つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

シンポジウム:中国史における家族像の展開-滋賀「中国家族法」を歴史化する

2013-09-22 00:40:55 | 日記
中国ジェンダー史科研&東洋文庫現代中国研究資料室ジェンダー研究班の共同研究グループで、9月21日、日本大学文理学部百周年記念館で標記のシンポジウムを開いた。
中国の伝統社会の家族構造を見事に説明する滋賀秀三『中国家族法の原理』の論旨を基本的に認めつつ、そのような中国の伝統家族の理念型が歴史的にどのように形成され、どのような範囲で適用できるのかを、ジェンダー視点に留意しつつ具体的に議論していこうとするものだ。
やってみたら、大変たくさんの発見があった。
この日の報告と議論を通して、滋賀「中国家族法」の適応できる時期・論理的な問題点・朱子学との関係などなどについて、非常に重要な論点がいろいろ明らかになってきた。
翌22日の研究会での張国剛主編『中国家庭史』全5巻の検討も併せて、中国の家族構造の変化を古代から近現代まで見通して、どのような変化があったかについての共通認識を作っていけそうな気がしてきた。
何より大変エキサイティングで楽しい議論が出来たので、また続きをやりたい。
素晴らしいご報告をいただいた先生方、議論に参加して下さった皆さん、事務局の方たち、どうもありがとう。またよろしくね。
シンポジウムのプログラムは以下の通り。
趣旨説明 小浜正子(日本大学)・五味知子(日本学術振興会特別研究員)
報告1 吉田浤一(静岡大学名誉教授)「中国古代の『家父長制』」
報告2 大澤正昭(上智大学)「唐宋変革と家族」
報告3 佐々木愛(島根大学)「母の祀り・妻の祀り-祖先祭祀論から「中国家族法の原理」を再考する」
コメント:下倉 渉(東北学院大学)・豊島悠果(神田外語大学)
総合討論

2年半目の被災地-3.女川

2013-09-19 02:03:03 | 日記

(震災の被災地訪問記の続きです。上の写真は女川町中心部)
宮城県は牡鹿半島の前網浜を後にして、女川町の中心部に向かう。途中の小さな浜では、そうと思って見れば家の基盤が残っているものの、草が茂って自然に帰りかけている様子の所もあった。
女川町は、震災の被害が最も過酷だったところのひとつで、家屋の流出は7~8割に及び、震災前の人口1万1000人ほどのうち約千人が亡くなり、その後よそへ移った人もあって、現在の人口は5,6千人になっている。
街の中心部は太平洋側の牡鹿半島の付け根の扇状地にあるが、一面波にのまれて何もなくなっていた。右側の海岸段丘の上にある病院の一階まで水が来たが、小高い丘の上でちょっと信じ難い高さだ。私たちは病院の丘から市街を眺めたが、更地になった中に、三階建てのビルが横倒しになったままで残っている。いったいどのような力が加わったらこのようなことが起きるのか、専門家も首をひねったという。山側を見ると、遙かに向こうの上の方にいくらかの家が残っていて、どこまで水が来たかわかる。
震災後、地盤沈下も起こっており、町の再建のためには、まず中心部をかさ上げしてから建物を建てるというが、ここまでかさ上げするという印は身長よりずっと上の三メートルほどの所に見えた。谷の奥の山を削ってダンプが盛り土を運んでいたが、復興の大変さが実感された。
その後、この日同行した若い友人のCさんが働く女川向学館を訪れる。移転した女川第一小学校の場所を借りて、放課後の子供たちの学習スクールを開設しているNPOだ。子供たちの多くは、家を流され親しい人を失って気持ちも安定せず、仮設住まいで落ち着いて勉強する場所もなかった。彼ら彼女らが、放課後、適度な距離の大人の見守りの中で勉強できる場所を作ろうと作られた場所で、多くの企業からの協賛金やボランティアの協力を得て、地元の失業した塾教師などの雇用の場にもなるようにと運営されている。昨年の春、大学院を修了してここのボランティアに入ったCさんとは一年ぶりの再会で、当時はボランティアだった彼女は、その後向学館の職員となって、子供たちと過ごす毎日だ。
前網浜を出る前、漁師の奥さんの一人がCさんと立ち話を始め、話し込んでしまっていた。聞けば、小学校入学直前だった彼女のお孫さんは石巻の大街道で震災に遭い、津波で流されて孤立し、お友達には助からなかった子もいた。まだ小さいのにそのような経験をしたので、入学後も不安定で、当初はお母さんと一緒でなければ登校できなかった(たぶん仮設から仮校舎への、津波の痕をとどめる通学路だったろう)。しかし松山大学(と言われたと記憶する)の学生たちが継続してボランティアで面倒を見に来てくれて、いろいろ遊んだり話したりする中で落ち着いてきて、今では一人で学校へ通えるようになった、という。Cさんが京都から女川まで来て子供の世話をしている、と聞いた奥さんは、いろいろな想いの一端が溢れ出したようだ。
私にとっては被災地を訪れたのは、昨年の5月の連休以来だった。予想はしていたが、復興への歩みはまだまだ時間がかかることを目の当たりにし、現地のいろいろな方と話して、震災前とはすっかり変わった毎日を、ともかく前を向いて暮らしておられることを実感した。オリンピック開催が決まって、ただでさえ復興に必要な人員もコンクリートも不足している中で、東北の復興が後回しになるのではないかという懸念を聞いていたが、現場を見るとその情況がいくらかは理解できる。東京で暮らしていると、放射能問題はともかく、津波の被災地がまだまだ復興途上にあることを意識させられることは少ないのが実情だが、被災地で笑顔で語りながら日々の生活を闘っている方たちへの共感と敬意を持ち続けたい。
写真下:段丘の上の病院の一階まで水が来た。写真中央の電信柱の奥の赤い印まで盛り土をする予定。

病院の丘から山側を望む。遠くに無事だった家と、山を削って土を運んでいる様子↓

女川向学館にて↓

復興市場。目下、女川町最大の商店街↓


2年半目の被災地-2.前網浜

2013-09-16 00:50:55 | 日記

9月12日は、牡鹿半島の前網浜に出かけた。ここは石巻のTさんご夫妻が、この間ずっと復興支援しておられる浜だ。それまで豊かな海の恵みの元、夫婦で漁をしていた漁師さんたちだが、家も、船も、養殖筏も、全て流されてしまった。新たな船を建造するのに政府の補助を受けためるには、生産組合を組織する必要があるので、「一匹狼」(正確には夫婦ごと)の漁師たちが生産組合を作って、第一オリエント丸を建造した。これが可能になったのには政府の補助とともに、九州の造船所の協力があった。それで設置する定置網をつくるためにTさんがインターネットをつかったファンドレイジングを実施し、見事に実現させたのは去年のことだ。(定置網の製作には長崎県諫早の粕谷製網が協力した。この会社は今年の社員旅行で東北を訪れて前網浜の皆さんと交流した)
私たちはこの日、石巻からTさんに先導してもらって前網浜にやって来た。浜ではちょうど、交換のために定置網を第一オリエント丸につみこんでいるところで、私たちはラッキーにも大変迫力ある網の積み込み作業を見ることが出来た。
ここは25軒ほどの浜で、東北地方の沿岸部に何百とある小さな漁村のひとつだが、津波で流されなかったのは、高いところにある5軒ほどだけだった。波打ち際のお宅の一家四人は助からなかった。以前は海の傍に漁師さんたちの家が並んでいたようだが、片づけられた後に作業用のプレハブと船が並んでいる。震災後、行政によって修築された漁港の岸壁にオリエント丸が泊まって網の積み込みをしていた。ただ20メートルだけなのでたくさんの船は泊められず、第一オリエント丸が作業中は他の船は使えないという。
近くには、海鞘(ホヤ)の養殖用に筏でつるす牡蠣(カキ)殻が積まれていた。先月、慶応大学ワンダーフォーゲル部OBの皆さんがボランティアに来て、殻に開けた穴にヒモを通す作業してくださったものである。
家を流された漁師さんたちは、現在は少し登ったところにある仮設住宅にお住いである。集会室で、漁師の奥さんたちと談笑した。アワビを炊き込んだおこわをふるまって頂き、めったに口に出来ない浜の料理に舌鼓を打つ。奥さんたちは、以前はお連れ合いとペアで漁に出たり、ホタテやヒジキを取ったりと忙しかったが、生産組合を作ったら男の人たちが共同作業をするようになって、することがなくなって無寥をかこっているという。生産形態が変わって新たな問題が起きているわけだが、今はまだそこまで手が回っていないようだった。バイタリティあふれる浜の奥さんたちが、そのうち新たな活躍の場を得られることを祈る。
この集落は、高いところに山を拓いて新たな集落を作ることが決まっていて、土地の造成作業が始まっていた。これから整地して家を建てるのだから、落ち着くにはいま少し時間がかかりそうだ。
小さな浜だが、Tさんをはじめ、いろいろな所から支援を得て、少しずつ復興への道を歩んでいる。たいへんな困難の中で、出来ることを積み重ね、必要なことを実現する方法を探しながら、ねばり強く前へ進んでいる。Tさんのご縁で前網浜のことを知り、現地を見せて頂いたが、この浜に注目し続けたい。
(前網浜については、ホームページ「復興の歩み 石巻前網浜」http://chiyukihirosi.air-nifty.com/ で最新の様子がわかります。)
定置網の積み込み作業↓

高台に残った家と津波の爪痕。前は家族で漁に出る船。↓

ホヤの養殖用のカキ殻↓

仮設住宅↓

山の中で新しい集落の予定地を造成中↓


2年半目の被災地-1.石巻

2013-09-15 23:50:06 | 日記

震災から2年半目にあたる9月11日~12日、東北を訪れ被災地の今をかいま見る機会を得た。
11日はまず石巻へ。小高い丘である日和山公園から市内を望む。ここは2012年の1月に来て、その壊滅的な被害に息をのんだ場所だ。市街地が広がっていた場所が一面更地になっているのに、声もなかった。
それから1年半を経て、海側の土地には、緑の草が茂っていた。2年半の月命日で、追悼の祈りを捧げに来ている人もたくさん見えた。
山を下りて市街を走ると、一階部分が浸水した地域では、修復が済んで新しくなった家の間に、空き地が交じっている。中心部の大街道は、なんとか繁華街らしい雰囲気を取り戻しつつあるようだ。
夕食は、大街道の割烹料理屋「竹ふじ」で会食。殻つきの雲丹、牡蠣、今年の初物が漁港に入ったばかりだというサンマ、などなどに舌鼓をうつ。刺身には鯨も入っていて、ここは捕鯨基地でも会ったことを思い出す。調査捕鯨で捕れたものだそうで、本当に久しぶりにおいしい鯨を食べた。この店も震災の時には1㍍80㌢まで水が来て、命からがら逃げたそうだ。もちろん店はめちゃくちゃになったが、頑張ってその年の秋には再開した。ご夫婦と息子さん二人でやっているが、大手のチェーン店などがパックの観光客をさらっていくのと対抗して苦戦しているという。すべて手作りで豊かな海の幸を堪能させてくれる良心的なお店で、また機会があれば来てみたいと思った。
翌日は、海沿いの魚市場を覗いた。屋根には津波の傷跡が残っていて、70㌢地盤沈下したので、もとの市場の建物は、周囲を盛り上げて使っている。あたらしくテントで立てられた建物にも、漁の成果が運ばれてきていた。昨日のサンマは、ここからのものだ。石巻は、徐々に街のにぎわいを取り戻しつつある。


中国の性比問題-国際ジェンダー学会ラウンドテーブル

2013-09-07 23:21:14 | 日記
国際ジェンダー学会2013年度大会の新しい企画ラウンドテーブル<アジアにおける性比問題>で、「中国の性比問題をめぐって」という話題提供をしました。一緒に話題提供をした佐野麻由子さん・幅崎麻紀子さんはそれぞれネパールをフィールドとする社会学者・人類学者です。
私は、以下のような話をしました。
中国では「一人っ子政策」によって、非常にたくさんの「失われた女性」(性別鑑定による選択的な中絶や育児放棄などで生まれなかった、育たなかった女性の命)がある、といわれています。たしかにそれは間違っていませんが、ただ、そのような矛盾が激しく噴出していたのは、1980年代から90年代半ば頃まででした。現在の中国では、農村でも「子供はたくさんいらない、女の子だけでもよい」という人が増えて、生育意識に変化が起き、出生率も下がって、むしろ少子高齢化が問題になっています。その背景には、育児費用の高騰や、農村での年金制度の開始、農業の機械化によって重労働の必要が減ったこと、などがあります。「失われた女性」が起きた原因は、「一人っ子政策」による子供の数の制限以上に男児偏重の家父長制の存在を問題視する必要もある(例えば、やはり出生率が低い韓国では、中国以上の性比のアンバランスが観られるが、日本では見られない)と思われますが、それには近年変化が見られます。
また、中国の計画出産は、これによって広大な中国農村の女性たちがバース・コントロールにアクセスできるようになったことを考えると、女性のリプロダクティブ・ヘルス&ライツという点で、マイナスだけでなくプラスの面でも大きなものがあったといえます。
日本でも、「一人っ子政策」については、リプロダクティブ・ヘルス&ライツの点からも問題点ばかりが強調されているので、ちょっとそれとは異なった視点を意識的に紹介してみました。たしかに問題は大きなものがありましたが、現在はもう問題のピークを超えていることもあり、複眼的・歴史的な視点での議論も必要でしょう。
今日の議論で気がついたこととして、(日本以外の)東アジア地域では、特に性比のアンバランスの問題が大きいことがあります(インドでも問題ですが)。東アジアは現在、とりわけ少子化が進んでいることと併せて考えてゆく必要がありそうな気がします。