つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

Halloween

2011-10-31 22:08:52 | 日記
ハロウィーン当日。
選択肢は二つある、とジュリアが教えてくれた。一つは家の外灯をつけ、デコレーションをしてお菓子を用意して待っている。もう一つは明かりを消して、暗闇の中で終わりまで潜んでい居る。大体子供たちが回ってくる時間は午後6時から8時。
新しい住居ではちょうど大家が旅行中で、間借り人ばかりなので後者にした。まあ、この辺は老人が多くてあまり子供は住んでない。で、当日、その時間に子供が多いと思われる住宅街を通って帰ってきた。
いるわ、いるわ。さまざまな扮装を凝らした子供たちが三々五々。もうかなり暗いので、電気で光る飾りなどがよく目立つ。付添いの大人も子供に合わせてコスチュームを競う。「子供のいる家は、この時期はどんなコスチュームにするかが大変」と言っていた人の意味が分かった。秀逸は、黒いとんがり帽子に光るマントの魔女の扮装の(孫について歩く)おばあさんか。
迎えるお家も、さまざまにデコレーションしている。直径30センチのカボチャをくりぬいた細工をたくさん(10個くらいあったと思う)作って、中に明かりを灯して街路から玄関までの道を作ってあったお家には感心。
Stanfordでは、Halloweenの音楽コンサートや、教会での行事もあったとか。こちらの暮らしの中でHalloweenが大きな行事だとよくわかった。このあたりではHalloweenが終われば急に寒く、雨の多い雨期に入っていく季節の変わり目でもあるという。
(残念ながら、今日はカメラを持ってなかったので写真はありません)

引っ越し-Casa Olgaの終焉

2011-10-30 09:53:19 | 日記

引っ越しを完了した。
このアパートは、Palo Altoのdowntownの真ん中にある8階建ての、以前は老人介護施設だったところだ。Casa Olgaというこの施設については、よくわからない点もあるが、現在私が了解しているのは、次のようだ。1975年に3人の共同所有者によって創建され(公営施設ではなかったらしい)、以来約9000人の入居者があったが、数年前から施設の半分は少し違った名前のアパートとして運用されるようになり、2009年からは全部がアパートになった。私が入居していたのは施設の部屋を改装したもので、なるほど車椅子で出入りできる設計になっていた。場所が非常に便利で、短期でも泊めてくれるし、ホテルなどより安いので、Stanfordに資料調査に来る研究者などもよく利用していた。
老人施設としては、地域では知られた存在で、長期に住んでいる日本人には「以前、友人のお母さんが入居していた」という人もいるが、老人虐待が地域のニュースになったこともあるといい、近年は問題も発生していたようだ。2009年に老人施設が収束する際には、それを惜しみ反対する声がかなりあった。その後も一階のお年寄りのための美容室が週末のみ開いていた。カボチャコンテストの高級老人施設とはまったくイメージが違う庶民的な建物だ。
今回、所有者が年を取り病気になったので、人に譲ることになり、新たな4人の投資家グループに売却された。彼らはビルを全面改装して高級なホテルとすべく、我々を退去させたというわけだ。
30数人いた住人のほとんどは、より不便になったり高い家賃を払うことになったりしたが、なんとか次の住居を探して引っ越した。長く暮らしていて移りようがない高齢の数人は、継続して居住できることになったという。管理人も新しいホテルで働くとか。というわけで、一ヶ月半前の退去強制通知がこちらの社会通念で許されるものだとすれば、まあまあ穏当な結末だといえないこともない。
Palo Altoは、アメリカで最も景気のいいベイエリアの中でもハイセンスな街とされており、とりわけ住居費が高い(Steve Jobsもここの住人だった)。同時に、社会意識も高く、電気や電話などのユーティリティは、周辺とは違って大会社の供給を受けない市独自の運営をしていて太陽光発電などのエコ設備も発達している。また、高い住居費の問題を解決すべく、市内の便利なアパートをいくつも所有して収入に応じた家賃で提供しているPalo Alto Houseing Committeeという組織もあることも、部屋探しをしている時に知った。Casa Olgaの終焉と高級ホテルへの改装は、富裕な1%にますます富が集まる現在のアメリカ社会の風潮を象徴しているようで、反感を禁じ得ない人も多いようだ。私もそのとばっちりを食った格好で、現代アメリカ社会を体験したらしい。

ハロウィーンat高級老人介護施設

2011-10-28 15:44:40 | 日記

10月にはいると、アメリカの街角にはカボチャの意匠の様々なグッズが登場して、ハロウィーンのシーズンが近づいたことがわかる。こちらの代表的なカボチャは大きくなる品種で、日本のものよりやわらかい。スーバーにもカボチャが山積みで、デコレーションを施されるのを待っている。
先月から、English in Actionという、Stanfordに来ている外国人がこちらの人とおしゃべりして交流する、というプログラムに登録して、退職した大学職員のジュリア(仮名)がパートナーに決まり、毎週いっしょにランチしている。彼女は子供が独立して一人になったので、大学の近くのケア付きアパートに数年前から移ったという。彼女が、今、ハロウゥーンのカボチャコンテストをやってるので見に来ないか、というので、出かけていった。
Stanfordの無料シャトルのバス停では、オレンジのシャツにカボチャ形のピアス、ネックレスはオレンジに髑髏のチョーカーというハロウィーンのコスチュームでジュリアが待っていてくれた。玄関脇には大小のカボチャが飾られ、ホールにはさまざまに細工したカボチャが並んでいて、どれが気に入ったか投票するようになっている。この季節、子供のいる家庭では、ハロウィーンのコスチュームを用意するのが大仕事だというが、年寄りもハロウィーンで楽しむらしい。
驚いたのは、このケア付きホームはもと有名ホテルだった建物で、いまもホテルのような豪華絢爛な施設に老人たちが暮らしていることだ。お昼をごちそうになったレストランは味もサービスも一流で、入居者に食事を提供している。
ジュリアはここの暮らしがとても気に入っていて、6年前にできた時に入れたのはとてもラッキーだったという。カボチャを見に来ている人たちには、歩行器を使っている人もいたが、みな身ぎれいにして、コンテストを楽しんでいる。
ここに暮らす人たちを見ていると、しっかり人生を楽しんで、元気に生きよう、というアメリカの老人の心意気が見えた気がした。もちろんこういう豪華な施設に入れるのは一部の恵まれた人だけだろうが、これはアメリカの老後の在り方の一つの理想形なのだろう。

ヨセミテ渓谷

2011-10-24 22:47:01 | 日記

(夕日でオレンジ色に染まるハーフドーム)
週末、景勝地として名高いヨセミテ国立公園へ出かけた。
ベイエリアからヨセミテはほぼ真東に当たり、縦に長いカリフォルニアを横断して行く。サンフランシスコ湾を横切ってから低い山を越え、セントラルバレーと呼ばれる全米でももっとも豊かな農業地域を過ぎると、4000メートル級の山の連なるシエラネバダ山脈だ。ヨセミテは、この山中に遠い昔にできたU字谷で、切り立った巨岩が谷の両側から迫っている。
ほぼ垂直に削られた巨大な岩塊が、いくつも狭い谷の両側にそそり立っている様子は圧巻だ。岩肌は日の光を受けて時間によって表情を変える。車を駆って尾根の上まで行くと、自然のダイナミックさを別の角度から見はるかすこともできる。
シエラネバダの雪解け水が切り立った岩から一気に800メートルも落下する滝も見どころの一つ。もっともこの季節は雪解け水がもうないので、水量は少なめだったが。
谷底は平らで、色づき始めた森林が広がる中を流れるせせらぎの音が聞こえる。一晩泊まったアワニ―ホテルは谷の奥にあり、1920年代のアメリカの繁栄の時代に贅を尽くして建てられた有名なホテルだ。現地産の巨木や石をふんだんに使い、地元のインディアンの伝統的な意匠で飾られている。天井の高いダイニングは、舞踏会も開ける大広間で、ロウソクの明かりで風格を醸し出していた。
翌日は、国立公園内の古代からのメタセコイアの森林が残っている地区へ。一番大きな樹は2000年前から生きているという。途中で鹿やらキツネやらにも会った。「熊が出るので車の中に食べ物を置かないように」という注意もあちこちにあり、さまざまな動物が人のいる傍で生活しているようだ。
グランドキャニオンとはまた違ったアメリカの雄大な自然を堪能した二日間だった。
[写真をもう少しFacebookのアルバムというものにしてみました。下のURLから見ることができます。]http://www.facebook.com/media/set/?set=a.183202935094980.46035.100002158234987&type=1&l=8851e03a46

寄付と支援二題

2011-10-19 13:07:35 | 日記
ネットサーフィンしていたら、「東北にミシンを贈ろう」というプロジェクトがあったので、どういう企画かと思って調べたら、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」という組織によるものだった。(ホームページは下の通り)
http://fumbaro.org/
この企画は、4月はじめに、震災の被害を受けた被災地に必要なものを送ろうという想いと現地の受け手との出会いによって始まったもので、「今どこで、何が必要か」をネットで知らせ、支援可能な人はそれを送る、必要が満たされれば、その支援は完了、というシステムだ。当初は食料など、夏にはようやく仮住まいでの生活を始めた人に必要な家電製品などを重点に送る企画を立て、現在は期間限定でミシンを送るプロジェクトを展開している。カーテンを縫うのにミシンがあったら、という声を、「ミシンを使って自宅で縫製の仕事をして収入につなげよう!」という企画に発展させたものだ。行政の運営する避難所などでは手の届かない具体的なきめ細かい支援を積み重ねるうちに、ボランティアや企画も増えて、現在ではかなり大きな組織になっているという。
支援の方法は、被災者の方が必要とするものが手許にあればそこへ直接送ってもいいし、また提携しているamazonで必要とされる商品を購入し、ギフトで宛先を被災地としてもよい。私はカリフォルニアからでは物を送りようがないので、amazonにミシンを届けてもらうことにした。
震災から半年が経ったが、生活の基盤を根こそぎ失った人たちの復興はそう簡単にいかないのでは、と思っても、具体的な情報に接することは最近あまりなかった。このプロジェクトのサイトで現地の生の声をたくさん聞き、まだまだ様々な支援が必要なこともわかった。
そして、支援が必要な現地の暮らしと、何か出来ることはないかという想いとをつなぐプロジェクトがこのように育っていることもわかった。こういうプロジェクトをもっと発展させてゆければ、と願う。

ところ変わってここStanfordのHoover研究所では、この数日間、化粧直しの終わったHoover Towerの前にテントが張られて、パーティーの様子だ。私たちが太極拳をする中庭もランチ会場なるので、この一週間は太極拳はお休みになった。聞けば、Hoover Institution運営のための寄付を募って支援者の方たちを招く会が開かれるらしい。春にもパーティーがあったが、そういう会は毎年4回、開催されるとか。アメリカには(とくにここベイエリアには)お金持ちは日本よりも多く、そういう人たちからの寄付は、Stanfordのような私立大学の運営には欠かせない。Stanfordは学費が高いことで有名だが、絶対数としては多いとは言えない学生からの学費だけではこの大学・研究施設を維持運営できるわけはなく、日本の私学助成金のような政府からのお金もあまりこない中で、大学経営には寄付が非常に重要な意味を持っている。
税金の控除をはじめとする寄付を促す社会的な仕組みも発達していて、アメリカではdonationは生活に根づいている(日曜ごとの教会での5ドル10ドルの寄付も、ちゃんと控除の対象になるそうだ)。大学の施設には、大はビルディングから小は私たちの談話室のコーヒーメーカーまで、寄付した人の名前が付いていたりするが、それも顕彰の仕組みの一つだろう。そうした寄付のおかげで、私のここでの研究生活も可能になっているのなら、太極拳が出来ないくらいは仕方ないとするべきか(ちなみに、Hooverでは研修料を払う必要はなかった)。
アメリカ社会には問題点も多々あるが、寄付を促す社会的な仕組みには、日本でもすぐに取り入れてよいものがあるように思う。今年は特にそのような工夫があれば、震災の復興支援もさらに活発に展開されるのに、と思う(私のミシン代も控除の対象にならないかしら)。

脱原発、そして。

2011-10-15 15:04:03 | 日記
大震災と原発事故の年に、国外でサバティカルを過ごして半年。
ターニングポイントの時に、距離を置いて、考える時間を持てたという意味ではラッキーだったというべきか。
中国に経済規模で追い抜かれ、頼りにしてきたアメリカが破産しそうになっていた時に、地震と原発事故が起こってさんざんな目に遭い、日本社会はいやおうでも今後のあり方を考えざるを得なくなった。いや、地震と原発事故への対応の中で様々な問題があぶり出されて、ここをターニングポイントとするしかないということが明らかになったように思われる。
私も3・11以降のさまざまな動きを見ている中で、日本社会の問題点が、かなり整理できた。
問題は、主として二つ。もちろん両者は密接に関係している。
ひとつは、原子力発電をめぐって東京電力・(経産省を中心とした)役人・政治家・マスコミ(そして御用学者!)が癒着した構造。
もうひとつは、対米従属およびそれと連動した反中国世論を継続させようという(外務省を中心とした)役人・一部(よりは多いかもしれないが)政治家・マスコミの「現状維持」の既得権益の構造。
前者については、原発事故以来、多くの人の目に明らかになってきたが、しかし既得権益の構造はそう簡単にはくずれない。明確に脱原発の管総理を執拗なまでの人格攻撃で引きずり降ろしたのは、この勢力だ(彼はたしかに多々問題あったと思うが、あそこまでひどい個人攻撃を受けたのは、脱原発のためだろう)。
後者は、政治的経済的な課題としては前者より重大かもしれないが、まだ多数の人に認識されていないようだ。3・11以前から継続している問題で、目下の焦点は、沖縄の普天間基地移転とTPP参加の是非だ。
両者に共通しているのは、フジサンケイグループを筆頭とするマスコミが大きな役割を果たしていることで、そうしたマスコミの偏向ぶりは、とりわけ21世紀に入ってひどくなった。考えてみれば、90年代の東海村の原発事故の時はリアルタイムで報道があったが、最近も起こっていたらしい同様ないくつかの事故は報道すらされなかった。近年では反原発だと、マスコミで生きていけなくなるらしい(タレントの山本太郎は3・11後、脱原発を言明したら「事務所に迷惑をかけるので」フリーにならざるを得なかったとか)。3・11後のマスコミ各社は、社によって温度差があるが、原発推進派と脱原発派の主戦場ではないかという感じだ。NHKでは一部報道陣ががんばって原発事故の現状などの報道番組をつくっているが、まだまだ大勢は既得権益派なのではないだろうか。明確に脱原発の東京新聞は、財界からの広告をシャットアウトされて大変だという。
そして、マスコミがそれくらい「空気」に支配されていることがわかれば、近年の執拗な反中意識の煽り立ても理解できるというものだ。2005年の反日デモの報道しかり、昨年の尖閣列島で体当たりしてきた中国漁船をめぐる報道しかり。(もっともこちらの方は、いまやアメリカ以上のお得意さんとなった中国市場との関係を考えて、経済界がある程度の所でセーブするようだが。)いずれにしろ情報源のマスコミがこれでは、私たちは限りなく洗脳されてしまう。ネットなどで独自情報の入手に努めるしかない。
さて、いまさらながら私も自分の立場を明らかにしておこう。
第一点に関して。原子力発電は可及的速やかに廃止すべきである。具体的にどのペースで進めるかは、原発立地の地方の人々の意向が第一に尊重されるべきだろう。人が生きる原点を脅かさないことは、経済効率より優先されなくてはならない。
第二点に関して。日本の国是は、日米同盟・日中友好である(表向きは今でもそうだ)。アメリカとは、現在の隷属関係ではなく、良好な「同盟」関係をめざす。普天間基地は、グァムに移転が望ましい(アメリカ国内でもその意見がかなり強いので不可能ではないようだ)。在日米軍のための「思いやり予算」は、徐々に縮小してゆくべき。TPP参加は、米国追従を強めるだけなので、見送った方がよい。中国とは、領土問題は棚上げに戻し、経済的な紐帯を強化すると共に、信頼関係の構築に努めるべき。
この間、twitterやブログで、しっかりと自分の意見を有用な情報とともに発信し続けている何人かを知ったので、紹介しておこう(ネタばれだけど)。
池田香代子さんのブログ(翻訳家。この人の思考力はすごい!)http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/
河野太郎代議士のブログ(彼は自民党の中では珍しい3・11以前からの脱原発派)http://www.taro.org/gomame/
Twitterでは、
孫崎亨さん(元外交官)https://twitter.com/#!/magosaki_ukeru
宮台真二さん(今まであまり好きでなかった社会学者なのだけれど、この間の率直・真摯な発言には敬服)https://twitter.com/#!/miyadai
池田香代子さんはTwitterでも発信し続けているhttps://twitter.com/#!/ikeda_kayoko
以上、とりあえず。

「外邦図」シンポ(続き)

2011-10-12 14:27:10 | 日記
「外邦図」シンポの議論で印象的だったのは、地図と主権をめぐる問題だ。
戦後アメリカが日本を占領した時、多くの地図を接収したのだが国内の測量原図は接収されず、また小笠原・沖縄の返還の際には測量原図も帰ってきた、従って測量原図は主権と密接な関係があると考えられていたのではないか、という話が報告の中であった。「考えられていたのではないか」ということは、定説はないのか、といぶかしく思って日本からいらした報告者に伺ったが、どうも共通見解はないらしい。そんな基本的なことが決まってないなんて、とちょっとあきれた。しかしよく考えてみると、逆に決まっていたら、さまざまな紛争が起きそうでもある。
他の報告の中にも、インドでは地図は購入できるが国外には持ち出せない、とか、主権と地図に関わる興味深い話がいくつかあった。そもそも近代国家が国土と国民と主権で出来ているのだとしたら、地図は国土という国家の基本的な構成要素を示す情報源だ。同時に地図は、その空間に生きる人全てにとって必要な情報でもあり、だからこそいろいろな人が、それぞれの必要に応じた地図を作って使ってきた。
21世紀の情報の電子化の中で、私たちは地図情報をどのように扱えばいいのだろうか。ここはやはり歴史地図も、版権がどうの等といったことを言わずに、Google Mapのように、すべてオープンリソースにして、誰でもアクセスし使える、人類の共有財産にしてゆくのがよいのではなかろうか。

「外邦図」シンポジウム

2011-10-11 14:00:24 | 日記
先週末、「『外邦図』シンポジウム」(スタンフォード大学歴史学部・日本学術振興会在米事務所主催)に参加した。
「外邦図」とは、戦前日本陸軍が戦略のために作った日本領土以外の地図のことで、敗戦とともに廃棄されそうになったが、さまざまな経緯をたどって現在日本及び海外のいくつかの大学などに相当数が保管されている。最近、Stanfordにもたくさんの「外邦図」があることが発見されたので、その利用法とそれを使った研究のシンポジウムが開催されたのだ。
「外邦図」がカバーする範囲は戦前のアジアの広い地域にわたっていて、中国のものもたくさんある。なので、予想以上に私の研究にも関わりの深い内容で興味深く、日本およびアメリカの他地域からの研究者を迎えて、小規模ながら密度の濃いシンポジウムだった。
話を聞いていて印象的だったのは、現在、地図のデータベースを作って公開する作業があちこちで進展しており、Stanfordでも、非常に精度のよい、大きな地図をスキャンできる機械をつかって、どんどん所蔵している地図の電子化・公開を進めているということだった。所蔵の「外邦図」も来年末くらいまでには公開の予定だとか。台湾の中央研究院でも、GISを駆使して中国の歴史地図をさまざまな角度から整理したデータベースの構築・公開が進んでいる。
Google Mapのおかげで世界中の地図と航空写真が瞬時に思いのままの縮尺で利用できるようになって大変便利になったが、そういうことを歴史地図でも出来るようにしようという作業が進んでいる。(ついでに、古地図をipad上で現在の地図と対比させて見ることが出来る商業サイトがあることを教えてもらった。これもとても楽しい)残念なのは、そのような歴史地図のデータベース構築作業でも、日本はアメリカ・中国・台湾などに大きく遅れを取っているらしいことだ(現在の地図については堂なのだろう?)。
21世紀は、基本的にほとんどの情報が電子化される時代で、過去何世紀もの紙で情報を蓄積するのが基本だった時代とは大きく変わった。これに対応したしっかりしたビジョンを持った情報収集と蓄積のシステムの構築が急がれると、改めて思った。

戦略的思考の必要性

2011-10-02 18:39:17 | 日記
仕事が一段落したので、この週末は、読まなくてはと思っていた孫崎亨『日本の国境問題』、同『日本人のための戦略的思考入門-日米同盟を超えて』を読む。
日本人に戦略的思考が決定的に欠けていること、日本の領土問題が、特にアメリカ政府にどう認識されているか(尖閣列島については日中間の中立、竹島は韓国領、国後択捉はロシア領)、アメリカがそうした国境問題をあおって日本と近隣諸国を対立させてきたこと、等々、ため息をついて頷ける点が多々あった。
今世紀に入ってからの日本のマスコミの反中報道(と言ってしまおう)のせいで若者に嫌中感が広がり、おかげで我が中国学科の志願者も減少気味で大変困っているのだけれど、それは日本国内のアメリカ追随勢力によるだけではなく、背後にはやはり米国の差し金があったのだ、と確認。
こちらにいると、アメリカはもう日本の経済を追い越した中国の方を日本より重視していることは既定の事実として実感される。いつまでもアメリカの言いなりに追随しているのではなく、日米の同盟関係を維持しながらも独立した思考と行動をとり、同時に中国との友好と信頼を深めていかなくては、日本は立ちゆかないことは自明だと思うのだが、どうも国内の「空気」は簡単にそうならないようだ。孫崎氏は、その原因は日本人の戦略的思考の欠如であり、それは日本企業の衰退の原因にもなる、と厳しく指摘する。
戦略的思考を鍛えることの必要は、常に銘記しなくてはなるまい。そして、その基盤には、個人として国としてどのような行き方をするかという哲学が必要だ。(哲学の必要な現実の課題として、今まさに、対米姿勢および原子力発電をどうするのか、が議論され決定されなくてはならないと思うのだが。)
授業に復帰したら、ぜひ学生に読ませたい本だ。