つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

中国風信⑪北京大学-伝統の名門大学の今(『粉体技術』2014年10月号より転載)

2014-11-25 00:36:22 | 日記

 この夏休み、北京大学で約一ヶ月間の中国語研修に勤務先の日本大学文理学部の学生を引率した。その時の見聞を含めて、中国を代表する名門大学である北京大学-略称は北大(ペイダァ)-について述べよう。
 北京大学は、清末の1898年、戊戌変法の中で創設された京師大学堂を前身とする。中華民国になって北京大学と改称し、1916年には著名な知識人・教育者である蔡元培を校長に迎えた。彼は 「思想自由、兼容并包」の方針の下、昇官発財のためでない学問のための学問の府としての大学を確立すべく、新旧の第一級の知識人を教授陣に招き、新文化運動をリードした胡適、魯迅、陳独秀(のちの中国共産党初代書記長)なども教鞭を執った。1919年5月4日に、北京大学の学生などが中心となって始まった民族運動は五四運動として知られる。こうして「愛国、進歩、民主、科学」の校風で知られる北大の伝統が形成されていった。
 中華人民共和国成立後まもない1952年、国家の教育再編によって北京大学は総合大学として再出発し、同時に廃止された欧米系のキリスト教大学である燕京大学の旧址に移転した。これが北京市西北部の海淀区にある現在のキャンパスである。広い校(キャン)園(パス)の中央には「未名湖」と名づけられた湖が広がり、博雅塔が影を落とす湖畔は公園のようだ。構内には各学部の建物に加えて、3万人を超える学生・大学院生の寮も並んでおり、数万人が生活する共同体である。以前は教職員もそばの宿舎に住んでいたが、近年は多くが郊外のマンションからマイカー通勤するようになった。
 五四運動以来、北大人は政治に敏感で、1966年5月には、北大構内に張られた「大字報(壁新聞)」がきっかけとなって、文化大革命の嵐が全国に広がることになった。天安門事件で悲劇的な結末を迎えた1989年の民主化運動にも、多くの学生が参加した。しかし現在の北大の校内には、政治的な雰囲気はあまりない。以前は、政治的な空気が緊張してくると校門で身分証を確認されたものだが、最近、校門で学生証をチェックしているのは、たくさんの観光客が押し寄せるのを防ぐためのようだ。観光客は団体でチケットを買うと校内を見学できる。
 東北隣の理系を中心とする清華大学とともに、北大は中国の大学の頂点に君臨し、子供たちは「北大・清華に合格する」ことを目標に受験勉強に励んでいる。観光客の増加には、加熱する受験戦争が反映されているのだろう。
 北京大学は、発展する中国のエリート教育・研究を担う機関として国家戦略のもとでさらに拡充されている。以前からのキャンパスの外側に新しい大きな物理系・科学系や加速器ビルなどの建物が建ち上がり、国際関係学院も規模を拡大して移転して、各国の留学生を受け入れている。数千人規模の国際学会もさかんに開かれていて、おかげで私たちの学生は宿舎の確保に苦労することになった。大学の東南隣の街区は、中国のシリコンバレーと呼ばれるハイテク企業が集まる中関村地区だが、ここで先端技術を開発している企業には、北大や清華が投資しているものも多い。
 近代的な外観のビルがどんどん建てられていくだけではない。哲学系・中文系・歴史系(系は学部に相当)等の文系部門は、最近、古い建物から新しい所に引っ越したが、新校舎も以前の風格を再現した伝統的な外観だ。手すりや窓枠は赤く塗って彫刻を施し、天井には牡丹の絵が描かれ、中庭では樹木が影を落としている。もっとも庭にはスプリンクラー、地下には駐車場が備えられて最新式の機能も充実している。先生方には以前はなかった個人研究室が確保され、国際水準の待遇で著名教授を引き抜くことも盛んである。
 北大は、グローバリゼーションの時代に国際的にも大学評価を上げようと、日本の大学以上に躍起になっているようだが、その中で人文系の学問が切り捨てられるのではなくテコ入れされているのは羨ましい。それもまた、中国のナショナリズムのひとつの現れなのだろう。