つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

中国風信26 琉球からみる中国-朝貢関係の虚実(『粉体技術』9-4, 2017.4より転載)

2017-09-17 23:45:06 | 日記
 今年の春は、例年のように中国ではなく、沖縄を訪れる機会があった。彼の地では、復元された首里城などを多くの中国人観光客が見学していた。今回は昔の琉球と中国との関係を考えてみよう。
 琉球国王の住んだ首里城は、何重かにめぐらした石垣で囲まれた最も高い場所に宮殿が配置されている。石垣の様子は日本の城のようだが、中心部は門を入ると四方を囲まれた中庭の向こうに朱塗りの宮殿が鎮座しているという、北京の紫禁城を彷彿とさせる造りである。日本の城にはふつうこのような中庭はなく、中国文化の強い影響を感じさせる。
 中庭は儀礼空間であり、重要な儀式が行われる。新年には文武百官が整列して、宮殿の二階に鎮座する琉球国王に拝謁して新年を祝う。他に重要なものとして、中国の皇帝から派遣された冊封使による琉球国王の冊封の儀式がある。
東アジアの海域の中継貿易で栄えた琉球王国は、よく知られているように、成立以来、明・清の中国王朝に朝貢していた。琉球からは、朝貢使節が中国を訪れて皇帝への朝貢品を差し出し、それに数倍する下賜品を賜る。琉球国王が代替わりした時には、北京から皇帝の名代の冊封使と呼ばれる使節がやってきて、「汝を封じて琉球国王と為す」と、新たな国王の地位を認定する。その際には、首里城の中庭の正面にしつらえられた台に座る冊封使に対して琉球国王は下座に立ち、皇帝からの書簡をいただく。冊封された国では、中国の暦(元号など)を使うことが義務づけられた。そこでも中国皇帝の支配する時間が流れるのであり、これを「正朔を奉じる」という(朔とは毎月の一日のこと)。これらの儀礼のあり方は、朝鮮やベトナム(大越国)など他の朝貢国も同様で、こうした儀礼的関係のネットワークによって、前近代東アジアの国際秩序が形成されていた。
ところが1609年、薩摩藩の島津家が琉球に侵攻してここを支配下に置き、琉球は徳川将軍を頂点とする幕藩体制下に薩摩藩の下属として組み込まれた。かくして琉球は、一方で中国の朝貢国であり、一方で日本の徳川幕府の支配下にあるという、「両属」と呼ばれる状態になり、それは明治初年の琉球処分によって沖縄県が置かれて琉球王国が終焉を迎えるまで続いた。
しかし一体、「両属」という二重主権のような状態は、どのようにして可能だったのだろうか。
幕府や薩摩藩は、琉球が中国の朝貢国であることは先刻承知であった。彼らは中国の役人が琉球へ来る時は鉢合わせしないように身を隠し、支配の実態を意図的に慎重に隠し続けていた。中国の使者がやって来るのは国王の代替わりの際の冊封使くらいに限られており、それは清朝の二百数十年で8回だけだったから、その時だけ彼らの目を欺けばよかったのである。
だが、たまにしかやって来ないとはいえ、冊封使らの一行は、琉球で幕府の支配の気配を感じていた。たとえば中国のものではない、日本の元号が使われているのを見つけたりする。が、彼らは気づいても、見て見ぬ振りをした。尚温王の即位に際して冊封副使として嘉慶5(1800)年に琉球に赴いた李鼎元は、日本の寛永銭や元号を見て、「琉球がむかしかつて日本に親属していたことがわかる。今、これを言うのを避けているのだ」と述べて、「今」の「事実」を直視しようとしない。(夫馬進編『使琉球録解題及び研究』参照)
前近代東アジアの国際秩序、すなわち朝貢=冊封システムとは、そのような危うい均衡によって維持されていたのである。琉球について言えば、両属であるからこそ中継貿易の基地たりえたのであり、清朝も薩摩藩もそのことにメリットを見出していたのだろう。建前を押し通すよりも、曖昧な現実が受け容れられて、東シナ海が平和な海であった時代があったのだ。

【写真】首里城の復元された中庭と宮殿

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