水の丘交通公園

鉄道メインの乗り物図鑑です。
※禁無断転載!使用に際してはコメント欄にて
用途を申告してください。

鉄道事業者・路線紹介:西大寺鉄道

2012-09-03 00:02:48 | 鉄道事業者・路線紹介
■概要
西大寺鉄道は岡山県にあるはだか祭で有名な西大寺観音院の御膝元である
西大寺と岡山市内の後楽園(今の夢二郷土美術館)までを結んでいた軽便鉄道である。
地元では「けえべん」と呼ばれて親しまれた。
今回は会社としての西大寺鉄道と路線としての西大寺鉄道の両方を紹介する。

■営業路線
西大寺鉄道線:後楽園~西大寺市間 11.4km
動力方式:蒸気機関及び内燃機関(非電化)
軌間:914mm 閉塞方式:通票式
駅数:10駅
駅名一覧※()内は乗換可能路線
後楽園(岡山電気軌道番町線と徒歩連絡)
森下
原尾島
藤原
大師
財田(国鉄山陽本線東岡山駅と連絡)
長利
大多羅
広谷
西大寺市

■沿革
明治43年7月:西大寺軌道として創立。
明治45年1月:観音~森下間開業。
創業時の駅名は以下の通り。
観音(→西大寺町→西大寺市)・松崎(→広谷)・大多羅・岩間(→長利)・長岡(→財田)
・関(→幡多→大師)・二本松(→藤原)・原尾島・森下
大正2年11月:鉄道院(現:JR)との手荷物輸送提携開始。
大正3年7月:手荷物輸送提携に伴い鉄道院より駅名変更命令の為、
 一部駅にて駅名変更実施。※変更後の名称は上記カッコ()内及び駅名一覧参照。
大正3年7月:営業免許を軌道法適用から軽便鉄道法へ変更。複数の客車を連結しての
 合法的な運用が可能となる。
大正3年11月:社名を西大寺鉄道株式会社に改める。
大正4年9月:森下~後楽園(仮駅)間開業。
大正4年11月:後楽園仮駅~後楽園駅間開業。全線開通。
大正5年10月:虚空蔵大師への参拝客増加のため幡多駅を大師駅に改称。
大正15年10月:乗合自動車事業への進出を決定。
昭和2年2月:岡山市街乗合自動車設立。鉄道線沿線にバス網を整備し、
 岡山市内との連絡を強化。
昭和6年7月:ガソリンカー導入。単端式の小型2軸車でキハ1~5号と命名。
 同年11月より本格運用を開始し、蒸気機関車牽引の列車を混雑時間帯を除いて
 廃止した。
昭和8年:大正末期に休止されていた原尾島駅を移転して岡山競馬場前駅開業。
昭和11年5月:両備バス創立。
昭和12年1月:旭川河川改修工事に伴い後楽園駅移転。営業距離が0.1km縮小。
昭和14年2月:ガソリン燃料の統制による燃料不足解消のため薪瓦斯発生炉を
 ガソリンカーの一部へ取付。自社独自開発のもの。
昭和19年4月:練馬場(←岡山練馬場←岡山競馬場前←原尾島)駅休止。
昭和19年9月:大洪水被害により沿線3kmにわたり浸水。広谷駅半壊。
昭和24年6月:蒸気機関車全廃。朝鮮動乱による金属高騰を受けてスクラップとして
 売却される。
昭和26年6月:大型で持て余していたキハ100号ボギー式気動車の車体を切断し、
 キハ8号とキハ10号の単端式小型気動車へ改造。
昭和28年4月:西大寺町の市制移行に伴い駅名を西大寺町から西大寺市へ解消。
昭和28年11月:練馬場駅廃止。
昭和30年10月:両備バスを吸収合併し、社名を両備バス株式会社とする。
 西大寺鉄道の名称は路線線で存続。
昭和31年10月:県営住宅建設に伴い原尾島駅移転・開業。
昭和37年9月1日:国鉄赤穂線東岡山~伊部間開業。
昭和37年9月3日:さよなら運転中のキハ7が踏切に侵入したトラックと衝突し、
 前面の荷台を大破するも最終日のさよなら運転に使用する車両であったため、
 夜を徹しての修理を敢行。9月5日に完全に修理を終えて復帰する。
昭和37年9月7日:国鉄赤穂線開通に伴い、西大寺鉄道線廃止。さよなら列車運行。

■車両
機関車:1~5の5機が在籍。新造機もあったが一部は菊池軌道(現・熊本電気鉄道)などの
 中古車もあった。
 路線規模に比して車両の数が多いのは西大寺観音院で行われる会陽(裸祭)輸送と
 運転本数を多くとっていたためである。
 特に会陽輸送の時は客車の屋根の上まで客が溢れるほどの状況を呈したため、
 各機関車では屋根に煤煙がいかないように煙突を上方に延長していたのが特徴と
 なっていた。
 この延長は数度にわたって行われ、最後は国鉄の大型蒸気機関車並の高さになり、
 監督官庁から運行許可を得られなくなる程まで延ばされた。
 ガソリンカー導入後は運用機会が減ったが、会陽輸送時はガソリンカーとの
 協調運転が行われた。昭和24年6月に全車廃車。スクラップとして売却。
客車:2段屋根の木造車体に両端にオープンデッキを備えたオーソドックスなスタイル。
 蒸気機関車やガソリンカーに牽引されて運用された。
 塗装は茶色に白帯で座席はロングシート。会陽の時は全車が引き出されて
 限界まで連結されたが、それでも御客が溢れるほどであった。
 会陽が終わった客車は屋根がボロボロになり、雨漏りをしていたという。
 廃線まで運用された。ハボ13号車が貨車のワ3と共に池田動物園に保存されている。
ガソリンカー:単端式のキハ1~5と両運転台・ボギー車のキハ6、キハ7、キハ100が
 在籍していたが、キハ100は扱いづらく、車体を真っ二つに切断して流線型の
 先頭部分を取り付けて単端式のキハ8とキハ10に改造された。
 キハ6とキハ7は大きな荷台を両端に設けており、手荷物や自転車などを運んだ。
 キハ6とキハ7は戦後ディーゼルエンジンに換装。
 キハ6と7は廃線まで主力車として運用され、廃線後も資材回収などで活躍した。
 キハ4、キハ6、キハ7が記念館の構想があったため、しばらく残されたが、
 キハ7以外の2両は解体されている。キハ7は西大寺市駅跡に保存展示されている。
 このキハ7は昭和12年川崎車両製の戦前製流線型ガソリンカーで、
 914mm軌間のものとしては唯一の存在として知られており、産業考古学会より
 推薦産業遺産に指定されている。
■廃線後の状況
廃線跡は自転車専用道や普通の自動車道として整備されている。
駅跡については後楽園駅が夢二郷土資料館になったほか、西大寺市駅跡は
西大寺市バスターミナルとなっている。
財田駅跡は地勢の悪さから線路が外された以外、そのまま残されていたが、
東岡山駅の駅前整備事業の際に駅舎やホームが撤去され、周辺の線路跡も工業団地
建設のための道路整備で消失している。
駅舎では大多羅駅の駅舎が地区の公民館として現在も使われているほか、
西大寺市駅跡にある西大寺鉄道本社の建物は現在も両備ホールディングスの
登記上の本社として現存しているほか、同敷地内にはバス乗務員の休憩所として
財田駅の駅舎が移築されて残っている。


○現在も残る西大寺鉄道本社。


○かつて車庫のあった場所に駐車中の現在運行されている両備バス。
 廃線跡をトレスする系統は本数が少ないが岡山駅発の天満屋・東山経由の
 西大寺行は日中10分間隔で運行されている。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。