北九州の岡添さんから「檜のやまのうたびと」(1974・筑摩書房)を紹介されるまで全く知らなかった。
伊藤保(1913~1963・大分生まれ)の歌集は、「ハンセン病文学全集」にも収録されている菊池楓風園の人であった。ハンセン病発症で療養所に入るが生涯結核に苦しんだ人である。
1937年生まれの松下竜一さんが亡くなって8年になる今年だ。彼は、「定本・伊藤保歌集」を歌友花野秀子さんから発行(1964年11月16日発行)間もなく貰ったが、30歳前の自分にいきなり衝撃を打ち付けてきたと書いている。伊藤保の生きた軌跡を求めて1972年、35歳の時に歌集と大学ノートを持って菊池楓風園に初めて出向いて行ったのである。彼の生きた世界を知り、彼の生き方を知ろうとしての作家的探究であると。
その本の中にかかれていることが正にその通りと最近思ったことがらに出くわした。
6月10日(日)大阪府保険医協会の記念企画でペシャワール会・中村哲医師の講演会が中之島中央公民館であった。初めて私も聞きに行った。福岡の知人にはべシャワール会に入って活動している人も身近にいます。
会場は1階は満席、2階も多くの人で下の参加者が小さく見える感じだった。中村哲さんの話の中で「らい」を「ハンセン病」とジャーナリズムなどが言いかえているが、病名の呼び方がかわっても実態が変わらなければいけないだろうと言う趣旨の話を出された。
ちょうど、私は松下竜一の「檜のやまのうたび」中のその話に該当するページを読んでいた。「昭和30年、歌誌『高嶺』で主催者二宮冬鳥が新呼称(※当時はハンセン氏病)にやや批判的に触れている・・・。「らい」を学名として冷静に受けとめる(二宮)医師にはこの論が成り立つであろうが、しかし、世間の大衆にとって「らい」が学名ではなく、盲目的なほど偏見と恐怖のしみついた暗い符牒なのである。「らい」は病気以上のものなのである。プロミン以後、ライを他の万病とひとしなみ(ママ)に、ただの病気のひとつとして世間に認識変更を迫ろうとする機運の中で「らい」と言う呼称を払拭していくことは当然であり、むしろ必要であったはずだ。・・ともあれ「ハンセン氏病」の呼称は、患者の側から始まり、一般ジャーナリズムにまで拡がっていったのである・・・・」と・・・。(註:本のなかでは「らい」は漢字表記)
特効薬プロミンにより完治退院も可能になったという科学的知識を踏まえて、ライ予防法改正運動も起こったのであるし、それは不治の時代の偏見のつきまとった〈癩〉の呼称を捨て去り菌の発見者にちなむ〈ハンセン氏病〉と呼ぼうとする運動を当然派生さたのである」とも書いている。当事者の立場から昨年「ドクターサーブ」問題が提起されてきた。それは何故なのか?当事者の側の人々が心の底から人権回復を訴えてきたから今ではハンセン病と一般に呼ぶようになったのである。当事者の立場にたって歴史を考えていけば大きい間違いはおかさないで済むのではないだろうか?
伊藤保(1913~1963・大分生まれ)の歌集は、「ハンセン病文学全集」にも収録されている菊池楓風園の人であった。ハンセン病発症で療養所に入るが生涯結核に苦しんだ人である。
1937年生まれの松下竜一さんが亡くなって8年になる今年だ。彼は、「定本・伊藤保歌集」を歌友花野秀子さんから発行(1964年11月16日発行)間もなく貰ったが、30歳前の自分にいきなり衝撃を打ち付けてきたと書いている。伊藤保の生きた軌跡を求めて1972年、35歳の時に歌集と大学ノートを持って菊池楓風園に初めて出向いて行ったのである。彼の生きた世界を知り、彼の生き方を知ろうとしての作家的探究であると。
その本の中にかかれていることが正にその通りと最近思ったことがらに出くわした。
6月10日(日)大阪府保険医協会の記念企画でペシャワール会・中村哲医師の講演会が中之島中央公民館であった。初めて私も聞きに行った。福岡の知人にはべシャワール会に入って活動している人も身近にいます。
会場は1階は満席、2階も多くの人で下の参加者が小さく見える感じだった。中村哲さんの話の中で「らい」を「ハンセン病」とジャーナリズムなどが言いかえているが、病名の呼び方がかわっても実態が変わらなければいけないだろうと言う趣旨の話を出された。
ちょうど、私は松下竜一の「檜のやまのうたび」中のその話に該当するページを読んでいた。「昭和30年、歌誌『高嶺』で主催者二宮冬鳥が新呼称(※当時はハンセン氏病)にやや批判的に触れている・・・。「らい」を学名として冷静に受けとめる(二宮)医師にはこの論が成り立つであろうが、しかし、世間の大衆にとって「らい」が学名ではなく、盲目的なほど偏見と恐怖のしみついた暗い符牒なのである。「らい」は病気以上のものなのである。プロミン以後、ライを他の万病とひとしなみ(ママ)に、ただの病気のひとつとして世間に認識変更を迫ろうとする機運の中で「らい」と言う呼称を払拭していくことは当然であり、むしろ必要であったはずだ。・・ともあれ「ハンセン氏病」の呼称は、患者の側から始まり、一般ジャーナリズムにまで拡がっていったのである・・・・」と・・・。(註:本のなかでは「らい」は漢字表記)
特効薬プロミンにより完治退院も可能になったという科学的知識を踏まえて、ライ予防法改正運動も起こったのであるし、それは不治の時代の偏見のつきまとった〈癩〉の呼称を捨て去り菌の発見者にちなむ〈ハンセン氏病〉と呼ぼうとする運動を当然派生さたのである」とも書いている。当事者の立場から昨年「ドクターサーブ」問題が提起されてきた。それは何故なのか?当事者の側の人々が心の底から人権回復を訴えてきたから今ではハンセン病と一般に呼ぶようになったのである。当事者の立場にたって歴史を考えていけば大きい間違いはおかさないで済むのではないだろうか?