雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ご無理をなさらないで

2023-08-14 18:46:53 | 日々これ好日

     『 ご無理をなさらないで 』

   台風7号は 紀伊半島に上陸の見込みで
   近畿全域が 大きな影響を受けそうだ
   我が家辺りも 暴風雨圏に入る可能性が高そうだ
   ただ 近畿以外の地域も 特に雨や高潮の影響が
   懸念されている
   近畿圏の交通網は 今夜から明日にかけて 寸断される
   これからの避難は 十分な注意が必要
   くれぐれも ご無理をなさらないないで!!

                  ☆☆☆

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我か人かと

2023-08-14 08:37:14 | 古今和歌集の歌人たち

    『 我か人かと 』


 天彦の おとづれじとぞ 今は思ふ
        我か人かと 身をたどる世に

          作者  小野春風

( 巻第十八 雑歌下  NO.963 )
    あまひこの おとづれじとぞ いまはおもふ
             われかひとかと みをたどるよに


* 歌意は、「 天彦のように あなたのもとを訪れたいとの思いでいっぱいですが 今は控えたいと思います わが身のことか人のことか 動転している時ですので 」といった、切ない歌です。
なお、天彦は「やまびこ」のことですが、音にかかる枕詞でもあります。
この歌の前書き(詞書)には、「 左近将監解けて侍りける時に、女のとぶらひにおこせたりける返事(カエリゴト)によみてつかはしける 」とあります。つまり、左近将監職を解任されている時に、妻(同居していない)から見舞いの手紙が来たので、返事としてこの歌を詠んで送った、ということです。

* 作者、小野春風(オノノハルカゼ)は、平安時代初期に活躍した下級貴族で、武人として名をあげています。
生没年は共に未詳ですが、残されている最初の記録は、854
年に右近衛少尉に付いていますので、この頃二十歳前後と推定すれば、830 年代の誕生ではないでしょうか。
父は小野石雄、この人の生没年も未詳ですが、813 年に起きた蝦夷の乱に、文室綿麻呂を征夷大将軍とした征討軍に従軍し、その時、石雄は羊革の鎧と牛革の鎧を用いて、大活躍したと伝えられています。
ただ、石雄の両親については伝えられていないようです。

* 小野氏は、古代から有力氏族の一つです。
その先祖は、第五代孝昭天皇まで遡ります。孝昭天皇は、在位期間が八十三年間、行年が百十四歳とされていて、神話の世界に限りなく近い人物です。
その子孫には、小野妹子や小野篁らが嫡流のようですが、石雄、あるいは作者である春風の名前は見当たりません。石雄は従五位上、春男は正五位下に昇っており、宮廷から認められた貴族ですので、家柄が明瞭でないはずはありません。
おそらく、小野篁などとはまったく別の系統として発生した家系か、同じ系統であっても、相当早い段階で枝分かれした家系なのかも知れません。

* 春風も、父と同様勝れた武将としての評価を受けていたようです。ただ、この時代は、武者の評価は低く見られていたため、公卿を目指すような立場ではなかったようです。
854 年に右近衛少尉に、858 年に右近衛将監と文徳朝から清和朝
に掛けては武官として活動し、864 年に武蔵介として地方官を拝命しています。東国への赴任は、父の影響があったのかも知れません。
870 年正月に従五位下を叙爵、貴族の仲間入りをすると共に、対馬の守に任じられ、新羅の侵攻に対処しています。この任命は、春風の武勇を認めた人事だったのではないでしょうか。
この時、春風は、武蔵国に保管されていた父伝来の鎧を取り寄せて任務に当たりました。無事帰京した後に、羊革の鎧は春風に、牛革の鎧は兄の陸奧権守小野春枝に与えられました。

* この後、春風は左近衛将監に就きましたが、讒言があって解任されています。内容はよく分りませんが、冒頭の和歌は、この時のものです。
そして、おそらく、これからの数年間は雌伏の期間だったのでしょう。
878 年 3 月に、元慶の乱(蝦夷の乱)が勃発すると、春風は出羽権守に任じられ、その征討にあたり、6 月には鎮守府将軍に任ぜられています。朝廷の春風への期待の大きさが感じられます。
898 年に正五位下に昇っていますが、その後の情報は途絶えています。この後、幾らも経たないうちに没したものと推定されます。
文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐の六つの朝廷に主として武官として仕えており、その行年は、六十歳代、あるいは七十歳に近かったのではないでしょうか。

* 歴史上、偉大な将軍は数多く登場します。平安時代中期頃までの時代は、武者の身分はあまり高くなく、同時に、公卿のような立場であっても武者さながらの人物もいたようです。
そうした中で、小野春風という人物の武将としての知名度は、それほど高くはありません。実際に、かくかくたる戦果も伝えられていません。しかし、平安初期という時代に、対馬の治安にあたり、奥羽の征討に当たったという人物は、そう多くはないはずです。
冒頭の和歌も、個人的には秀作だと思うのですが、武将としての小野春風にもっと光が当たって欲しいと願っています。

     ☆   ☆   ☆


  

コメント (2)
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