『 「広辞苑」をマスターすれば「しゃれた言葉」を自由自在に操れるか 』
文章を書くことの好きな私も、「しゃれた言葉」を求めています。ただ、これがなかなか簡単ではないのです。
考えてみますと、「しゃれた言葉」などと言っても、実は、どうってこともない言葉だともいえます。私は文章を書く時、何かにつけ「広辞苑」のお世話になっているのですが、「しゃれた言葉」だと思われるものは、特別な造語や擬音語を除けば、ほぼすべてここに収録されている言葉なのです。
逆に言えば、「広辞苑」をマスターすれば「しゃれた言葉」を自由自在に操れるかといいますと、残念ながらことはそれほど簡単ではないようです。
( 「小さな小さな物語」第六部 NO.306 より )
『 今日も一つの折り返し点 』
今日は冬至 明日からは 少しずつ昼間が長くなる
まあ 年内は それほど実感はないだろうが
一つの折り返し点ではある
ナンキンとレンコンを いただいたが
庭に鈴なりになっているキンカンは パスしてしまった
あとは ゆず湯に入って 折り返しを実感しよう
☆☆☆
『 招致活動を継続だって??? 』
2030年冬期オリンピック・パラリンピックの招致について
札幌市と日本オリンピック委員会(JOC)が 記者会見を開き
招致活動を継続する意向 だとか
全く あきれてしまった
この前の 東京オリンピックでの
招致活動から運営までの あまりひどすぎる状態を
まさか すでに昔の事にしているわけではあるまい
招致することが よほど おいしいのですかなぁ
経済効果云々など 聞きたくもない
少なくとも JOCと前回の招致委員会メンバーなどは
少しは恥ずかしいと感じて欲しい
招致活動を継続だなんて 悪い冗談かと思ってしまった
☆☆☆
『 重い腰を上げたのかな? 』
日銀は 本日の会合で
大規模な金融緩和政策の 修正を決めた
各国の金融政策を見れば わが国だけが
ジャブジャブ政策を 続けられるはずがあるまい
「これは 金利引き上げではない」との発言もあるが
市場は どうやら重い腰を上げたらしい と読んで
対ドル相場も 株式市場も 大荒れとなった
さて 今後の動向やいかに??
☆☆☆
『 師走らしくなってきた 』
厳しい寒波到来で 各地から大雪に関するニュース
サッカーW杯カタール大会が終り
M1も優勝者が決まり 大河ドラマも終り
甲子園ボールも終った
次は 駅伝が目白押しで 楽しみだが
その前に 年賀状を仕上げねばならない
ただ その準備の第一段階は 喪中はがきの整理
その中に 今年も 友人の配偶者の方からのものがある
年の瀬の 辛く寂しい作業だ・・・
☆☆☆
『 鎌倉殿も最終回 』
NHKの大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」も最終回
前回では 小池栄子尼将軍の大熱演が すばらしかった
間もなく始まる最終回 楽しませていただこう
それにしても 年の瀬を感じさられる・・・
☆☆☆
『 今年もあと二週間 』
当地は 朝の十時頃から 冷たい雨の一日となった
大雪に見舞われている方々には 申し訳ないが
冷たい雨でも 何だか気が滅入る
今年の漢字が「戦」になったのが
この一年の すべてを表しているのかもしれない
この数日 テレビで 各地の神社などで
大しめ縄を 新しくかける様子が伝えられていた
来年への 人々の願いが 込められているのだろう
今年もあと二週間
年賀状という大仕事もあるが 新しい年に向けて
懸案事項を 少しでも減らしておこう
☆☆☆
『 見る時なくて 』
奥山の 岩垣紅葉 散りぬべし
照る日の光 見る時なくて
作者 藤原関雄
( 巻第五 秋歌下 NO.282 )
おくやまの いはがきもみぢ ちりぬべし
てるひのひかり みるときなくて
* 歌意は、「 奥山の 岩に囲まれた紅葉した木々の葉は このまま散ってしまうだろう 照り輝く太陽の光を 見る時もないままに 」といった、ひっそりと紅葉し散っていく木々を慈しむように詠んだ歌でしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「宮仕へ久しうつかうまつらで山里にこもり侍りけるによめる 」とありますので、寂しげな木々に自分の姿を写していた面もあるのでしょう。
また、資料によっては、作者名の下に、「治少輔五位」とあるようなので、作者が晩年の頃の作品と考えられます。
* 作者の藤原関雄(フジワラノセキオ)は、平安時代初期の、藤原一族の中核的家柄の人物です。
藤原氏の始祖は鎌足ですが、その次男とされる不比等によって巨大な権力を握る態勢を作り上げていき、その息子たちは藤原四家と呼ばれる流派に分かれ競い合います。その中で、一番で遅れたのが北家ですが、この頃には最も有力流派となり、平安時代の最強勢力になっていきます。
北家の祖は、不比等の次男である房前で、二代目がその三男の真楯、三代目がその長男の内麻呂です。
関雄の父 真夏は、この内麻呂の長男として誕生しました。順調に昇進し、三十七歳で正四位下参議となり、父の後を継ぐには十分な地位を得ました。しかし、この後、薬子の変と呼ばれる政争に連座し挫折、その後復帰するも、嫡男の地位を次男の冬嗣に奪われることになります。これ以降、北家そして藤原氏全体の指導者としての地位は、冬嗣の子孫が引き継いでいくことになるのです。
ただ、真夏の子孫も繁栄しており、やがて12の堂上家(公卿を出すことが出来る上級貴族)を輩出しています。
* 関雄は、この真夏の五男として誕生しました。805 年のことです。母は未詳です。
825 年に文章生試に及第して、若くして文章面で有能さを示しましたが、どうも出仕することが肌に合わなかったのか、常に東山の旧居(後に禅林寺になる。)に籠もるような生活を選び、人々に東山進士と呼ばれたようです。
* 834 年、淳和上皇は、関雄を高く評価していたようで、再三召し出そうとしましたが、応じないで日を過ごしましたが、辞退しきれずに詔に応じて上皇の近臣として仕えるようになりました。
翌年に勘解由判官(カゲユ ホウガン・もともとは地方行政を監督する職務であったが、この頃は中央行政も監督した。判官は三等官。)に任ぜられましたが、煩雑で激務なのを理由に数か月後に少判事(刑部省で裁判などを担当。)に転任しました。若干の左遷かも知れません。
しかし、839 年に従五位下に叙爵して、貴族の仲間入りを果たしていますので、仕事ぶりはそれなりに評価されていたのでしょう。
仁明朝では、刑部少輔、下野守を務めています。
文徳朝では、諸陵頭(陵墓を管轄する部署の長)、治部少輔(もともとは戸籍などを担当する部署であったが、この頃は僧尼や仏事などの担当になっていたらしい。少輔は大輔の下位職で従五位下相当官。)、斎院長官などを歴任しました。
やがて、病気を理由に辞職を申し出ましたが認められないまま、853 年 2 月に亡くなりました。行年四十九歳でした。
* 当時、四十九歳での死去は、特別早世ということではないのでしょうが、関雄は若い頃から頑強な体質ではなかったように感じられます。
職務拒否体質とか、人付き合いが重荷であったというほどではないとしても、宮廷への出仕は、関雄が求める人生ではなかったように思えてならないのです。
そう考えますと、掲題の歌が、何とも哀れに感じてならないのです。
☆ ☆ ☆
『 クリスマス休戦 実現せず 』
ロシアによるウクライナ侵攻は 泥沼化してしまった
クリスマス休戦も ロシアが拒絶したようだ
全面休戦への 第一歩になるとは思えないが
一つの 小さな小さな チャンスだとは思われる
それさえ 交渉の入り口にさえ 立てないようだ
ウクライナの被害状況は 伝えられているものだけでも
悲惨の極みだ
しかし ロシアの若者も 多くの死傷者を出している
その殆どは 望まない戦場だったのではないか
武力を超える知恵を 私たちは持てないのだろうか
☆☆☆
『 FRB 0.5%金利引き上げ 』
米連邦準備制度理事会(FRB)は 14日
政策金利を 0.5%引き上げることを決定した
若干スピード調整したが 来年もまだ引き上げが続く
インフレ抑制に 懸命の姿が窺えるが
景気動向と 難しい舵取りのようだ
ところで わが国にも 金利って存在していましたっけ??
☆☆☆