もじゃ公が5月10日(月)午前4時44分に息を引き取り、その後はリズムが崩れてなかなか書けなかった。しかし、全てを片付けてしまう前に、備忘録として。
沢山の猫用粉ミルクのスプーンが今、手元にある。二人(猫)五脚で生きていた証というか…。
猫は私のところで、2005年の暮れから2021年の5月まで16年間一緒に暮らしたが、その前にも飼主がいた。
キドナも使ったが、このスプーンはシニアミルクの方、しかも思い立って途中から集めたのだから、実際はこの倍の数が一年と八か月弱の強制給餌で消費された。その他、大量のk/d缶やステージの高い老猫用の総合栄養食、リンゲル、猫用おむつ。
猫は最後の瞬間まで、私と離れたくなかった、死にたくなかったと、落ち着いた今でも思う。最後の瞬間まで、かじりついていた。それくらい人が好きで、キャットカフェをやっていたら、看板娘になれただろう。
来客が来るといそいそと出迎えてまとわりついた、あのピンと立てた、ふさふさのクジャクの飾りのような尻尾と、ハイヒールを履いたような優雅な猫脚の後ろ足で喜んで駆け寄っていった姿を思い出す。独特の甘え声を持っていた。
皆は長毛の外観から「良い猫だ」とか、「素晴らしい」とは言うが、実際は路頭に迷えども、誰も貰い手なんぞいなかった。
人と目が合うと、急いで駆け寄ってくる、一時は「やくざか?」「目を合わすなw」と冗談を言うほど人が好きで、好きで、アピールに必死だった。
それが我が家でだんだん老いて、定位置が点々とだが決まり、元気な時は冷蔵庫の上など、老いては45センチくらいの段とか、自分のテリトリーで、多少は惰眠をむさぼったりするようにはなったが、
常に「あたちをみて、みて、撫でて、撫でて」の性格だったので、多頭飼育の我が家では、手が足らず、愛情を独占できずに、可哀そうな面もあった。
しかし、最後の一年八か月弱は、この猫のケアを中心に生活したと言ってもいい、「だからこれで許してくれ」と猫に詫びる飼主である。
この猫が来た経緯は、私ががんセンターに毎月通っていた辛い時期、(そして母も同時に腸閉そくで入院で忙しかった2005年の春)私ががんセンター退院のひと月位で寝込んでいた時期だったと思う。(オペ後経過はどんどん悪くなり、膠原病のいくつかを発症、リウマチもこのときからである。)
疲れて痛くて以前のように動けない日々だった、お腹には腹帯を撒いて過ごしていた。寝返りも大変だった。そんな日、雨の中、今はもうない庭のアカシアの大木の下で、甘えた巻き舌で鳴いている長毛の猫がいた。
驚いて「どこの猫だろう」と窓ガラス越しに見て、掃き出し窓から外に出ると、猫はひらりと身をかわして消えた初日。そして翌日再び来る、ひらりと消えるを三日繰り返し、猫は消えた。栄養状態は良く、出入り自由の飼い猫だと思っていた。長毛故、その時は雌雄も解らない。
その後、猫が再び庭に現れたのが暮れも押し迫った時期、結局、春よりも野良が板についてきたように見えて、見かねて保護したが、すぐに発情させてしまった。(つまり不妊オペも済んでいない♀である。猫にはオペ済みの耳カットなどの目印もなく、故みよたん♀のように、お腹を2回開けなくて済んだが、将来的に乳がんの心配が出来た。)
明けて2006年一月にN病院を嘔吐で受診。エコーまで取った、この時点ではオペどころではない。猫の二大ウィルスも-だった、
結局二月にお世話になっているF先生のところで不妊オペや予防注射をすることに。
一連のことが済んで、少し落ち着いたあとからだが、人の噂、餌やりの故人のМさん、自分が観たものから総合して、、、
この猫はご近所ではあるが私は知らないお宅の猫らしいと推定。一部の人が利用する、公道から入り組んだ私道の賃貸住宅の一軒のお宅の6畳間の空間に、長毛20匹詰め込んでいた猫の飼主がおり、2000年の頃に増殖した長毛一族だ!と、猫好きの噂から知る。
また2000年頃、自分はその近所が通勤路であり、指定日に、猫に関する大量のごみが出され、違反のものもあり、おいていかれた猫のごみ(大量のプラトイレなど)を見ては、「凄い量の猫がいるな」と思いながら通勤していた覚えがあった。
結局、六畳に20匹と増えすぎた長毛の猫達は、不妊去勢オペもワクチンもせず飼われているのだが、一度でも外に飛び出して土に触れると、「汚い」と締め出されてしまうのだと、故Мさんは言った。別の猫の件で訪れた彼女は、玄関にいそいそと出てきたもじゃ公を見るなり、猫に覚えがあるという。「あそこの猫だ」と。
もうそのお宅はないし、在っても、外に出たもじゃ公は家に入れないわけだしで、もじゃ公は中年期のステージの餌からスタートし、16年間はここで過ごした。だから猫としては、まぁまぁ長命な方だったと思う。16年+α、少なく見積もっても17歳、多ければ21歳なのだから。
もじゃ公という名前は、雌雄が長毛でわからなかった、再び登場時はぼろ雑巾のようになっていたからであり、♀でもじゃ子だろうけど、何故かそうなってしまったw
一番の思い出は、保護して隔離していた時に、その部屋から出たくて、一晩中騒いでいたこと、出せば人に飛び乗ったこと、人間を信じ切っていたこと、診察の時ですら大喜びであった。皆に発情期のようにお尻を上げ、喜びを表現したたこと、尻尾の付け根をいじられるのが大好き、そして猫より犬のような性格だった。
すべての猫は、大量の診療明細書を取ってクリアファイルにまとめてある。
最盛期は5・35キロ、平均4・5キロだったのが、いきなりがくんと3.5キロになった2015年、2017年には甲状腺検査でグレーゾーンの甲状腺機能亢進症だと診断された。
また、亡くなる一月前に待針の先端のようなイボが出たが、20015年の11月にもレーザーで同じところの同じものを切除していたり。
でも、他の子のような、乳がんや咽頭がん、FIPコロナのような、治療を必死でしまくっても、全くうまくいかない悲惨な病気はしなかったことが、猫にも私にもよかったと思う。
苦労したのはとにかく絡みやすい、フェルト状になる毛、洗濯物も球になったもじゃ公の毛で大変だったし、オムツの下も、毛が大変だった。
2012年5月に、一度だけライオンカットに先生に頼んでしてもらう。
2012年5月の記事より、写真抜粋。
最後の強制給餌の時期が長すぎたことだけは辛かった、猫は再び自力では食事をとれなかったし、だがそのロング・グッドバイですら、猫は延々続けたがったように思えた。
猫は呆けていたようで、強制給餌の時間だけはきっぱり覚えていた。その時間になると、くるくると動いてせかすのが不思議で、(さらにその時間以外も、せかしていたけどw)その強制給餌前にトイレに行くように決めれば、猫から率先してトイレに行けば、自動で餌が出ると思ってトイレの周りを旋回したり。
けれども、一年前に移動したトイレ跡の場所は、トイレが消えても、きちんとトイレと覚えていて、大昔から変えていないトイレの場所は、何度オムツ介助で使用しているし、そもそも来た時からの場所に変わらずにトイレがあるのに覚えていなかったり、
もはや、呆けているのか、譫妄なのか、晩年は不思議な行動をとり続けた。
また、犬と猫の先祖はミアキスで一緒らしいが、強制給餌やおむつになってから、犬のように空を向いて遠吠えをし続けた猫も初めてである。
とにかく鳴き続けた、友人には「小さな街宣車がいる」と言った程。時に夜鳴きは酷かった。クロが良く隣で寝ていたものだ。
老年期の甲状腺の亢進は結局猫を活発にさせ、常に元気、食欲旺盛にさせており、逆に甲状腺低下症の飼い主が疲れ果てたがw、今までの死にゆく猫のケースで、この猫ほど晩年猫が明るく過ごせたのは、病気が有利に働いたのだと思う。
あと、今の優れた総合栄養食や療法食も有利に。まず、どんな良いものでも強制給餌しても、食べられない、消化出来ないで死んだ猫ばかりだが、食欲旺盛だったゆえ、嘔吐も3回しかなく、最後まで消化し続けた、腸の蠕動運動が弱り、出す方では苦しんだが。
最後の別れの半日は、歴代の猫の苦しみを経験していたから、想像したよりは苦しまなくて良かった、終わった時は、亡くなって悲しいというより、苦しみが少なくて、そのことに、ただ、ただ、良かったな、との安堵があった…。
未だに、20日過ぎても、まだお世話しなくてはと思う、亡くなった気がしないのだ。しかし延々と、あの不眠不休に近い生活を続けられない、もはや体力の限界だと思った時、猫は逝った。
飼い主の自分も愛猫同様、折り返しの過ぎた人生であり、飼主の自分は自分でメンテナンスをしながら、出来るだけ自立の時を伸ばす、
あの平凡な日常を、楽しい、うれしいと生きた猫のように、不平不満のないように自分をなだめながら、このコロナ禍を過ごすしかあるまい。
ようやく、溜まったあれこれに、ぼちぼちと手をつけだした、日常に戻りつつあるが、猫とはいえ16年近く付き合えば、
やはり何かの記憶の一部、もしくは自分史の一部を永遠に失ったような、そんな気持ちで過ごしている。今は一つの長い仕事をやり終えた安堵と空虚な気持ちが大だが、あの、小さな街宣車の猫が懐かしく思える日々も近いだろう。
長々とお読みくださり、ありがとうございました。