雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

目指せ ベスト8 

2022-12-05 18:19:42 | 日々これ好日

      『 目指せ ベスト8 』

    サッカーW杯 ベスト8に向かって
    あと数時間後に クロアチアとの戦いが始まる
    試合開始が 日本時間では 日付が変わる午前0時
    にわかファンの 本気度が試される時間だが
    夢の中も含めて
    わが日本チームの健闘を 懸命に応援しましょう

                   ☆☆☆

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峰高き春日の山

2022-12-05 08:03:30 | 古今和歌集の歌人たち

     『 峰高き春日の山 』


 峰高き 春日の山に いづる日は

        くもる時なく 照らすべらなり

          作者  典侍藤原因香朝臣

( 巻第七 賀歌  NO.364 )
       みねたかき かすがのやまに いづるひは
               くもるときなく てらすべらなり


* 歌意は、「 高い峰を持つ 春日の山に さし昇る太陽は 曇る時なく あまねく地上を照らすに違いない 」と、分かりやすい歌で、太陽礼賛の歌ということになります。しかし、実際は、この歌の前書き(詞書)には、「 春宮の生れたまへりける時にまゐりてよめる 」とありますから、太陽に託して、春宮の将来を祝しての歌ということになります。

* この前書きにある春宮(ハルノミヤ)というのは、醍醐天皇の第二皇子保明親王のことです。生母は藤原穏子(オンシ・885 - 954 )、関白基経の娘です。天皇にはすでに第一皇子がいたことになりますが、誕生はほんの少し前だったようで、生母は更衣の身分ですから、誕生の時点で立太子の可能性はほとんどなかったようです。天皇は、穏子の後者見に遠慮したのか、第一皇子と対面するのは、六年ほども後のことでした。
保明親王には、祖父の基経はすでに他界していましたが、絶対的な権力を握っていた伯父の時平がおり、わずか二歳(満年齢でいえば、二ヶ月少々)で立体子し春宮となりました。しかし、923 年春、父天皇に先だって亡くなり、即位することはありませんでした。行年二十一歳、その死についても菅原道真の怨霊云々が噂されたようです。

* 主人公の紹介が後になりましたが、作者 典侍藤原因香朝臣(ナイシノスケ フジワラノヨルカ アソン )は、この時、醍醐天皇の勅使として、穏子が出産した実家である基経邸に行った時に、この歌を詠んだようです。作者名が大げさに記されているのは、天皇勅使であったことを考慮したものと考えられます。
なお、典侍というのは天皇の身の回りの世話を担う内侍司(後宮)の次官ですが、長官にあたるのは尚侍ですが、この地位は后妃化していて、典侍が実質的な長官であったようです。

* 作者 藤原因香の生没年は未詳です。官職歴など多くの情報が残されていますが、出自面は探るのはなかなか難解です。
まず、手元の資料から記録を追ってみます。
871 年、従五位下。
897 年、従四位下 掌侍。この後、典侍に昇っています。 
903 年 11 月、掲題の歌にを詠んだ時期。保明親王の誕生は 11 月 20 日ですから、その直後と考えられます。

* この、わずか三つの記録から推定しますと、最初にある従五位下を叙爵した時は、清和天皇の御代です。この従五位下という官位は、貴族の仲間入りとされる重要な地位です。男性と女性の官位を同一に評価は出来ないようですが、因香がよほどの高官の娘か天皇に近い姫でもない限り、この時が初位とは考えにくいのです。つまり、これより大分前から出仕していたのではないかと思うのです。この推定が正しいとすれば、この時の因香は少なくとも二十歳ほどにはなっていて、十歳前後とはとても考えられないのです。
その次の従四位下に昇り掌侍に就いた年は、醍醐天皇が即位した年になります。掌侍という役職は、本来は、尚侍(長官)→ 典侍(次官)→ 掌侍(判官・三等官)という順位ですが、実際は、尚侍は后妃が就くことが多く、典侍と掌侍が女官全体の監督に当たったようです。因香に対する醍醐天皇の信頼の厚さが伝わってきます。

* 因香の両親については、資料によっては、いずれも疑問符を付けながらも、かなり明確に示されています。
それらによりますと、父は藤原高藤、母は尼敬信となっています。ただ、限られた資料から推定しますと、今一つ納得がいきません。
父とされる藤原高藤は、藤原北家で冬嗣の孫にあたる人物ですが、父の良門が官位が低いまま早世したため出世が遅れながらも、]娘の胤子か嫁いでいた源定省が後に復帰して宇多天皇として即位、さらに胤子が儲けた子が醍醐天皇として即位したことから、急速に出世し正三位内大臣まで昇った人物です。醍醐天皇の外祖父にあたり、醍醐天皇と関係の深い人物ではあります。ただ、高藤の生年は 838 年ですから、因香との年齢差が小さすぎるように思われますし、因香が従五位下を叙爵した時、高藤も従五位下ですから不自然な気がします。
母とされる尼敬信となりますと、古今和歌集NO.885 に採録されている和歌以外に情報を見つけることが出来ませんでした。その和歌の前書きには、「斎院の彗子皇女が、『母のあやまち』で代えられそうになっていたのが、取りやめになったこと」を詠んだ歌だとあります。この彗子皇女とは、文徳天皇の第八皇女で、斎院であった期間は、850 年から 857 年までの期間です。従って、歌が詠まれたのはこの間と考えられますが、すでに尼となっているとすれば、すでに二十歳は過ぎていると考えられ、年令からは、因香の生母の可能性はあるかも知れません。ただ、斎院に微妙な問題に関する歌を送ることが出来るのは、皇族に繋がる女性であったのではないでしょうか。
そうだとすれば、高藤と婚姻関係にあったということは考えづらく、また、それらしい記録はないようです。

* 少々くどくなりましたが、因香という女性は、よほど有力貴族の娘か、むしろ皇族に繋がるような女性だったのではないでしょうか。藤原氏を名乗っているからには、藤原氏の娘、あるいは養女と考えるのが自然なのでしょうが。
そして、清和・陽成・光孝・宇多・醍醐の五代の天皇に仕え、特に醍醐天皇の信頼は厚かったと思われます。その期間は、最低でも三十二年、おそらくは四十年近くに渡って、各王朝の後宮において重きを成した女性であったことは、間違いないことでしょう。

     ☆   ☆   ☆



 


 

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