つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

中国風信⑥新疆のウイグルの人々(『粉体技術』2013年12月号より転載)

2013-12-31 08:56:24 | 日記

[写真は、カシュガル・エイティガール広場近くの街並み]
 今回は、三年前に中国西部の新疆ウイグル自治区にウイグル族の友人Rさんを訪ねた時の話。
 東京から北京までは飛行機で3時間、時差は1時間だ。北京で乗り換えて新疆ウイグル自治区の行政中心ウルムチまではさらに4時間、時差も2時間ある(ただし公式には中国全土が北京時間なので、新疆のはローカル時間である)。新疆は遠い。
 ウルムチは人口200万人弱の高層ビルの並ぶ近代的な大都会で、遠くには天山山脈が望める。現在では住民の八割が漢族で、ウイグル族より多い。街の様子は北京や上海とかけ離れてはいないが、看板などには漢字だけでなくアラビア文字に似たウイグル文字が併記されている。
 私が訪れた時期は、イスラームの断食月ラマダーンだった。敬虔なムスリムであるウイグルの人々は、日の出から日没まで食事をせず、そのぶん朝・夜に食べる。日没の頃に到着した私は、さっそくRさん一家のその日の断食明けの食事のお相伴にあずかった。家長である夫君のお父さんの「いただきます」で始まった食事は、さまざまな羊肉料理や果物、甘いお菓子など。ウイグルの人々はフレキシブルなところもあって、私の訪問中はラマダーン中でもみんなお昼を付き合ってくれた。ただし豚肉はタブーで、私は新疆滞在中に羊の料理の多彩な美味しさに開眼させてもらった。
 漢族とは生活習慣が違うが、現在のウイグル族の大半は生まれた時から中華人民共和国公民で、ウイグル語で中国人としての教育を受けてきた。ウルムチでは数十年の間、おおむね漢族とウイグル族は平和的に共存してきた。ウルムチのウイグルは日常的に漢族と交流があり、ウイグル語と漢語(中国語)のバイリンガルな生活が身についている。だが近年、急速に漢化が進み、大学の授業もウイグル語ではなく漢語で行うようにという指示も出て、穏やかなインテリのRさんも、これではウイグルの文化を伝えられないのではと、心配していた。専門家によると、指示はウイグルの幹部自身が今後のために決定したものだという。市場化・中央化への対応と民族文化の保持との関係は、難しい問題である。
 さらに西に向かい中国最西端のカシュガルに行く。ここでは住民のほとんどがウイグル族、カザフ族などのトルコ系だ。街並みもぐっと中央アジア風になり、スカーフの女性が多いし、トルコ帽の男性も見える。インタビューに訊ねたお宅では、マンションのドアを開けると中は絨毯に座っての生活で、ウルムチのRさん宅がイスとテーブルの暮らしなのより伝統的だ。中央アジア最大のモスク、エイティガール寺院もあり、トルコ系の人々が、この地で豊かな伝統と優れた文化を育んで来たことが実感される。郊外にはウイグル農民の耕すブドウ畑の濃い緑が遠くまで広がっていた。
 カシュガルは、ユーラシア大陸の真ん中に位置して8つの国と国境を接する新疆ウイグル自治区の交易の中心だ。バザールには、トルコやアフガニスタンなどの製品も多い。そういえばRさんの親族も、北京だけでなく、ロシア、カナダ、日本などへも留学しているといい、シルクロードの民のネットワークは四方へ広がっている。
 当時のカシュガルには、まだ高層ビルは多くなかったが、経済特区としての開発計画が始まっていた。前年2009年の漢族とウイグル族の大きな衝突の後、中央政府が大規模な投資によって新疆の中でも貧しいカシュガル地区の開発を図っているのは前向きな対応だと思えた。とはいえ開発が進んでもウイグルの貧しい人々はなかなかその利益に与れない、という問題もまた発生する。Rさんは流暢でない漢語で観光ガイドをしているウイグルの若者を見て、市場化の中でウイグルの同胞は頑張っている、といった。その後の新疆とウイグルの人々が気になるこの頃である。(滄媚)
  *   *   *   *   *
 滄媚のペンネームで今年『粉体技術』に連載した「中国風信」は以上です。来年から、掲載後、間をおかずにブログに転載します。
 来年がよい年になりますように。

[下の写真は、カシュガルの野菜市場にて]

中国風信⑤岳陽にて-華中地方の街と農村(『粉体技術』2013年10月号より転載)

2013-12-30 13:44:32 | 日記

[写真は、開発の進む県政府所在地]
 暑いさなか、岳陽楼で有名な洞庭湖畔の岳陽を訪れた。岳陽は湖南省北部の中心で人口は250万人余、高層ビルの建ち並ぶ省内第三の都市である。ここを拠点に、以前調査に訪れたこの地区の農村を、三年ぶりに再訪した。現地の知人の車で、洞庭湖大橋を渡り、まず県へ向かった(中国の行政区画は、省-地区-県-(鎮)-郷-村、が基本)。「八百里洞庭」と謳われた洞庭湖は、現在ではずいぶん湖水が縮小しているが、このあたりの村は「魚米之郷」と称えられてきた所で、みどり豊かな田園風景は、絵のように美しい。
 一時間ほど走って、県政府所在地に着く。三年前の印象では、ここは中心部にやや古びた5階建てのビルが並ぶ、ひなびた田舎町だった。夜になると、広東省の深圳等への出稼ぎから戻った近辺の村の人たちが散財するので、ネオンの眩い不夜城の様相を呈した。ところが今回行ってみると、片側三車線の中央分離帯まである新しい道が縦横に走って、街の雰囲気が一新していて驚いた。両側の建物は以前と同じく五階建てだが、遠くには、なんと二十数階の高層マンションが建築中で、「売出し中」の看板が出ている。昼食の時には、車を停める場所を捜すのに苦労した。自動車の数も、ずいぶん増えている。
 県を出て郷政府のある町までさらに一時間ほど走る。この間は、アスファルトではなくコンクリ舗装の、県で整備した道になる。郷中心部は、二階建ての店などが並ぶ町で、社会主義時代は人民公社の本部があった。ここの印象は、前回とそんなに違わない。郷中心部から村までは、車ではほんの十分弱だが、昔の歩いていた頃には一時間かかったという。県道を曲がって、車一台が通れるコンクリートの道になったら、もう村の中だ。ちなみに村の道は、数年前に政府の補助と村民の出資とで整備したもので、誰がいくら出したかを書いた掲示がかかっている。村の中も、見たところ三年前とそう変わっていない。しかし各家庭では、大型カラーテレビ、冷凍冷蔵庫、エアコンなどの電化製品がこの何年かで着実に増えている。「貧しかった昔は過ぎ去り、生活はだんだん豊かになって」というのが、近年は当たり前の感覚になった。村の主要産物は綿花だが、現在の主要な収入源は農業ではなく、出稼ぎである。三年後に来たら、今度は郷の中心町が大きく変わっているかもね、と知人と笑い合った。この村のような中国のあちこちの田舎の億を以て数える人々が、以前より豊かになったという実感を基に、さらに豊かになろうと頑張って働いているとしたら、いろいろな問題や矛盾を抱えながらも、中国の経済発展は当分続くのではなかろうか。
 前回、調査を手伝ってくれたWさんとも再会する。当時、村で唯一の大学生だった彼女は、省都長沙の新設大学で法律を勉強しており、的確に仕事をしてくれる彼女に出会えたことは大変ラッキーだと思ったものだ。苦学生の彼女も、調査助手ができて喜んでいた。その彼女は、この6月に卒業し、9月に行われる司法試験に向けて勉強中だった。中国の司法試験は法曹界で働くための基礎資格試験で、昨年は全国で45万人が受験し、合格率は10%強だった。日本の司法試験よりはハードルが低いが難関だ。在学中、ゆくゆくは国外に行きたいと考えて外国語を一生懸命勉強したWさんだが、就職活動は、どれも今一歩のところで及ばなかった。都市出身の友人に比べると何かと条件の厳しい彼女にとって、まずはこの関門を突破することが、人生を拓く第一歩である。卒業後も大学の近くで月350元の部屋を借り、友人とシェアして受験勉強に励んでいる。同級生の多くは、卒論提出後、卒業旅行に出かけ、なかには一ヶ月間自転車をレンタルしてチベットまで行った友人もいたが、彼女は行かなかった。Wさんは試験が終わったら、できれば上海や広州などの大都会へ行ってみたい、という。とても聡明で感受性の鋭いWさんの将来が明るいものであるようにと祈って、岳陽を後にした。(滄媚)
[下の写真は、のんびりした風情の郷の中心町。向こうで爆竹を鳴らしていた]


中国風信④蟻族と北漂族-北京のワーキングプアと高等遊民(『粉体技術』2013年8月号より転載)

2013-12-29 13:27:24 | 日記

 [写真は、バーで歌うミュージシャン]
 「蟻族(イーツゥ)」と「北漂族(ベイピヤオツゥ)」はともに、中国語の新語である。言葉が示している現実も近年のことだ。
 「蟻族」は、大学を出たけれど、あまりよい職に就けなくて、大都会の端っこで群れて暮らしている若者たちのことだ。2008年、北京の社会学者廉思博士はこの大卒低所得群居集団に注目し、弱い者たちが群れているのはアリのようだと「蟻族」と名付けて調査報告書を刊行した(日本語訳あり)。これは大きな反響を呼んで、「蟻族」はすっかり定着した言葉となり、2010年には続編も刊行された。
 「蟻族」の若者は、地方の、多くは農村の出身で、寮生活だった大学を卒業しても、都会に親の家などない。けれど田舎に戻るのはイヤで、都市に留まって成功のチャンスを夢見る。仕事はパソコン操作とか販売員とかセールスマンなどが多い。都市出身の学生のように親のコネで条件のいい公務員や国営企業の仕事に就くなど、彼ら彼女らには無理な話だ。なので住居費の安い都市と農村の境界地区の安普請の部屋に、数百元ずつ出してルームシェアして住んでいる。職場までバスを何度も乗り継いで通勤し、仕事は単純で長時間で疲れる。少しでも良い仕事を求めて転職を繰り返すが、時にはリストラに遭ったり職場が倒産することもある。でも転職ごとに収入が増えて、良い部屋に住み替えている人もいて、境遇は様々だ。都会でマンションを買って定着できればいいと思う。
 このような若者が出現したのには、この間の大学生の急増がある。中国の大学などの高等教育機関の在学生数は、改革開放政策の始まった1978年には十億の人口の中にわずかに85万人だった。それが1991年には204万人、2001年719万人とどんどん増えて、2008年には2021万人になり、高等教育の大衆化が起こった。大学生はエリートとして国費で養成され、就職の心配などなかった社会主義時代は遠い昔になったのである。2012年には2391万人が在学し、625万人が卒業した。これはもちろん、中国の発展には高等教育を受けた人材が大量に必要だとして、そのような政策が取られたからなのだが、個別には志を得ない大卒ワーキングプアも、多々発生しているのである。
 「北漂族」の語義は「北京の漂流者たち」である。イメージされるのは、地方出身で、高学歴でかなりの文化的素養や知識技能を持ち、ちょっとアートな仕事や新しい技術産業などを志望しているような若者で、「蟻族」といくらかは重なる。いずれも「80后(パーリンホウ)」と呼ばれる80年代生まれが中心だ。
 Kさんも、「北漂」を自認する一人である。華北の地方都市出身で、名門北京大学に合格して北京にやって来た。在学中にバンドを始めた彼は、卒業後も北京に留まり、ミュージシャンとして生きていこうと頑張っている。お店で一晩歌って、最初は100元だったギャラが、150元、200元と上がって、今は300元になった。いつかコンサートチケットの売れる歌手になりたいが、今はテレビの歌番組の編曲やバックコーラス、映画や話劇の音楽も請負って食いつないでいる。バンドの相棒の女性は昼は外資系広告会社勤務、夜は音楽活動。レズビアンをカミングアウトしているので、共感する女性ファンも多い。収入は多い時には月15000元を超えるが、少ない時は限りなくゼロに近い。知り合いのツテで安く部屋を借りているので、部屋代は1000元ですんでいるのがありがたいが、定職がないので健康保険に入っていないのが不安ではある。日本人の彼女とは、毎日のようにSkypeで国境を超えて話している。
 中国社会は、大きな矛盾を孕みながら激しく動いている。そうした中で、感性豊かな若者は感じたものを発信してゆこうと頑張っていて、それが可能なスペースも、中国の都市には拡大している。ちなみに今、中国アートは、音楽だけでなく、絵や映画などもエネルギーが沸騰していて楽しい。(滄媚)
[下の写真は、日本語版『蟻族―高学歴ワーキングプアたちの群れ』と『蟻族Ⅱ』]


中国風信③「一人っ子政策」の今(『粉体技術』2013年6月号より転載)

2013-12-28 13:16:20 | 日記

[写真は、計画出産の宣伝スローガン。「人口の発展と調和のとれた社会はともに歩み、結婚出産の新風俗とゆとりある生活はともに進む」]
 最近しばしば、「一人っ子政策」が緩和されるかもしれないという報道がある。中国も少子高齢化社会に突入しようとしているので、人口構成のバランスを保つため、二人目もOKになりそうだ、というのである。「一人っ子政策」の話はやや込み入っているのだが、関心が高い話題なので、今回はこれを取り上げよう。
 1979年以来行われているいわゆる「一人っ子政策」は、「一組の夫婦に子供一人」が原則だが、全ての場合に一人っ子が要求されるわけではなく、どのような場合に何人生んでいいかを細かく規定するものだ。だから中国政府は「一人っ子政策」という言い方を嫌って、「計画出産」と呼ぶ。じつは多くの中国農村では、夙に1980年代半ばから、第一子が女の子だった場合は、一定の出産間隔を空ければ第二子を生むことができる。この方式は「1.5人政策」ともいわれ、中国全体ではこのような地域がもっとも多い。「一人っ子政策」のはずの中国でも、きょうだいがいる人が結構いるのはそういうわけだ。(ちなみに計画出産の規定に違反した「計画外」の出産は、地域にもよるが以前はかなり多かった。そのような場合も、多くは罰金を払えば戸籍登録されるので、全部が戸籍のない「闇っ子」になるわけではない。「計画外」の出産には罰金を払わなければならない、というのはもちろん大変なのだが、逆にいえば、罰金を払えば生んでもいいという側面もあったわけで、中国の事情はややこしい。)
 一方の都市では、「一組の夫婦に子供一人」はかなり厳格に実施され、現在の都市出身の若者のほとんどは一人っ子である。上海の合計特殊出生率などは1970年代から日本の平均以下で、現在では約0.7人という超少子化社会だ。ところが都市でも、夫婦の両方が一人っ子の場合は、早くから二人生める規定になっていた。「一人っ子政策」が始まってもう30年以上経つので、近年の都市の出産年齢の夫婦には、二人目を生んでもよいカップルが多い。しかし彼らのほとんどは、「子供は一人が精一杯」といって、二人目は考えたことがないという。教育費が高騰し、送り迎えや習い事など、競争のように子供に金や手をかける風潮で、子供を育てる経済的時間的な負担が大きいからである。加えて、一人っ子であることを当たり前として育ってきた世代の彼らには、きょうだいの存在自体がピンとこないのかもしれない。
 中国の農村では、伝統的な「養子防老」のための男児願望に加えて、改革開放政策下の個別農家経営で働き手がいるので、「一人っ子政策」には抵抗が強い、と言われてきた。先の第一子が女児の場合に第二子の出産を認める規定は、そのような現実との妥協の結果だ。しかし近年、農村で聞き取りをすると、そうした農民の多子・男子願望が変化していることを感じる。筆者は2006年に、初めて中国東北地方の農村で、「べつに女の子だけでもかまわない」「規定では(第一子が娘なので)もう一人産めるが、娘一人だけでいい」という農民を知って驚いた。そうした人は、まだ多数派ではなかったが、絶対少数でもなかった。聞けば、息子は結婚の時に家を用意する必要があったりして負担が大きいし、近年は娘も親孝行してくれるから、という。その村はもともと計画出産の優等生として表彰されたような少子化した村だった。その後、むしろ計画出産では「落後」しているとされる華中地方の村でも、やはり娘一人でもよい、という人に複数出会った。村の女性たちの話からは、近年の近代化の中での農村の暮らしの変化の大きさもうかがえるが、そのような中で、子供への意識も変わって不思議はないのかもしれない。最初に触れた「一人っ子政策」の緩和の検討も、こうした都市と農村それぞれの意識の変化を踏まえたものといえるだろう。(滄媚)
追記:この記事は2013年5月に執筆したものですが、同11月に「夫婦の一方が一人っ子の場合は、間隔をあければ二人目の出産が可能」と政策が変化したことが報道されました。

中国風信②崇明島へ―交通事情と郊外農村(『粉体技術』2013年4月号より転載)

2013-12-27 12:59:31 | 日記
[写真は崇明島の農村の様子](日本粉体技術協会の機関誌『粉体技術』滄媚のペンネームで連載しているエッセイを、同協会からの許可をえて転載しています。)
 陽春の三月、上海から史跡調査のため崇明島へ出かけた。長江河口に浮かぶ崇明島は、中国では海南島に次ぐ大きな島で、上海特別市に属する。道中で体感した現代中国の交通事情と、垣間見た郊外農村の様子をお知らせしよう。
 崇明島までは、上海中心部のホテルから車で一時間余りである。市内西側の旧市街から、まず市内を流れる黄浦江底のトンネルを通って浦東区へ。テレビ塔や101階建ての金融センター等のある浦東区は改革開放とともに出現した新市街だ。1990年頃には何もない更地と農村で、旧市街からは渡し船か、二本だけの渋滞のひどいトンネルで行くしかなかった。ところが浦東の開発に伴って、最初1991年末に南浦大橋が開通し、その後楊浦大橋、廬浦大橋、徐浦大橋も相次いで完成した。同時にトンネルも増えて、最新の2013年版地図で数えてみたら、外灘観光トンネル以外に12本が通っていて、さらにもう一本建設中である。こうして上海の市街地は東西にぐっと広がった。
 浦東区から崇明島へは、2009年に開通した上海長江トンネル橋で行く。まず長江南岸から途中の長興島までトンネルで水面下を潜る。これはあらかじめ区画毎に作ったトンネルを沈めて繋ぐ工法のもので、地下を掘ったのではない。長興島から崇明島までは美しいフォルムの釣り橋の上海長江大橋だ。昔はフェリーで渡るしかなかったが、橋が架かってうんと便利になった。さらに道路は崇啓大橋を渡って、長江北岸まで延びている。ちなみに長江を跨ぐ橋は、以前は武漢長江大橋(1957年開通)と南京長江大橋(同1968年)だけだったが、現在は各地に架けられて数十本になり、まだまだ増える勢いだ。
 崇明島は長江の運んだ砂が堆積して出来た平坦な島で、肥沃な土地で農業が行われている。水田が広がっている外、野菜畑がたくさん見え、都市近郊農業も盛んなようだ。村の中を歩くと、最近改築したとおぼしき二階建て、三階建ての立派な農家が多い。バイクの停めてある家も見え、村の道は最近コンクリートで舗装されたようで、農村の暮らしが近年急速に便利になっている様子がわかる。これは農業発展によるというよりは、上海都心などへの出稼ぎの成果だろうが、リーマンショック後に内需拡大のために政府が進めた農村に電化製品を普及させる政策の後押しもあろう。都心には少ない電動器付き自転車や荷台をつけた三輪スクーターなども活躍している。
 崇明島の、近年の新興産業は観光開発である。広い森林公園などの豊かな自然と上海に近いロケーションとを活かして休暇村の建設が進んでいる。コンセプトは「農家の楽しみ」で、都会人に田舎の風情を味わってもらう。「生態系に配慮した島作り」も掲げられており、屋根に太陽電池を乗せた家もちらほら見える。大規模なマンションの開発も進んでおり、「農場の家」として不動産屋で売りに出ていた。値段は1平方㍍当り一万元前後(1元=約15円)で、上海の中心部より一桁安く、都会人が週末の別荘用に買うことを期待しているようだ。観光開発が軌道に乗るのかどうかはまだよくわからない。でも昼食に食べた地元の魚も野菜も、素材の新鮮さが活きて美味しかったから、自然を求めてきた都会人を、かなり満足させられそうだ。屋台の量り売りの苺(8元/500g)も、よい香りを漂わせていた。
 この日の史跡調査では、寿安寺という古いお寺にも行った。きれいに整備された広い伽藍に、天王殿、功徳堂、鐘楼、鼓楼、大雄宝殿などが立ち並んでおり、立派な様子に驚く。20世紀前半の文献では、ここはひなびた田舎の寺という印象だった。近年、善男善女の寄付を得て、どんどん敷地を拡げ建物も建て増しているという。中国の経済発展と伝統回帰を目の当たりにした感じだった。
 急速に社会が変化する時、「伝統」的なものが見直されてノスタルジックな観光資源になることがあるが、現在の中国では、あちこちでその現象を見ることが出来る。

中国風信①-上海の街角から(『粉体技術』2013年2月号より転載)

2013-12-26 11:58:34 | 日記
今年春から、縁あって日本粉体技術協会の機関誌『粉体技術』に「中国風信」と題するエッセイを、滄媚のペンネーム(これ、亡き恩師にいただいた字-アザナ-なのです)で連載しています。中国理解促進のためのささやかな試みでもあります。同協会から許可をいただいたので、今後、ブログにも転載します。これから今年の終わりまでに、まずはこれまでのものを毎日連続で転載する予定。まずは2013年2月号掲載の第一回です。

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 昨年暮れに、会議で上海に出かけた時の様子。街の中心の淮海路はフランス租界だった頃の雰囲気を今に留めるおしゃれな通りで、ロレックスやカルティエなどのブランドショップが並んでいる。目下、景気はあまり良くないようで、通りを歩く人は少ないし、ネオンもひと頃ほど輝いていない。しかし上海人の生活の質は、この間も確実に向上している。目抜き通りの子供用品専門店では、150~350元(約2000~5000円)くらいの子供服が、サイズも豊富に鈴なりにハンガーにぶら下がっていた。かわいいデザインで仕立てもしっかりしていて、日本で使ってもよさそうだ。少し前まではこの値段だと一点モノの高級品だったが、今ではどの子も一着ずつ買いましょう、といわんばかりに大量に売られている。上海市民の購買力がそれだけ上昇したのだ。
会議場は環状道路中山路の外の中心部からやや離れた研究所で、以前は何もなくて不便だった所だ。しかし今回は、近くに新しいコンビニやスタバができて、ずいぶん雰囲気が変わっていた。スターバックスのコーヒーは国際価格なので、中国の物価水準では安くない(庶民価格だと麺の二杯分)。開店した時には、はたして流行るのだろうかと思ったが、繁華街の店はいつも満員だった。今ではこんな場末(失礼!)にまでスタバができて、都会的な空間でコーヒーを飲もうとする人はうんと増えている。上海の経済発展が軌道に乗って、東京に負けない先端的なスポットが出現しだしたのは十年ほど前のこと。今ではそうしたハイクオリティな部分の裾野はどんどん広がって、普通の生活に入り込んできている。
会議後、旧知の上海人のYさんとおしゃべり。コンサルタント会社幹部でバリバリ働く彼女は、こちらで言う「女強人」だ。話はどうしても昨秋の反日デモに及ぶ。
日本では、テレビが「絵になる」過激なデモや暴力行為の場面を何度も流したので、中国中が反日運動に沸きかえっていると思った人もあったかもしれない。実際にはデモなどは各都市の中でもごく限られた時間と場所で起こっただけで、大多数の中国人や在留日本人の生活に関係なかった。
Yさんによると、目下の日中関係についての中国人の態度には、いくつかのタイプがあるという。第一は、暴力行為が発生したのはよくない、中国社会の未成熟を露呈して恥ずかしい、という人。これはインテリに多い。第二は、自分とは関係ない。あれは政治の世界の話で、動員されたデモに不満分子が便乗しただけ、という人。一般庶民の普通の感覚。第三は、魚釣島を国有化した日本政府はけしからん、というちょっと愛国的な人。でもデモにまで行かない。
彼女の話は、私が他から集めた情報と重なる。中国では「政治・外交問題」と「社会で生活する個人」とは別のこと、というのが普通のとらえ方だ。よくもわるくも政治と個人の生活とは距離を置き、個人間の付き合いを大切にする。
そもそも中国では、テレビで反日デモや暴動は報道されていない。しかしこちらでは皆、ネットからそのことを知っている。中国のマスコミは、はなから党と国家の宣伝のツールと位置づけられているので、人々は独自に情報収集して対応することを当然と心得ている。以前はもっぱら口コミが頼りだったが、今では携帯とインターネットのおかげで情報収集は格段に便利になった。
その後の日中間のビジネスは、決定済みのものは進んでいるが、新しい引き合いはさっぱりだ、しかし中国市場はまだまだ拡大するのだから、今こそ打って出るべきなのに、とはYさんの言だ。
帰国時に乗ったタクシーの運転手も言っていた。「なぜ日本人は、そんなに中国を嫌うのか。経済大国の日本と中国が反目していたら、もうひとつの大国のアメリカの思うつぼではないか。日中は協力して経済発展すべきだ、われわれ老百姓[ラオパイシン―ルビ](庶民)は、政治とは関係ない」。
上海人は、もともとあまり政治に熱くならない。そんなことにかまけてビジネスチャンスを逃がしてはいけない、と奇しくも女強人と運転手の意見は一致していた。(滄媚)

<ビジュアルメディアとジェンダー>シンポジウム

2013-12-16 16:11:36 | 日記

昨12月15日、東洋文庫で<ビジュアルメディアとジェンダー>シンポジウムを開きました。私たちのNIFU東洋文庫ジェンダー研究班と同画像研究班、そして敬和学園大学の戦争とジェンダー表象研究会の皆さんとのジョイント企画です。
写真の加納実紀代さんの基調講演をはじめとして、示唆に富む報告や議論が詰まったシンポになりました。とくに戦前の様相を呈しつつあり、メディアの役割についてさまざまな議論がなされている現在、そこにおけるジェンダー表象に込められた意味に、さらに敏感になってゆく必要を感じました。原爆被害を表彰する時に、男性は背中、女性は顔のケロイドがメディアによって強調されたこと、侵略者の残酷性を訴える際に、性暴力に遭った女性の身体の表象を使うことの問題点など、立ち止まって考えるべきことがたくさん提起された会でした。
今回の企画でつながった人たちと、今後とも議論を深めることを切望しています。
プログラムは以下の通り。

<シンポジウム「ビジュアル・メディアとジェンダー」>
日時:2013年12月15日(日)10:30~18:00
場所:(財)東洋文庫2F 講演室1
[午前の部]
趣旨説明・司会:貴志俊彦(NIFU東洋文庫拠点研究員・京都大学教授)
基調講演:加納実紀代(女性史研究者・元敬和学園大学特任教授)「原爆表象とジェンダー」
[午後の部]
第1部 「中国のビジュアル・メディアとジェンダー」司会:江上幸子(フェリス女学院大学教授)
1.坂元ひろ子(一橋大学教授)「抗日戦争期の中国漫画におけるジェンダー表象」
2.石田留美子(中国現代美術研究者)「中国現代アートにみるジェンダー表象」
  コメンテーター:松本ますみ(敬和学園大学教授)
第2部 「女性誌にみる戦争とジェンダー表象」 司会:杉村使乃(敬和学園大学准教授)
3.神田より子(敬和学園大学教授)「第二次大戦下、『青年女子』の表象」
4.桑原ヒサ子(敬和学園大学教授)「『ナチ女性展望』におけるジェンダ ー表象」
  コメンテーター:小浜正子(NIFU東洋文庫拠点研究員・日本大学教授)
総合討論 司会:貴志俊彦

主催:NIHU現代中国地域研究・東洋文庫拠点・ジェンダー資料班&図画像資料班、京都大学CIAS共同利用・共同研究プロジェクト・複合研究ユニット「非文字資料の共有化と研究利用」&個別研究ユニット「写真雑誌に見る第二次世界大戦期の記憶とジェンダー・エスニシティの表象分析」
共催:敬和学園大学戦争とジェンダー表象研究会、科研基盤(A)「東アジア域内100年間の紛争・協調の軌跡を非文字史料から読み解く」、科研基盤(C)「歴史的視点による中国のジェンダー秩序に関する総合的研究」、科研基盤(C)「大衆メディアに見る第二次世界大戦期と戦後秩序の中のジェンダー・エスニシティ」

特定秘密保護法に反対する

2013-12-09 00:40:37 | 日記
 12月6日に「特定秘密保護法」が衆議院に続いて参議院を通過して成立しました。
 私は、これは言論の自由をはじめとする基本的人権を大きく侵害し、日本の民主主義の根幹を揺るがすとんでもない悪法だと考えます。なので、この間、市民として、歴史研究者として法案の成立に反対してきました。「特定秘密保護法に反対する学者の会」に賛同者として名を連ねましたし、5日には国会前の抗議行動にも参加しました。私としては異例なことに授業中にこの問題の重要性を学生に話すこともしました。でも、ああ、成立してしまいました。
 だからといってあきらめてしまうわけにはいきません。私たちの生きる社会がのびのびとした自由な活動ができるものであり続けるよう(今だってアヤしいものではありますが)、これからもできることを続けます。
 この間、主としてFacebookでこの問題に関する情報をやりとりしてきました。伝えたいことは多々ありますが、若い人にもわかりやすい文章になおされた自由法曹団の声明を以下に貼り付けます。この間、独立したジャーナリストとして活発な活動を展開している岩上安身さんのウォールからのシェアです。

★以下、特定秘密保護法案の可決に反対する自由法曹団の抗議声明を、若手弁護士が「超訳」したものを転載します。
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   秘密保護法案強行採決なんかダメ!まだまだやりましょう!

 12月6日、政府・与党は、参議院で、特定秘密の保護に関する法律(秘密保護法)「修正案」の採決を押し切ってしまいました。かなり多くのみんなが反対している、憲法を踏みにじる法案が、まともな審議もしないで、たった9日間で押し切られてしまったんです。
 全国の弁護士2000名が加入している自由法曹団は、こんなとんでもない採決をした政府・与党に、怒りをもって全力で抗議します。

 1 秘密保護法が成立すると何が起こるの?

 秘密保護法では、
 ① ナントカ大臣とかいう人たちが、防衛、外交、スパイ、テロと名の付くいろいろな情報を「特定秘密」だと言って、「なにが秘密か」も秘密にします。
 ② 特定秘密を、メディアや私たち市民、国会議員にも裁判官にも秘密にします。そして、特定秘密を知った公務員・従業員やその家族に対して、身元や家族、交友関係を調査して監視します。
 ③ 秘密を漏らしたり、なんかよくわからないけど官僚の上のほうにとって都合の悪い方法で情報を得たり、「これってどうなってるのかな?取材しようよ」と内輪で相談すること、「取材してよ」「教えてよ」と頼むことまでも、刑務所に入らなければならないような刑罰を科します。
 ナントカ大臣の思うままに特定秘密の指定ができるので、官僚トップが情報を独り占めして、好きなように操作できるようになります。ジャーナリストも一般国民も、国会議員も裁判官も、官僚の「好き勝手」に入っていくことができません。
 秘密保護法は、国家安全保障会議(NSC)設置法と同時に生まれました。これは、日本が戦争をできるようにするいろんな法律(「集団的自衛事態法案」や「国家安全保障基本法案」)とつながっています。こんな法律が全部通ったら、この国は「集団的自衛権」を口実に、アメリカが戦争をしたいときに、外国に出て行って人を殺し、殺される国になります。
 石破茂さんは、「デモはテロ」だと言って、秘密保護法が民主主義に反することをあらわにしました。秘密保護法が成立しちゃうと、首相の言うことを批判すると「テロ」となってしまい、公安が国民を監視するなんていう社会になっちゃいます。
 こんなことは絶対にだめです。秘密保護法は、そういう社会に向けた入口なので、絶対に廃止させましょう。

 2 ぼくたちの40日間戦争

 秘密保護法案が提出された10月25日から40日くらい経ちました。
 この40日間、いろんなところから秘密保護法案は厳しく批判されました。法案の何が問題か、何を目指すものなのかもわかりました。自由法曹団も、法律家の目線から批判しました。
 「なぜ必要」「なぜ急ぐ」「なにが指定できる」「どうチェックする」「どう管理する」「調査はどこまで広がる」「なにが処罰される」「国会はどうなる」「裁判はどうなる」「報道の自由はどうなる」・・これらの「問い」に、なにひとつまともな説明はなかったですね。
 めちゃくちゃな答弁の結果、法案は一応ちょっと修正されました。

 ① 秘密は60年間みんなに秘密にするよ。ものによっては永遠に秘密だよ。
 ② 何をするのかよくわからないけどとにかく内閣総理大臣が何か関与するよ。
 ③ 決まってなきゃいけない問題は法律が成立したあとで決めるよ。
 ④ よくわからないものをちょっとこねくりまわして、もっとよくわかんないものにしたよ。

 というもので、全然「修正」なんかじゃありません。
 世界から見ると、情報は国民みんなに知らされなきゃいけないのに、秘密保護法は全然世界基準についていけてません。
 でも、ここまで与党を追い詰めたのは、どんどん国民が声を上げていった、それがどんどん増えていったことです。海外の人たちまで批判してきたでしょ。戦争が嫌だという人、民主主義とか人権が大事だと思う人、情報公開が大事だと思う人、原発やTPPに反対する人も一緒になって、秘密保護法に反対しました。
 自由法曹団はいろいろやってきたけど、こんなにいろんな人が反対したっていうことは今までないと思います。
 秘密保護法は押し通されました。でも、押し通した政府・与党は、国民からも国際社会からもそっぽを向かれています。

 3 明日へ

 なにが隠されようとし、なにが認められなくなるのか。
 政府・与党は、どんな国と社会をつくろうとしているのか。それが、私たちのくらしとどれだけ深くかかわっているか。
 私たちは、この活動で大きなことを学びました。こういう声を、もっと広げていかないといけません。
 秘密保護法が実際に動き出すことを止めて廃止を求め、マスコミや国民が情報を得ることができるようにして、誰も逮捕されたりしないように自衛隊や警察を見張りましょう。
 国民が望んでもないのにこんなめちゃくちゃなことをやった政府・与党を許さず、国民の声が国会や政治に反映されるようにしましょう。
 日本が戦争をできるようにすることをやめさせましょう。
 みんなと一緒に秘密保護法に反対したことで、私たち自身が、民主主義と人権を守れる力を持っていることがわかりました。
 一緒にがんばったすべての皆さん、自由法曹団ともっと一緒にやりましょう。自由法曹団も全力でがんばります。
    2013年12月 6日           自由法曹団 団長  篠原義人
                       (超訳 自由法曹団東京支部 早田由布子)

第30回日本大学文理学部中国語弁論大会

2013-12-08 11:34:00 | 日記

秋学期の授業が始まって忙しくなり、更新出来ないでいる間に、早くも師走に入りました。
きのう12月7日に、日大文理学部で記念すべき30回目の中国語弁論大会が開かれました。
今年は特に一年生の<暗唱の部>の参加者が多く、水準も高かったのが、希望を感じさせました。Z中国語中国文化学科主任が、「日中関係悪化の中で、学生たちの中国語学習意欲が衰えるのではないかと心配していたが、杞憂だった」と述べたとおり。中国が日本にとって重要な隣国であることは、次の世代も変わりません。今後の日中関係を担う若者たちがしっかりした中国語力と専門知識を持って巣立っていけるよう、私たちも努力を重ねたいと思います。
優勝した4年生のMさんは、発音が素晴らしいだけでなく、彼女自身の関西人としての体験を踏まえた内容を、堂々とした話しぶりの中国語で語ってくれました。間合いの取り方やポーズなども効果的。そういうプレゼンテーション能力、いい意味での「目立ち方」を、多くの学生が体得してほしい。「目立ってなんぼ」の関西人の精神は国際化時代には重要な資質です。東京モンも見習って!(私は大阪出身です)
下の写真は打ち上げの様子。開始前の緊張ぶりとはうってかわって盛り上がってます。