるが、もうしばらく促進剤を増やしたり減らしたりしながら様子を見よう、という。
促進剤を最初の7倍まで増やしてみたりしたが、5時前になって、胎児の心拍が下がりすぎることが3回起こった。担当の助産士が「これは帝王切開しないといけない」と言い、4人の医師・助産士が部屋にやってきて分娩監視装置の記録を確認して手術と決定。自然分娩を強く希望していたAさんは、事態の展開に動揺を隠せず、夫は中国語がわからないことも手伝って呆然とした感じだが、同意書にサインを求められて応じた。Aさんは気丈にももう一度、「もう少し頑張って経膣分娩はできないか」と助産士に聞くが、毅然として「それはダメ。もう羊水がないので、これ以上胎児が出てこないと危険になる」と言われる。「安心して。ここの手術は何も心配いらないから」とも。
傍目にみていた私にも、自然分娩できなかったのはやや残念だが、様子を見ながら効果があると思われる医療処置を少しずつ加えた結果であり、病院の対応は妥当なものだと思えた。この病院は三級甲の全国最高ランクで、手術に不安はない。
5時15分に3階の手術室に入る。夫と私は外で待機。一時間くらいかかり、産まれたらその場で産婦に見せ、手術室の外にいる夫にも見せに来る、という。6時過ぎに声がかかり、出てきたばかりの新生児を見せてもらう。処置が終わるまでさらに半時間ほど待って、Aさんと赤ちゃんと共にVIP病棟の病室へ。
5日間入院する部屋はLDRのすぐそばで、同じ造りだが出産のための機器などはないホテル様の部屋だ。ソファもあるので家族も仮眠できる。赤ちゃんはベビー用ベッドに寝かせて、24時間母子同室だ。Aさんはまだ麻酔が覚めずに寝ているが、胸をはだけて赤ちゃんに乳首をすわせ、カンガルーケアをする。麻酔の覚めるのは深夜になるだろう、という。
赤ちゃんは可愛くて、見ていて飽きない。3時間前にはお腹の中にいたなんて、やっぱり不思議だ。夫と食事に出て祝杯を挙げて、ホテルに戻る。
初めての子供を、どちらの家族も近くにいない慣れない上海で産むのは、Aさんも夫も不安は大きかったろうが、どのように産みたいか自分で考え、必要な情報を集めて準備し、希望を伝えて出産に望んだAさんはとても立派だ。ずっと側にいた夫からも、二人で子供を育ててゆくという静かな決意が伝わってきた。彼女たちの選んだやり方は、この間いくらかこの方面について調べていた私の眼からも妥当なものだ。このような主体的な姿勢で出産・子育てに取り組むAさん達の子供は、きっとステキな子に育つことだろう。

1950年代中国研究ワークショップ

2012-07-29 10:29:56 | 日記
華東師範大学で「中国当代史研究ワークショップ」に参加する。これは、華東師範大学と京都大学それぞれの中国現代史の研究センターが共催する1950年代中国史に関するワークショップで、全体の参加者は20数名、報告は合計11本の、小規模だが大変密度の高いものだった。
「若手の研究報告を」という申し合わせだったが、日本側はほとんど30代の研究者が報告したのに比べて、中国側は第一線の著名な研究者の報告が続き、それに若干の若手が加わった。しかし若手も壮年も、苦労して集めた一次資料に基づく斬新な報告が続き、議論も儀礼的でなくかなり厳しい学術的批判も含んだ率直な意見が飛び交うという、非常に内容の濃いワークショップだった。
中華人民共和国成立直後の1950年代は、現代中国の政治・社会・文化・経済・外交などのシステムが構築された重要な時期だが、これまでは研究は多くなくて、この数年の間に急速に研究が進展しだしている。この時期の研究は中国共産党の統治の正当性とも直接関わるだけにタブーとされてきたものも多かったが、そうした点にも大胆に切り込み、現代中国の表裏を学術的な批判に耐えるレベルで明らかにしようという熱意が伝わってくる。近年躍進めざましい中国の研究だけでなく、日本でもしっかりした研究成果を挙げ、国際会議で積極的に発言する若手が何人も育っていることもわかって頼もしく、充実した一日半を過ごした。


上海

2012-07-27 12:34:27 | 日記
昨日、前期の授業を終えて、上海へやってきた。
今回は、旧知の研究者たちが企画した華東師範大学での日中共催のワークショップに参加することを主目的として一週間。
着いたとたんに、街のざわめきとムッとする熱気を感じて「上海へ来た!」と実感。
翌朝、ホテル9階の部屋で強烈な朝日で目を覚ます。すぐに目の前の長風公園へ、散歩とあわよくば太極拳に出かける。道路を横切ろうとして、青信号でもすごいスピードで右折してくる車に冷や冷やし、「ここは上海。ぼやぼやしてたら蹴飛ばされてしまう。気合いを入れてこの街のエネルギーに負けずに頑張らなくてはいけない」ことを思い出す。
公園では期待通り太極拳をしている人たちがいて、私も混ざって一汗かいた。皆で一緒に太極拳をするのはアメリカ以来。アメリカのグループのとは順番が違うが、同じ流派の楊式(ヤン・スタイル)のものなので、何とかわかる。日本でも、こういうグループがあちこちにあればいいのにな。
上海は東京以上に暑いけど、一週間を充分楽しむことにしよう!

恩師と母校

2012-07-22 12:55:22 | 日記
中学・高校時代の恩師の古稀祝賀会に参加した。
この方は中高一貫で通っていた母校の体育の先生で、中学時代は体育の授業で、高校時代は陸上部の顧問としてお世話になった。
円盤投げが専門で、「ゴリ(ラ)」のあだ名の通り日に焼けてたくましく、大変頼りがいがあったこの先生は、私たちにはとても大きな存在だった。陸上部の練習や合宿でお世話になっただけでなく、春休みに友人たちとスキーに連れて行ってもらったり、卒業後もクラブに顔を出しては話し込んだりと、師弟の枠を超えて本当によくつきあってもらった。
現在、教員の仕事をしているが、この先生のように真摯に学生に関わっているか、的確に個々の生徒に情理ある対応ができているかと考えると、本当に恥じ入るばかりである。考えてみれば、出会った頃の彼はまだ20代で、高校陸上部でご指導頂いていた頃は30歳を出たばかりだったはずだ。その年齢で、あれだけの生徒への影響力があったというのは、指導者として人間としてとても大きな人だったのだと改めて思うが、当時はそのような先生方(そういう素晴らしい先生は何人もおられた)に精一杯「遊んで」もらうのが当たり前だと思って青春を謳歌していた。何とも贅沢なことである。
昔この先生と話していて、「この前、俺がオリンピックをあきらめたのはいつ頃だったかな、とふと考えた」と言われて、大学時代、この人は真面目にオリンピックをめざして練習していたのだな、と思ったことがある。運動オンチだった高校時代の私には、オリンピックに出る人、というのは遠い世界の人だった。
今の勤務先の日本大学文理学部からは、体育学科の学生をはじめ、今回のロンドン・オリンピックにも何人かが出場する。私の中国語中国文化学科には、中国語などで最高をめざして頑張っている学生がたくさんいる。恩師に負けずに、真摯に生きる若者にきちんと向き合ってゆきたい。


大阪大学歴史教育研究会

2012-07-21 23:03:36 | 日記
大阪大学まで出張して、同大学の歴史教育研究会という、阪大関係の研究者・院生と高校などの現場の日本史・世界史の先生方が参加する研究会に出席しました。今季のテーマはジェンダーだそうで、本日は中国前近代史のジェンダー構造に関する報告とコメント・討論がありました。
この研究会では、あえて専門でない分野を若手に報告させて、皆がどの分野でも最先端の研究を吸収して教えることができるようにしているということです。私は別のグループの仲間と、ジェンダー視点を生かした歴史教育の内容を考える共同研究を進めており、阪大の試みから勉強しようと思って参加させていただきました。
日本の中国史では、ジェンダー分野の研究は大変遅れています。高校教科書の関連記述も非常に少なく、あっても男尊女卑を再生産しかねない記述など問題が大きいものも見受けられます。このような中で、中国ジェンダー史を皆で学習しようという試みは非常に貴重で、若い報告者はよく頑張って勉強しており、関連分野の専門研究者二人によるコメントも、非常に興味深いものでした。各分野の研究者や高校教員など、さまざまな立場の方が積極的に意見を出して活発な議論が展開される様子からは、阪大のこの間の高大連携の試みが成果を挙げてきていることがよくわかりました。
とはいえ、この分野の研究の不充分さを反映して、充分にジェンダー視点を生かした教育内容の提起にはまだ距離があるとも感じられ、この分野のこれまでの研究成果を掘り起こして、ジェンダー視点からの中国史の構築のための議論の場をたくさん作っていく必要を改めて感じました。
近くのお店での二次会でも、活発な議論が続き、私は実家に顔を出すため失礼しましたが、さらに深夜まで議論を続けるべく甘いもののお店に向かったグループも。よくしゃべり、たくさんの人と交流できた充実した会でした。

尖閣諸島問題の歴史的背景

2012-07-16 01:20:20 | 日記
昨日今日と勤務先の日本大学文理学部のオープンキャンパスでした。
私は中国語中国文化学科の模擬授業の担当で、大学を見に見た高校生(とその親御さん)に、「尖閣諸島問題の歴史的背景」と題して、現在、日中間の懸案となっている尖閣諸島問題に関連する歴史を講じました。
内容を簡単に紹介すると:
尖閣諸島(釣魚島)に関して、日本政府は、1885年以降、どこの国も支配していないことを確認して日本の領土とした、と主張している。一方、中国は、16世紀から文献にこの島の記載があり、中国の領土である、と主張している。日本はこの島嶼は沖縄(日本に所属)の一部であり、中国は台湾(中国に所属)の一部である、としていることが争点となっている。
中国最初の世界地図『坤輿万国全図』(1602)には、「台湾」の記載は見えず、台湾を指すともいわれる「小琉球」と、「大琉球」(沖縄)の位置関係は正確でない。この地図に「釣魚島」は見えない。
沖縄の歴史を見てみると、14世紀から尚氏の琉球国が明に朝貢しており、1609年からは薩摩藩島津氏に降伏して、19世紀末まで清と島津氏との両方に服属する「両属」の状態で、日本・清・東南アジア間の中継貿易を行っていた。明治初年の「琉球処分」で日本の領土となる。
一方の台湾は、16世紀頃より倭寇の基地となったりしていたが、17世紀に一時オランダが支配し、その後清に抵抗する鄭氏政権の根拠地となった後、鄭氏政権が滅んだ1683年に初めて中国の王朝の版図に組み入れられた。1895年に日清戦争で日本に割譲され、1945年の日本の敗戦後、中華民国に「光復」して現在に至っている。
このように、琉球(沖縄)が日本固有の領土となったのも、台湾が中国の版図に入ったのも、古代からの歴史の中では比較的新しい時期のことであり、その間にある無人島である尖閣諸島を「古来からの固有の領土」と主張することは、日中のいずれも無理がある。尖閣諸島(釣魚島)の今後に関しては、このような歴史を踏まえた上で、日中両国にとってプラスになるような方向を考える必要がある。

以上に述べたことは歴史家にとっては常識的な知識ですが、現在の日本で尖閣諸島問題が議論される時に、関係者に共有されているとはあまり思えません。
現在、懸案となっている事柄に関する内容だったので、高校生などは関心を持って聞いてくれたように思います。歴史家は、目の前の問題をより深くとらえるための専門知識の提供に、もっと積極的になるべきではないか、と思うこの頃です。

東アジア共通の学術的基盤

2012-07-09 17:24:44 | 日記
金曜日の学術会議史学委員会アジア史分科会で、「アジア学術共同体の基盤形成をめざして」という報告を聞き、昨日日曜日の中国社会文化学会のシンポジウム「東アジア古典教育のゆくえ」で、日本および韓国の漢文教育に関する報告を聞いた(午後にはベトナムの漢文教育に関する報告もあったはずだが、私は聞けなかった)。
最近の日本のプレゼンスの低下や内向き志向は、学術の世界でもかねてより問題になっている。中国研究について言えば、江戸時代以来の支那学の蓄積を背景にして高い中国研究の水準を誇ってきた日本は、ながく大陸での研究ができない中で、欧米の研究者が「代わりに」訪れる研究のハブとしての役割を担ってきたが、最近はジャパン・パッシング(素通り)が、目立っている。こうした中で、共通の漢字文化の基盤に持つ東アジア、あるいは欧米とは異なる共通点をもつアジアが研究でのまとまりを作っいこうという志向は、私には大いに意味のあることに思われる。
私が関わっているアジアのリプロダクション(生殖)の比較研究でも、アジア社会内部での共通の基盤は大きく、アジアの内部で共通性と相違を検討することは、それぞれの国を欧米と比較するだけでは得られない様々な発見が期待される。
一方で、もはや一般には漢字を使わなくなっている韓国の人々には、(日本や中国からの独自性を誇りたい民族的プライドも手伝って)自分たちが漢字文化圏に中にいるという自覚はあまりない、という。
アジアの中で共通のプラットフォームを作ることは、ともすればなんでもアメリカ一辺倒、英語圏のみがスタンダードになりかねない現在、重要な意味を持つと思うが、それは欧米その他の地域との関係を深めることとは対立しないだろう。アジア間の交流の道具として英語を英米の土着文化にとらわれない学術用語として鍛えることも含めて、(もちろん中国語や日本語でも交流も活発化させつつ)より多面的に開かれた研究の世界が、活性化することを期待したい。

美術館めぐり

2012-07-07 00:06:33 | 日記
昨日、六本木の国立新美術館に行って開催中のエルミタージュ美術館展を見た。
今日は、駒込の東洋文庫ミュージアムで「ア! 教科書で見たゾ」展を見た。
と書くと、いかにも優雅な美術館めぐりの日々を送っているようだが...
じつは昨日は国立新美術館の隣のビルで会議があり、今日は東洋文庫現代中国研究資料室の運営会議だった。両方とも時々開かれる会議だが、いつも時間に追われて直前に駆け込んでそのまま議論を続け、これまですぐそばの美術館には行ったことがなかった。
何度も国立新美術館に行っているという友人のNさんにあきれられて、たまたま今週はやや余裕があるので、この機会に是非にという強い決意で、昨日今日と会議の後に足を延ばしたのだ。
両方とも新しい美術館で、空間のつくりにとてもセンスがあってゆったりと居心地が良い。エルミタージュ美術館展では、16世紀から20世紀までの西洋絵画の代表的な作品を堪能し―私は比較的新しい時期のものが好きだ―、3階まで吹き抜けの空間を楽し見ながらカフェでお茶を飲んで、ミュージアムショップを冷やかした。
東洋文庫ミュージアムでは、古い書庫の中で馴染んでいたお宝所蔵品がガラスケースに入って陳列されているのがちょっと不思議な気分だったが、センス良く親切な解説をつけて一般の方のために展示するのは悪いことではないだろう。東洋文庫の所蔵品のモチーフから結構ハイセンスなスーベニアができているのもまあ悪くない(お値段も悪くないけど)。
両方とも、これからも会議で行く機会は時々あるので、うまく時間を見繕ってミュージアムにも足を伸ばし、アートのセンスを忘れず暮らすことを心がけよう。

ブログをリニューアルオープンしました!

2012-07-02 14:44:48 | 日記
昨年度、カリフォルニアでサバティカルの機会をいただいて、初めてのアメリカ生活の心おぼえのつもりでブログ「カリフォルニアへたれ日記」を立ち上げました。折に触れて感じたこと考えたことをぼちぼちとつづり、周囲の方たちへの近況報告代わりにもしていました。
東京へ戻って、また忙しい毎日が始まり、しばらく放置していたのですが....
この度、ブログのタイトルを変更し、開設者名も公表して(べつに隠してたわけじゃないですが)、リニューアルオープンしてみました。
日本社会がまだどちらを向いてゆくかわからないターニングポイントにあり、日中関係についても考えることの少なくないこの時期ですが、折に触れて時々の考えを記してみようかと思います。今後、無理のないペースで、日々の仕事や暮らしの中での話題をつづってゆきます。
といっても、どれくらい投稿できるか、やってみなければわかりません(たぶんあまりたくさんは無理かと思います)。まあよかったら、お付き合いください。
なお、ここで表明する考えは完全に私個人のものであり、私の勤務先や所属する学会・研究会や関係するNPOを代表するものではないことは、いうまでもありません。
どうぞよろしくお願いいたします。


強制中絶事件―「一人っ子政策」をめぐる最近の出来事

2012-07-01 01:55:36 | 日記
中国では最近、計画出産(「一人っ子政策」)に関連して「安康事件」が話題になっている。
事の起こりは、西安省安康の馮建梅という第二子を妊娠中の7か月の妊婦が、今年(2012年)6月2日に計画出産の担当者から中絶(中国語で「引産」という)を強制された、と家族がネットに投稿したことだ。
規定では妊娠後期の中絶は禁止されており、また農村ではふつう第一子が女児の場合は5年の間隔を開ければ第二子の出産が許可されるため(彼女の娘は5歳になっていた)、これは全く不法な強制中絶だと思われた。馮建梅は二人目の出産が許可されない都市戸籍だったが(夫は農民戸籍)、村に戸籍を移す手続きの途中で事件が起きたなど、状況には複雑なものがあるようだ(中国の計画出産の規定は大変細かく、問題はいつも複雑になる)。担当者が「4万元出せば、中絶しなくてもよいが、びた一文負けてやらない」と言ったが、彼女の家ではそんな大金は用意できなかったという話や、臍の緒や胎盤のついたままの生々しい胎児の写真がネットに出回ったこともあって、事件は大きな反響を呼んだ。
まもなく当局は事情を調査の上、6月後半には担当者7人の処罰が決定し(異例の速さというべきだ)、全国で違法な計画出産の執行がないかの検査も行われることになった。
この間、各種のブログにはさまざまな意見が投稿され、中には「馮建梅は規定を守ってもっと早くに手続きをすればよかったのに、自業自得だ」というような意見もあるが、多くは彼女に同情的で、ネットでは「安康に向かって怒りを吼えよう」という歌も流れた。あるブロガーは、「昔はこういうことはしょっちゅうだった。「人道的」な政策執行を掲げた最近になってもこういうひどいケースが発生するのは驚きだ。以前、自分の村で起きた同様の事件を思い出して心が痛んでしかたない。」と心境をつづっている。
たしかに、私が調査している中でも、日本ではありえない強制中絶が起こっていたという話は耳にしている。近年は、そのようなケースはあまり聞かず、発生した時には今回のように大問題になって当局もすばやく対応するというのは、中国も変わってきたのだろう。問題は、さまざまな意味で日本社会の常識とはことなった前提の中で起こっているのだが、とにかくこのような心痛むケースが起きなくなってほしい。