昭和30年に国鉄が開発した軽量車体を持つ客車である。
従来の車体工法から脱却し、航空技術からの転用であるセミモノコック構造を
採用し、車体の骨組みなどにもプレス一体形成品を使用するなど、
徹底的な軽量化を図っている。
これにより、車体の大型化が可能となり、輸送力の大幅な改善になったほか、
大窓を採用した軽快なスタイルで、日本の鉄道車両のデザインに新風を吹き込んだ。
内装などにも軽金属やプラスチック樹脂などの新素材を多用し、
台車も高速電車用台車の研究成果からこれまでの鋳鉄製から、
プレス鋼板部材を多用して軽量化を図っている。
しかし、台車のバネのセッティングを硬くしすぎたため(混雑対応のため)、
従来の客車にはなかった短周期の上下振動が起こることになってしまい、
乗り心地については不評を買うことになった。
種類は以下の通りである(等級は当時のもの)。
座席車
三等車=ナハ10・ナハ11・ナハフ11・ナハフ10
二等車=ナロ10→オロ10(冷房化)
寝台車
三等寝台=ナハネ10→ナハネフ10(車掌室設置)→オハネフ12(冷房化)
ナハネ11→オハネ12(冷房化。上写真)
オハネ17→スハネ16(冷房化)
ナハネフ11→オハネフ13(冷房化)
二等寝台=オロネ10・オロネフ10(オロネ10の一部に車掌室設置)
二等三等合造寝台=ナロハネ10→オロハネ10(二等側冷房化、後に三等側も冷房化)、
食堂車
オシ17(本格的な食堂車。上写真)
オシ16(ビュッフェスタイルの食堂車)
荷物車
カニ38(大型荷物用の試作車)
郵便車
オユ10
オユ11
オユ12/スユ13(オユ12の電気暖房装置車)→オユ13(電気暖房再撤去車)
オユ14/スユ16(オユ14の電気暖房装置車)
スユ15
職用車
オヤ10(ナロネ10からの改造。夜間工事用の宿泊車)
オヤ17(オシ17から改造。機関士養成用の教習車)
試験車
マヤ10(車両性能試験用)
救援車
スエ38(カニ38からの改造)
これらのうち、寝台車の一部や食堂車は進駐軍からの返還や特急の電車化、
気動車化で余剰となった旧型客車の台枠や台車を使用して同等の車体を
新製したものもある。
新造当初は特急列車などにも投入されたが、それらの電車化、気動車化が進行して
昭和35年には特急から撤退し、急行列車に投入されることになる。
しかし、極度な軽量化により、保温性が悪く、隙間風や乗り心地が不評であったことに加え、
薄い鋼板を使用した車体の波打ちや腐食などの劣化の進行が早かった。
特に国鉄の労使関係が著しく悪化した昭和40年代以降は、
ろくな整備も受けられず、それに追い討ちをかけた。
また、昭和47年に北陸本線北陸トンネルで発生した列車火災事故(※)では
火元になった食堂車のオシ17が全車使用停止になり、教習用のオヤ17に改造された
2両と事故に遭って保全命令の出た1両を除いて廃車になっている。
昭和50年代に入ると、新幹線の延伸による夜行急行列車の削減が相次ぎ、
徐々に活躍の場を狭めていった。
座席車の優等列車運用は70年代後半には重量級の旧型客車であるスハ43系などに
譲って全滅している。
寝台車については適当な代替車がなかったため、しばらくは残っていたが、
初代のブルートレインであった20系客車や、それよりも新しい14系客車の
格下げなどで、昭和57年までに優等列車からは引退し、普通列車からも
昭和60年に引退して、全車が営業運転を終了している。
その後は一部が事業用に転用され、平成7年まで車籍を有していた。
除籍後も3両が保存され、碓氷鉄道文化村にナハフ10、オハネ12、オシ17(内部は教習車のまま)が
展示されている。
(※)北陸トンネル列車火災事故
昭和47年11月6日に北陸本線敦賀~南今庄間にある北陸トンネルで発生した列車火災事故。
大阪発青森行きの急行「きたぐに」に連結されていた食堂車のオシ17の喫煙席付近から出火した。
当時の運行規則で「火災が起きたら、どんな場所でもすぐ止まって消火せよ」という
決まりがあったため、これを守ったがために、長大なトンネル内に
煙が充満することになった。
この事故で30名が死亡し、714名が負傷した。
当初、原因は同車のキッチンで使用されていた石炭レンジが疑われたが、
その後の調査で電気配線の老朽化によるショートであることが発覚した。
また、内装材に使用されていた合成樹脂などからの有毒ガスの発生、
停電による機関車の走行不能、消灯され真っ暗闇のトンネルと充満した煙などで
指導機関士(死亡)などの必死の救援・消火活動も虚しく、被害を拡大した。
この事故以降、トンネルや車両の安全基準や不燃化基準が厳しいものになった。
また、トンネル内での火災時には「どんな場所でもすぐ止まれ」から、
「全ての窓、ドア、通風器を閉鎖して全力でトンネルから脱出後、直ちに消火せよ」に
改められた。
また、この当時、既に夜行急行列車の食堂車は縮小傾向にあり、同型車で
営業していたのは常磐・東北線急行の「十和田」のみであったが、
この事故の翌日から連結を中止し、国鉄の急行用食堂車についても終止符を
打たれた。
従来の車体工法から脱却し、航空技術からの転用であるセミモノコック構造を
採用し、車体の骨組みなどにもプレス一体形成品を使用するなど、
徹底的な軽量化を図っている。
これにより、車体の大型化が可能となり、輸送力の大幅な改善になったほか、
大窓を採用した軽快なスタイルで、日本の鉄道車両のデザインに新風を吹き込んだ。
内装などにも軽金属やプラスチック樹脂などの新素材を多用し、
台車も高速電車用台車の研究成果からこれまでの鋳鉄製から、
プレス鋼板部材を多用して軽量化を図っている。
しかし、台車のバネのセッティングを硬くしすぎたため(混雑対応のため)、
従来の客車にはなかった短周期の上下振動が起こることになってしまい、
乗り心地については不評を買うことになった。
種類は以下の通りである(等級は当時のもの)。
座席車
三等車=ナハ10・ナハ11・ナハフ11・ナハフ10
二等車=ナロ10→オロ10(冷房化)
寝台車
三等寝台=ナハネ10→ナハネフ10(車掌室設置)→オハネフ12(冷房化)
ナハネ11→オハネ12(冷房化。上写真)
オハネ17→スハネ16(冷房化)
ナハネフ11→オハネフ13(冷房化)
二等寝台=オロネ10・オロネフ10(オロネ10の一部に車掌室設置)
二等三等合造寝台=ナロハネ10→オロハネ10(二等側冷房化、後に三等側も冷房化)、
食堂車
オシ17(本格的な食堂車。上写真)
オシ16(ビュッフェスタイルの食堂車)
荷物車
カニ38(大型荷物用の試作車)
郵便車
オユ10
オユ11
オユ12/スユ13(オユ12の電気暖房装置車)→オユ13(電気暖房再撤去車)
オユ14/スユ16(オユ14の電気暖房装置車)
スユ15
職用車
オヤ10(ナロネ10からの改造。夜間工事用の宿泊車)
オヤ17(オシ17から改造。機関士養成用の教習車)
試験車
マヤ10(車両性能試験用)
救援車
スエ38(カニ38からの改造)
これらのうち、寝台車の一部や食堂車は進駐軍からの返還や特急の電車化、
気動車化で余剰となった旧型客車の台枠や台車を使用して同等の車体を
新製したものもある。
新造当初は特急列車などにも投入されたが、それらの電車化、気動車化が進行して
昭和35年には特急から撤退し、急行列車に投入されることになる。
しかし、極度な軽量化により、保温性が悪く、隙間風や乗り心地が不評であったことに加え、
薄い鋼板を使用した車体の波打ちや腐食などの劣化の進行が早かった。
特に国鉄の労使関係が著しく悪化した昭和40年代以降は、
ろくな整備も受けられず、それに追い討ちをかけた。
また、昭和47年に北陸本線北陸トンネルで発生した列車火災事故(※)では
火元になった食堂車のオシ17が全車使用停止になり、教習用のオヤ17に改造された
2両と事故に遭って保全命令の出た1両を除いて廃車になっている。
昭和50年代に入ると、新幹線の延伸による夜行急行列車の削減が相次ぎ、
徐々に活躍の場を狭めていった。
座席車の優等列車運用は70年代後半には重量級の旧型客車であるスハ43系などに
譲って全滅している。
寝台車については適当な代替車がなかったため、しばらくは残っていたが、
初代のブルートレインであった20系客車や、それよりも新しい14系客車の
格下げなどで、昭和57年までに優等列車からは引退し、普通列車からも
昭和60年に引退して、全車が営業運転を終了している。
その後は一部が事業用に転用され、平成7年まで車籍を有していた。
除籍後も3両が保存され、碓氷鉄道文化村にナハフ10、オハネ12、オシ17(内部は教習車のまま)が
展示されている。
(※)北陸トンネル列車火災事故
昭和47年11月6日に北陸本線敦賀~南今庄間にある北陸トンネルで発生した列車火災事故。
大阪発青森行きの急行「きたぐに」に連結されていた食堂車のオシ17の喫煙席付近から出火した。
当時の運行規則で「火災が起きたら、どんな場所でもすぐ止まって消火せよ」という
決まりがあったため、これを守ったがために、長大なトンネル内に
煙が充満することになった。
この事故で30名が死亡し、714名が負傷した。
当初、原因は同車のキッチンで使用されていた石炭レンジが疑われたが、
その後の調査で電気配線の老朽化によるショートであることが発覚した。
また、内装材に使用されていた合成樹脂などからの有毒ガスの発生、
停電による機関車の走行不能、消灯され真っ暗闇のトンネルと充満した煙などで
指導機関士(死亡)などの必死の救援・消火活動も虚しく、被害を拡大した。
この事故以降、トンネルや車両の安全基準や不燃化基準が厳しいものになった。
また、トンネル内での火災時には「どんな場所でもすぐ止まれ」から、
「全ての窓、ドア、通風器を閉鎖して全力でトンネルから脱出後、直ちに消火せよ」に
改められた。
また、この当時、既に夜行急行列車の食堂車は縮小傾向にあり、同型車で
営業していたのは常磐・東北線急行の「十和田」のみであったが、
この事故の翌日から連結を中止し、国鉄の急行用食堂車についても終止符を
打たれた。