つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

夏の終わり -いや、まだまだ

2015-09-04 09:10:07 | 日記
 9月に入って、ずいぶん涼しくなった。夏も終わった、と言いたいところだが、まだそういうわけにもいかない。世の中の動きも自分の仕事もいまだ中途で、とはいえ、いろいろなことのあった今年の夏のことを、少し整理しておきたい気分でもある。
 この夏は、すごく久し振りで-十何年ぶりか、もっとかもしれない-ずっと国内にいた。仕事がたまっている上に、いない間に済んでいたらいやだな、と思うこともあったので、「国外逃亡」をためらったからだ。同僚の近藤先生が病床からたいへん心配されていた安保法案はその筆頭だが、それを推進しようとする人たちに見える、一言でいうなら反知性主義というべき態度に連なる重大な事柄が夏の前から相次いでもいた。
 まともな研究者の間ではほとんど議論のない「慰安婦」の実態を無視して真摯な歴史認識を将来につなげようとしない政治のあり方と、国立大学の文系分野の縮小を求める文科省の指示とは、ものごとを表層だけから見て問題を捉え、深い哲学に根差して広い視野でものを考えようとしない態度が共通しているように見える。とはいえ、文系分野の学問が、これまで充分に真の意味でその役割を果たしてきたかと問われると、自己変革が必要な部分も多いのはたしかなので、問題は複雑ではある。いずれにせよ、そこに見えるのは反知性主義-ものごとを筋道立てて深く考え自分の頭で判断して行動することを重視しない態度-で、それは昨今の学生気質と深くつながっている気がするので、ことは深刻なのだ。
 初夏の頃から、そのような私たちのしごとの基盤を揺るがすような出来事が続いていて、それに対して学術会議でシンポジウムをしたり、高大連携歴史教育研究会を立ち上げてあるべき歴史教育の姿を追及したり、という事態を前向きに進めようという動きに微力を添えてはきた。(そのような中では、ジェンダー主流化-ジェンダー視点をあらゆるところに組み込んでいくこと-が非常に重要な役割を果たすはずだ、という確信をもちながら。)
 しかし、安保関連法案は、それらもろもろを支える日本社会の根底の平和と立憲主義を破壊するもので、国会に上程されているものが本当にそんなとんでもない内容のものだということが、いまだに信じられないような呆れる思いがある。おそらく私たちは、戦後民主主義が当然空気のようにそこにあるもの、という中で育ってきて、それは日々の努力で維持成長させなければならないもの、という決意が足りなかったところを突かれたのだろう。私はジェンダー平等・公正については、日々の努力が必要だということをかなり体感し努力しているつもりだが、その基盤である立憲主義と平和については、さまで意識してこなかったのだと改めて感じたことだ。
 学生たちは、便利で豊かな日本がよい、といい、現状が続いていくことが望ましくまた当然と感じているようだ。格差が拡大しつつある中で「豊か」と言ってしまうのは私にはためらわれるが、私立の学費を払える日本大学の学生にとってはそれが実感なのだろう。学生のうちは、男女差別だって実感することはないという。ましてや平和で自由であることなど、そうでない社会は彼らの想像の範囲を超えていて、全く想定外のようだ。しかし彼らよりいくらか長く生きて少しは歴史を勉強してきた私には、どう考えても今、「平和」や「自由」が紙一重で危なくなっている、と思える。(しかし私も「平和な戦後」に暮らしてきたので、頭で考えている感があるのは否めない)「豊かさ」については、今の日本社会でだって、ちょっと目を開けばそうでない実情はすぐ見える。それを見てしまって、自分もそうなるのでは、と思うのがイヤで、彼らは見ないでおこうとしているのだろうか。いや、自分だって、そういう「彼ら」に迎合して日を送っているのではないか。
 そのようなことを、気忙しい日々の中で感じていた夏だった。まだ、夏は終わらない。