水の丘交通公園

鉄道メインの乗り物図鑑です。
※禁無断転載!使用に際してはコメント欄にて
用途を申告してください。

国鉄 「洞爺丸」型青函連絡船用車載客船

2010-09-26 22:43:00 | 電車以外の乗り物
青函連絡船「洞爺丸」型は戦災で失った車載客船「翔鳳丸」型4隻(翔鳳丸、飛鸞丸、津軽丸、
松前丸)の代船として建造されたものである。
昭和23年に洞爺丸、羊蹄丸、摩周丸、大雪丸の4隻が就航した。

当時の日本は敗戦の為、アメリカに統治されており、鉄道車両や船舶、航空機の製造が
禁じられていたが、当のアメリカが壊滅させた青函連絡船では貨物船だった
第7・第8青函丸や第11・12青函丸、石狩丸に客室を設けたが、第11・12青函丸と石狩丸は
進駐軍に接収されてしまい、深刻な輸送力不足となっていた。
国鉄では青森で空襲に遭い、座礁していた第6青函丸を復旧させたほか、他の国鉄航路から
客船をかき集め対応していたが、焼け石に水であった。

この窮状を打開するため、昭和21年に国鉄がGHQに青函連絡船向けに新造船8隻(客載車両
渡船4隻&貨物車両渡船4隻。これに宇高連絡船の紫雲丸型3隻と補助汽船6隻の計17隻分)の
製造許可を、どうにか取り付け、製造が開始された。
こうして誕生したのが洞爺丸型4隻である。ちなみに貨物船では十勝丸、渡島丸、北見丸、
日高丸が就航している。

製造メーカーは三菱重工業(洞爺丸・羊蹄丸・大雪丸)と浦賀船渠(摩周丸)である。

船体は従来の客載車両渡船よりも8m延長された大柄のもので、船橋から前上部構造にかけて
ゆるやかな曲線を描いている。
側面は開放型の上部遊歩甲板の下に下部遊歩甲板の2段式の角窓がずらりと
並んでおり、船体後部の車両乗船口のところで切り立ったようになっている。
煙突は上部に左右2つずつ4つあり、少し後方に傾けることで優雅さを演出している。
塗装は船名板より上が白、これより下が黒で煙突は黄色と黒でファンネルマークは
黄色の部分に赤で「工」と描かれている。

船内は5層構造で、最上部から順に端艇甲板、上部遊歩甲板、下部遊歩甲板、車両甲板、
第2甲板で構成される。
上部遊歩甲板には1等と2等の船室があり、1・2等用食堂を挟んで1等が船首側、
2等が船尾側にある。
1等客室は入口ロビーにソファが置かれ、照明と天窓からの自然光が入るもので
広間の壁にはエッチングアートが飾られた。
船室は4人用の寝台室と2人用の特別室がある。
2等船室は1・2等客用の食堂と喫煙室を挟んで船尾側にあり、2等入口ロビーを挟んで
前側が寝台室、後ろ側がじゅうたん敷きの座席室となる。
食堂と喫煙室は煙突の通り道で囲われた区画にあった。
なお食堂は、当時の食糧事情から非営業で、これが好転する昭和25年から営業を
開始している。
3等船室は下部遊歩甲板と第2甲板にあり、下部遊歩甲板は車両格納所を取り巻くように
逆Uの字型で客室が構成され、左舷側に専用の乗船口と3等客用の食堂がある。
また、この区画は青函連絡船で初めて椅子席としている。
第2甲板の客室は機関室を挟んで前2部屋、後1部屋があり、畳敷きの座席で広々とは
していたが、乗船口から部屋まで2フロアも降りなければならず、各種配管がむき出しの
ままであった。

車両甲板はワム形貨車で18両が積載可能で、客車航送のための簡易ホームもある。
これは歴代の鉄道車両を積める青函連絡船の客船で最も少ない数であるが、
乗船定員の増強を優先させたため、仕方ないといえる。

動力はボイラー6缶(乾燃式円缶)で蒸気でタービンを回す、蒸気タービン方式で、
摩周丸がインパル・スタービン、他の3隻がインパルス・リアクション・タービンである。
航行最高速度は17.5ノットで青森~函館間の所要時間は4時間半であった。
なお、洞爺丸から船内の各機器の電源の交流化を図り、ターボ式ディーゼル発電機2基を
装備していた。
係船機械についても交流化が行われている。

戦後の混乱期に登場した船ではあるが、1・2等を中心にそれを感じさせない程、完成度の
高いものであった。
蒸気機関車牽引の鈍足で大混雑の列車を降りた乗客は、この真新しい船に乗り換え、
給湯設備の整った洗面台で顔を洗い、整備された船内でくつろぐことができ、
荒廃した列車よりも先に快適なサービスを提供した。
昭和25年に船体の客室部分が大きく、強風時に舵が利き難くなることがあったことから
舵の面積の拡大と補強板設置を実施した他、貨物船の渡島丸と同時にマリンレーダーを
メインマスト前の船橋上に設置した。
これの前年には朝鮮戦争の勃発で日本海にばら撒かれた浮遊機雷が津軽海峡に
流れ込んできたため、救命艇をいつでも降ろせる状態にしていたほか、救命浮器を
いつでも投下できるよう上部遊歩甲板デッキに配置した。
このほか、車両甲板左右の作業デッキへの覆い設置など、細かい改良が行われている。

昭和29年8月には北海道で開催された国体に参加されるため、天皇陛下が洞爺丸に
乗船され、「海峡の女王」の名に相応しい活躍をした。

・・・が、その翌月、悲劇は起きた。
昭和29年9月26日。発達した台風15号は日本に接近。勢力を強めながら日本海側を
北上していると見られた。
函館は当日、天候が悪く強い雨が降り続き、停電も断続的に発生していた。
11時に青森から函館に到着し、折り返し14時40分発の4便として待機していた洞爺丸は
出港準備をしていた。
しかし、12時40分ごろに津軽海峡を航行中の渡島丸が「風速25メートル、波8、うねり6、
動揺22度。進路南東で難航中」と無線電話が入る。時化で操船が難しくなるのは当たり前だが、
「難航中」というのは、操船の自由がきかないという状況を暗に示しているものである。
この無線を聴いた先行の第6青函丸と第11青函丸(いずれも戦時設計船)は函館に
引き返してくる。
うち、進駐軍を乗せていた第11青函丸の乗客と車両を洞爺丸に移乗させる事になった。
洞爺丸は定時出航して19時少し前には三厩湾に逃げ込む予定でいたが、この作業に手間が
かかった上、車両を積むための可動橋が停電で上がらず、出航できなくなってしまう。
結局、15時10分に「天候警戒運転見合わせ」となり、出航を中止する。
しかし、この停電は僅か2分だけで、ここで出航できていれば洞爺丸は青森に
着けていたという説がある。

この頃、函館ドックのブイに繋留されていたイタリア船籍の貨物船「アーネスト」が
高波で繋留が外れ漂流し始め、港内は俄かに混乱した。
また、15時過ぎから強風とバケツをひっくり返したような大雨が函館で降り注いだ。

この雨は突然、17時ごろに上がり、吹き付けていた風も弱くなり、夕日さえ見ることが
出来た。
「台風の目か・・・」
船長も誰もがそう思った。吹き返しを見定めて1時間、あとは台風に逆行するのだから
風も波も弱くなるだろうと判断し、洞爺丸は「遅れ4便」として18時半に出航することを
決意する。
そして18時39分、汽笛一声、洞爺丸は函館港を出航していった。

ところが港の外に出た直後、40mを越える強風と高波に煽られ、洞爺丸の船体を激しく
揺らす。誰が見てもこの状況で津軽海峡に出るのは無謀であった。

実は16時の段階で台風は来ておらず、先の大雨は台風によって刺激された前線が発達した
状態になっていたのだ。
これにより低気圧同士の間に出来ることがある閉塞前線が形成され、一時的な晴れ間を
見せていたに過ぎない。
それが丁度17時ごろ。そして1時間後、台風はやってきた。

洞爺丸はその場で錨を下ろし、停泊することになる。しかし、あまりの風と波で錨が
利かずに流され始める。機関を動かし、船の姿勢を保とうとするが、船尾にある
車両搬入口から海水が入り始め、機関室に海水が入ってくるようになった。
車両甲板では甲板員が貨客車の緊締器具の締め直しを行っていたが、彼らにも船尾からの
海水が襲い掛かり、徐々に船内に滞留し始めた。
洞爺丸型に限らず青函連絡船の船には鉄道車両を搬出入するための口が船尾にあり、
港にある可動橋と連結するためのエプロンという張り出しがある。
ここが波頭に突っ込むと海水を拾い上げ、船首側に水を送る。船首側が上がると水は
船尾から出て行くはずだが、エプロンが水の中だと、新たに水を拾い上げるだけとなり、
滞留してしまうのだ(獅子嚇しを思い出してもらうとわかりやすい)。
機関室の火手が総出でボイラーの火を守ったが、浸水は如何ともしがたく、
21時半ごろ左舷の機関が停止する。
22時ごろには右舷も停止して動力を失い、右舷に船体を傾けながら漂流し始める。

レーダーは1200m先に七重浜を捉え、洞爺丸がこれに向かって流されていることを
示していた。七重浜は函館郊外の遠浅の海岸で夏は海水浴客で賑わう。
ここに乗り上げれば転覆・沈没は免れるはずだ。
洞爺丸は座礁を決意する。機関が止まったこの船には他に手段はなかった。

22時23分、船底に軽い衝撃が走り、洞爺丸は座礁したかに見られた。
しばらく、そのまま右に傾きながら静止していたが、徐々に傾きを強めていった。

22時39分、洞爺丸はSOSを発信し、救援を求めるが、補助汽船も波が高く出航できない。
その約2分後、船内が停電した後、大きな波が洞爺丸を揺らし、船内に積んでいた
貨車の緊縛が解け、轟音と共に倒れだし、22時43分、左舷船腹を上にして転覆・沈没した。

この時、他に大雪丸、第6青函丸、第11青函丸、第12青函丸、石狩丸、北見丸、十勝丸、
日高丸が函館にいたが、どの船も荒れ狂う海で難航していた。
このうち、第11青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸が沈没し、他の船も少なからず
損傷を負った。
この事故で洞爺丸だけで1155名、他の船を合わせて1430名の死者・行方不明者を出した。

台風15号はこの後、北海道の天然木を次々に凪ぎ倒し、岩内町に大火を誘発させて
オホーツク海に去っていった。

洞爺丸の船体は引き上げの遅れや遭難者を救出するため各部を切開した関係で損傷が酷く、
慰霊碑に流用された船名板を残して解体処分されている。
この事故の後、青函連絡船の船の構造が徹底的に見直され、残った洞爺丸型では
安全対策工事が施された。
主な内容は側面の特徴であった、下部遊歩甲板の窓を角窓から水密式の丸窓への変更、
船尾車両搬入口への水密扉設置、ボイラー燃料を石炭から重油対応に変更、
外部塗装の変更(黒白のツートン→淡い緑色とクリームのツートン)などである。

この後は大きな事故もなく、昭和39年~40年にかけて津軽丸型に置き換えられて引退した。
引退後、大雪丸はディーゼル船に大改造の上でギリシャに売却。
その後、中東でカーフェリーとして使用されていたが、平成3年に爆撃に遭い、
沈没している。


○船尾側から見た洞爺丸。

○洞爺丸の船尾拡大。この部分から海水が浸入し、滞留することになった。
 上の小屋は接岸時に可動橋に接岸する時と貨車の積み込みの際に船の傾斜を
 コントロールするサブブリッジ。
 ここまでの写真はメモリアルシップ八甲田丸で撮影。

○初代摩周丸。対策工事のうち、窓の水密窓化実施後の姿である。
 函館市青函連絡船記念館摩周丸にて撮影。




○タビノワでも紹介した洞爺丸の慰霊碑。真ん中が北見丸の船底。
 一番下が第11青函丸の船名板。
 この事故において沈没した船の状況は以下の通り。
 ・洞爺丸:22時43分。七重浜にて座礁。その後転覆・沈没。
 ・第11青函丸:19時58分ごろ。船体破断により沈没。
 ・北見丸:22時20分頃。ヒーリング装置による姿勢制御に失敗して転覆・沈没。
 ・十勝丸:23時43分頃。転覆沈没。昭和31年復帰。昭和45年最後のタービン船として引退。
 ・日高丸:23時40分頃。SOS打電中に転覆沈没。昭和31年復帰。昭和44年引退。

当ブログは、この記事を事故で犠牲になられた皆様に奉げようと思います。
どうか、安らかにお休みください。

管理人:水の丘


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。