雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  空白の時代 ( 10 )

2016-06-03 09:10:01 | 歴史散策
          『 空白の時代 ( 10 ) 』

紀伊に上陸

神功皇后は、忍熊王が軍勢を集めて待ち受けていると聞くと、武内宿禰に命じて、皇子を懐いて、回り道をして南海に進み、紀伊水門(キノミナト・紀の川河口)に停泊された。そして、皇后の船は真直ぐに難波に向かった。
この時、皇后の船は海の中で旋回し進むことが出来なくなった。そのため、務古水門(ムコノミナト・摂津国武庫川河口)に帰り、占いをされた。

ここに、天照大神がお教えになって申された。「我が荒魂(アラミタマ)を皇后に近付けるべきでない。広田国(ヒロタノクニ・摂津国武庫郡広田神社)に鎮座させるがよい」と。そこで、山背根子(ヤマシロネコ)の娘葉山媛に祭らせた。
また、稚日女尊(ワカヒメノミコト・天照大神の妹か娘?)がお教えになって申された。「吾は、活田長狭国(イクタノナガサノクニ・摂津国の生田神社)に鎮座したいと思う」と。よって、海上五十狭茅(ウナカミノイサチ)を以って祭らせた。
また、事代主尊(コトシロヌシノミコト・託宣の神)がお教えになって申された。「吾を長田国(ナガタノクニ・摂津国の長田神社)に祭れ」と。そこで、葉山媛の妹長媛に祭らせた。
また、表筒男(ウワツツノオ)・中筒男・底筒男の三神がお教えになって申された。「吾が和魂(ニギミタマ)を大津(大きな港を指す。摂津国の住吉神社?)の渟中倉(ヌナクラ)の長狭に鎮座させよ。そこで行き来する船を監視しよう」と。
神々の教えに従って、それぞれに鎮座申し上げると、平穏に海を渡ることが出来た。

忍熊王は、再び軍勢を率いて退き、菟道(ウジ・現在の宇治市)に着いて陣を張った。
皇后は、南方の紀伊国まで行き、皇子(後の応神天皇)に日高で会われ、群臣と協議された。そして、遂に忍熊王を攻撃しようと決意され、さらに小竹宮(シノノミヤ・紀伊国内)に遷られた。

     ☆   ☆   ☆

合葬の祟り

この時、昼が夜のように暗くなり、それも何日も続いた。人々は、「常夜(トコヨ)に行ったようだ」と言い合った。
皇后は、紀直(キノアタイ)の祖先である豊耳(トヨミミ)に訊ねた。「この不吉な前兆は、何によるものか」と。
すると、一人の老翁が申し上げた。「伝え聞くところでは、このような奇怪な前兆は、阿豆那比(アヅナヒ)の罪だというそうです」と。
「それはどういう意味か」と、皇后はさらに訊ねられた。それに答えて、「二つの社の祝者(ハフリ・神主、禰宜に次ぐ神職)を、一ヶ所に合葬されたからではないでしょうか」と申し上げた。

そこで、村里に訊ねさせたところ、一人の人が答えて、
「小竹の祝(シノのハフリ)と天野の祝は、共に仲の良い友であったが、小竹の祝が病にかかって死んでしまった。天野の祝は血を流すほどに激しく泣いて、『吾らは、生きている間麗しき友人同士であった。どうして、死んでからも墓穴を同じくしないことがあろうか』と言って、そのまま友の屍の側に伏して自ら命を絶ちました。それで、二人を合葬しました。きっと、この事でしょう」と申し上げた。
そこで、その墓を開いて見るとその通りであった。
それゆえ、棺を改めて、それぞれ別の所に埋葬した。
そうすると、日の光が照り輝いて、昼と夜とのけじめがついた。

     ☆   ☆   ☆







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歴史散策  空白の時代 ( 11 )

2016-06-03 08:42:12 | 歴史散策
          『 空白の時代 ( 11 ) 』

忍熊王との戦い

神功摂政元年三月五日、神功皇后は、武内宿禰と和珥臣(ワニノオミ)の祖先である武振熊(タケフルクマ)とに命を下し、数万の兵を率いて忍熊王討伐の命令を下した。
武内宿禰らは、精兵を選んで、山背を通って菟道(ウジ)に至り、河の北側に駐屯した。
忍熊王は陣営を出て戦おうとした。
その時、熊之凝(クマノコリ)という者がいて、忍熊王の軍勢の先鋒となった。彼は味方の軍勢を鼓舞するために、声高らかに歌を詠んだ。
 『 彼方(オチカタ)の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓(ツクユミ)に まり矢を副(タグ)へ 
   貴人(ウマヒト)は 貴人どちや 親友(イトコ)はも 親友どち いざ闘(ア)はな 我は たまきはる
   内の朝臣が 腹内(ハラウチ)は 砂(イサゴ)あれや いざ闘はな 我は 』
( 遠くの まばらな松原 その松原に 川を渡って攻めて行き 槻弓(槻の木で作った弓)に 鏑矢(カブラヤ)を添え
  貴い人は 貴い人同士 親しい友は 親しい友同士 いざ闘おう 我々は 命の限り 
  朝廷の男よ(武内宿禰を指している) その腹の中には 砂が詰まっているわけではあるまい いざ闘おう 我々は )
と、呼びかけた。

その時、武内宿禰は全軍に命令して、全員の髪を椎結(ツイケイ・槌のような形の髪型に結うこと。勇猛を表すものらしい)させ、そうして号令を下した。
「各々予備の弓弦を髪の中に隠し、そして木刀を腰に帯びよ」と。
そして、皇后の命令を告げて、忍熊王を欺くべく、「吾は、天下を貪るようなことはしない。ただ幼い王(キミ)を抱いて、君王(キミ)に従おうと思っている。どうして君王を拒み戦うことがあろうか。願わくば、弓弦を断ち切り、武器を捨てて、和睦すべきである。そうすれば、君王は天下を治める地位に就いて、立場を安泰にして、枕を高くしてすべての政(マツリゴト)を執り行うことでしょう」と告げた。
そして、はっきりと全軍に命令して、ことごとく弓弦を断ち切り、刀を外して河の流れに投げ入れさせた。

忍熊王は、その偽りの言葉を真に受けて、自軍のすべての兵士に命じて、武器を河に投げ入れ、弓弦を断ち切らせた。
すると、武内宿禰は、全軍に命令して、隠し持っていた弓弦を張らせて、真剣(先に河に捨てたのは木刀)を腰に帯びさせて、河を渡って攻め込んだ。
忍熊王は欺かれたことを知り、倉見別(クラミワケ)・五十狭茅宿禰(イサチノスクネ)に、「吾は、すっかり騙されてしまった。今や予備の武器もない。どうして戦うことが出来ようか」と言って、兵士を率いてしだいに退却した。
武内宿禰は精鋭の兵士を繰り出して追わせた。そして、逢坂で追いつき打ち破った。それでその地を名付けて逢坂という。

忍熊王の残党はさらに逃げた。狭狭浪(ササナミ・大津市辺り)の栗林(クルス)で追いつき、多数を斬った。血が流れて、栗林に溢れた。そのため、この事を恨んで、今に至るまで、その栗林の栗の実を御所に献上しないのである。
忍熊王は逃げ場を無くした。そこで、五十狭茅宿禰を呼び寄せて、歌を詠んだ。
 『 いざ吾君(アギ) 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌(クブツチ)の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜(カヅキ)せな 』
 ( さあわが友 五十狭茅宿禰よ わが命は(「たまきはる」は命などにかかる枕詞か?) かの男(武内宿禰)の 
   攻撃で 痛手を負うよりも 鳰鳥(ニオドリ・かいつぶり)のように 水に潜ろう )
と。
そして、共に瀬田の渡りに身を投じて死んだ。

その時、武内宿禰は歌を詠んで、
 『 淡海の海(オウミのミ)の 瀬田の済(ワタリ)に 潜(カヅ)く鳥 目にし見えねば 憤(イキドオロ)しも 』
 ( 淡海の海(琵琶湖)の 瀬田の渡りで 水に潜った鳥が 見えなくなってしまった 腹立たしいことよ )
と言った。
その屍を捜したが見つけることが出来なかった。
それから後に、数日して菟道河(ウジガワ)で見つかった。武内宿禰は、また歌に詠んで、
 『 淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上(タナカミ・地名)過ぎて 宇治に捕えつ 』
と言った。

冬十月の二日に、群臣は皇后を尊んで皇太后(オオキサキ)と申し上げた。
この年は、太歳(タイサイ・中国暦の言葉)は辛巳(シンシ)であった。そして、この年を神功皇后による摂政元年とした。

神功摂政二年の冬十一月の八日に、天皇(仲哀天皇)を河内国の長野陵(ナガノノミササギ)に葬り祭った。

     ☆   ☆   ☆




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歴史散策  空白の時代 ( 12 )

2016-06-03 08:41:12 | 歴史散策
          『 空白の時代 ( 12 ) 』

誉田別皇子、皇太子に

神功摂政三年春正月の三日、誉田別皇子(ホムタワケノミコ・後の応神天皇)を皇太子(ヒツギノミコ)に立てた。
そして、磐余(イワレ・奈良県内)に都を造られた。若桜宮(ワカサクラノミヤ)である。

同五年の春三月の七日、新羅王は、ウレシホツ・モマリシチ・ホラモチらを派遣して朝貢した。そこには、先に人質とされている、ミシコチホツカンを取り戻そうという新羅王の狙いがあった。
そのため、ミシコチホツカンに相談していて、「使者のウレシホツらが私に告げて、『我が王が、私が永らく帰らないため、私の妻子ことごとくを没収して官奴としてしまった』と言うのです。願わくば、しばらく祖国に帰り、真実かどうか見とどけてきたいのです」と偽りを言わせた。
皇太后(神功皇后)は、それを聞いて許された。

そこで、葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を添えて、祖国へ向かわせた。
一行は一緒に対馬に到着し、鉏海の水門(サヒノウミのミナト)に宿泊した。その時、新羅の使者モマリシチらは、ひそかに船と水手(カコ)とを分けて、ミシコチホツカンを船に乗せて新羅に逃れさせた。そして、茅で人形を作り、ミシコチホツカンの寝床において、偽って病気のように見せかけて、葛城襲津彦に告げた。「ミシコチホツカンは、突然の病で、死にそうです」と。
襲津彦は、従者に病気の様子を見に行かせた。そして、欺かれたことを知り、新羅の使者三人を捕えて、檻の中に入れ、火をつけて焼き殺してしまった。それから、新羅に至って、タタラの津に宿営し、草羅城(サワラノサシ)を撃ち破って帰還した。
この時の捕虜たちは、今の桑原・佐糜(サビ)・高宮・忍海(オシヌミ)ら四つの邑(ムラ)の漢人(アヤヒト)らの始祖である。

     ☆   ☆   ☆

祝い歌

十三年春二月の八日、皇太后は武内宿禰に命じて、皇太子に付き従って角鹿(ツヌガ・越前国敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオカミ・敦賀の氣比神宮の祭神)に参拝させられた。
十七日に皇太子は角鹿より帰られた。この日に、皇太后は皇太子のために大殿で饗宴を催された。皇太后は、盃を挙げて皇太子の長寿を祝賀されて、歌を詠まれた。
 『 此の御酒(ミキ)は 吾が御酒ならず 神酒の司(クシのカミ) 常世(トコヨ)に坐(イマ)す いはたたす 少御神(スクナカミ)の
   豊寿き(トヨホキ) 寿き廻(モト)ほし 神寿き 寿き狂ほし 献(マツ)り来(コ)し 御酒そ あさず飲(オ)せ ささ 』
 ( この御酒は 私が作った御酒ではない 御酒の長官である 常世の国においでになる 石の上にお立ちになっている 少御神(大国主神と共に国作りをし、天孫に国土を譲った後、常世国に去った)が 大いに寿ぎ 踊り回り 神々しく 踊り狂って 醸造し献上してきた 御酒ですぞ 大いにお飲みなさい さあさあ )
と。 武内宿禰は、皇太子に代わって返歌(カエシウタ)を詠まれた。
 『 此の御酒を 醸(カ)みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも 此の御酒の あやに うた楽しさ 』
 ( この酒を 醸した人は その鼓を 臼のそばに立てて 歌いながら 醸したからでしょうか この酒の まことに 美味しいことですね )

この後『日本書紀』は、「魏志」倭人伝を引用している。

三十九年(神功摂政)。魏志に曰く、「明帝の景初三年(西暦239年に当たる)六月に、倭の女王は、大夫(タイフ)ナントマイ等を派遣して、郡(帯方郡)に至り、天子に詣でて朝献することを求めた。郡の太守トウカは、役人を帯同させて、京都(ケイト・魏の都である洛陽)に至らしめた」という。
四十年。魏志に曰く、「正始元年(西暦240年に当たる)に、建忠校尉(ケンチュウコウイ・武官名)テイケイ等を派遣して、詔書・印綬を奉って、倭国に至らしめた」という。
四十三年。魏志に曰く、「正始四年に、倭王は、また使者の大夫イセイシャ・ヤヤヤク等八人を派遣して上献した」という。

     ☆   ☆   ☆


 
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歴史散策  空白の時代 ( 13 )

2016-06-03 08:39:55 | 歴史散策
          『 空白の時代 ( 13 ) 』

百済との親交の端緒

神功摂政四十六年の春三月の一日、斯摩宿禰(シマノスクネ)を卓淳国(トクジュノクニ・朝鮮半島の一部らしい)に派遣した。斯摩宿禰は、どういう出自の人か分からない。
この時、卓淳王マキムカンキは斯摩宿禰に告げて、「甲子年(コウシノトシ・神功摂政四十四年を指すか?)の七月中に、百済人(クダラヒト)のクテ・ミツル・マコの三人が、わが国に至って、『百済王は、東方に日本(ヤマト)という貴国(大国といった意味か?)があることを聞いて、我らを派遣して、その貴国に親交を求めさせました。そこで、行路を探し求めて、この国に来てしまいました。もし我らを快く通行させていただくなら、我が王は、必ず深く君王(キミ)を大切に思うでしょう』と言った。そこで、クテ等に『もちろん東の方に貴国があることは聞いている。しかしながら、未だ行き来したことがなく、行き方を知らない。ただ、海路は遠く波が険しい。つまり、大船に乗ってようやく通えることが出来るくらいである。もし途中に港があるとしても、大船なしではとても行き着くことは出来まい』と伝えた。するとクテ等は、「それならば、今はとても行くことが出来ますまい。今は国に帰り、船舶を整えてのち行くことにします』と言った。そして、『もし、その貴国の使者が、この国に到来するようなことがあれば、必ずわが国にお知らせください』と言った。彼らは、このように言い残したうえで帰って行きました」と語った。

そこで、斯摩宿禰は、ただちに従者の爾波移(ニハヤ)と卓淳人のワコの二人を百済国に派遣して、その王を表敬させた。
その時、百済の肖古王(ショウコオウ)は大変喜び、手厚く遇した。そして、五色の綵絹(シミノキヌ・彩色された絹織物)を各々一匹(反物の単位で、一匹は二反か?)と角の弓、それに鉄鋌(ネリカネ・鉄の延板)四十枚を爾波移に与えた。また、宝蔵を開いて、様々な珍しい物を示して、「我が国には、多くの珍しい宝がある。貴国に献上しようと思うも、行路が分からない。志はあっても思うようにはならない。しかしながら、ちょうど今、使者に託して貢物として献上しよう」と言った。
そこで、爾波移はこの事を承って、斯摩宿禰に報告した。
そして、斯摩宿禰は、卓淳から帰還した。

     ☆   ☆   ☆
 
新羅との軋轢

神功摂政四十七年の夏四月に、百済王は、クテ・ミツル・マコを使者として貢物を届けてきた。その時、新羅国の使者もクテらと共に来朝した。
彼らの訪朝を、皇太后(オオキサキ・神功皇后)と太子誉田別尊(ヒツギノミコ ホムタワケノミコト・後の応神天皇)は大変喜ばれた。そして、「先王(仲哀天皇)が望んでおられた国の人が、今来朝した。痛ましいことだ、先王に拝謁させることが出来なかったことが」と仰せられた。群臣全てが涙を流した。

そこで、二つの国の貢物を点検した。すると、新羅の貢物は珍しい物が多かった。一方、百済の貢物は少ない上に粗末な物ばかりであった。そこでクテ等に「百済の貢物が新羅に及ばないのはどういうわけか」と尋ねた。
そうすると、「私どもは、道に迷ってしまい沙比(サヒ・地名)の新羅に着いてしまいました。すると新羅人は私どもを捕えて牢屋に監禁しました。そして、三か月たって殺そうとしました。その時、クテ等が天に向かって呪詛しました。新羅人はその呪詛を怖れて私どもを殺すのは止めました。しかし、私どもの貢物は奪い取り、新羅国の貢物としたのです。私どもは、新羅の粗末な貢物を我が国の貢物としたのです。新羅人は私どもに『もしこの事を漏らせば、帰る日にお前たちを殺す』と言うのです。そのためクテ等は怖ろしくて従うしかなかったのです。そういうことに堪えて、何とか天朝(ミカド・日本を指す)まで来ることが出来たのです」と答えた。

そこで皇太后と誉田別尊は、新羅の使者を詰問し、天神(アマツカミ)に祈って、「誰を百済に遣わして事の虚実を確かめさせ、誰を新羅に遣わしてその罪を尋問させればよいか」を尋ねられた。
天神は、「武内宿禰に計画を立てさせよ。そして、千熊長彦(チクマナガヒコ・氏姓が分からない人物、と説明されている)を使者とすれば、願い通りになるだろう」と教えた。
そこで、千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献上物をすり替えたことを責めた。

     ☆   ☆   ☆
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歴史散策  空白の時代 ( 14 )

2016-06-03 08:38:55 | 歴史散策
          『 空白の時代 ( 14 ) 』

新羅再征討

神功摂政四十九年の春三月、荒田別・鹿我別(カガワケ)を将軍に任命した。
そして、クテらと共に軍勢を整えて海を渡り、卓淳国(トクジュンノクニ・朝鮮半島にあった国)に至り、新羅を襲おうとした。
その時、ある人が、「兵士が少なくては、新羅を撃ち破ることは出来ない。更にまた、サハク・カフロ(ともに卓淳国の人らしい)を天皇に仕えさせて、増兵を要請なされよ」と言った。
そこで、モクラコンシ・ササナク(この二人の出自は分からない。但し、モクラコンシは百済の将軍である、と説明書きされている)に命じて、精兵を率いて、サハク・カフロと共に派遣した。

全軍は卓淳国に集結して、新羅を撃ち破った。そして、ヒシホ・南加羅・トクノクニ・安羅(アラ)・多羅・卓淳・加羅の七か国を平定した。更に軍勢を移して、西方に廻って、コケノツに至り、南蛮(百済から見て、南方の野蛮国の意)のトムタレ(済州島の古名)を滅ぼして、その地を百済に与えた。
この時、百済の王ショウコと王子クイスは、再び軍勢を率いてやって来た。すると、比利・辟中(ヘキチュウ)・布弥支(ホムキ)・半古の四つの邑(ムラ)が自分から降伏してきた。
こうして、百済王の父子と、荒田別・モクラコンシらは、共に意流村(オルスキ)で落ち合った。互いに顔を見合わせて喜びあい、厚く敬って歓送した。

ただ、千熊長彦と百済王のみは、百済国に着くと、辟支山(ヘキノムレ)に登って誓った。また、古沙山(コサノムレ)に登って、共に大岩の上に座った。その時、百済王は誓って、「もし草を敷いて座と為せば、おそらく火に焼かれるだろう。また木を取って座と為せば、おそらく水に流されるだろう。それゆえに、大岩に座って誓うことは、長遠(トコシエ)にして朽ちることがないことを示すものである。これによって、今より後は、千秋万歳に渡って絶えることなく無窮であり、常に西蛮(自国を謙遜している)と称して、春秋に朝貢いたしましょう」と言った。
そうして、千熊長彦を連れて百済の都に至り、厚くもてなした。
そして、再びクテらを従わせて、日本に送り届けた。

     ☆   ☆   ☆

百済との親交

神功摂政五十年春二月、荒田別等が帰還した。
夏五月に、千熊長彦・クニらが百済から帰還した。
そこで、皇太后(神功皇后)はお喜びになって、クニに尋ねた。「海の西の諸々の韓国(カラノクニ)をすでにそなたの国に授けた。それなのに、今また、どういうわけでしきりにやって来るのか」と。
クニらは、「天朝(ミカド)のご恩恵は、遠く弊邑(ヘイユウ・自国を卑称したもの)にまで及び、我が王は歓喜踊躍して、心の中に押さえておくことが出来ません。それゆえ、帰還される使者に託して至誠を伝えようとしたのです。万世に及んだとしても、いずれの年にも来朝することでしょう」とお答え申し上げた。
皇太后は、「何とすばらしいことか、そなたの言葉は。それこそ我が心にかなうことです」と仰せられ、多沙城(タサシ・朝鮮半島内の地名)を加えて贈り、往還の道の宿駅とされた。

五十一年の春三月、百済王は、再びクテを派遣して朝貢した。
そこで皇太后は、太子(ヒツギノミコ・後の応神天皇)と武内宿禰とに語った。「我が親交ある百済国は、天がお与え下さった所である。人為によるものではない。楽しい物や珍しい物は、わが国には今までなかった物である。毎年欠かさず、常に来朝してそれらの品を貢献(ミツギタテマツ)っている。私は、この忠誠をみて、常に喜んでいる。私が生きている時と同じように、私の死後も厚く恩恵を与えよ」と。

その年に、千熊長彦をクテらに付き従って百済国に派遣された。そして、大いなる慈愛を示されて、「私は、神の霊験に従って、はじめて道路(ミチ)を開き、海の西を平定して百済に差し上げた。今また厚いよしみを結び、永く特別に大切にしよう」と伝えられた。
この時、百済王の父子は、並んで額を地に着けて、「貴国の大恩は天地よりも重い。いずれの日、いずれの時にも、決して忘れることはございません。聖王が上に在(マ)しまして明らかなることは、日月の如し。いま私は下に侍(ハベ)り、堅固なことは山の如くであります。永く西蛮(従う意思を示している)となって、いつまでも二心をいだくことはありません」と誓った。

五十二年秋九月の十日、クテらは千熊長彦に従って来朝した。その時、七枝刀(ナナサヤノタチ)一口、七子鏡(ナナコノカガミ)一面、さらに様々な宝物を献上した。そして、「我が国の西方に川があります。水源は谷那(コクナ)の鉄山(カネノムレ)より出ています。その遠いことは、七日行っても行き着きません。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を取って、永く聖朝(ヒジリノミカド)に献上いたします。さらに、孫の枕流王(トムルオウ)に『今私が通う所の海の東の貴国は、天の啓示で出来た国です。それゆえ天恩を下されて、海の西を割いて私に賜ったものである。これによって国の基は永く堅固である。お前も、誠実によしみを尽くし、土地の産物を集め、朝貢することを絶やさなければ、たとえ死んでも何の心残りもない』と言いました」と申し上げた。
これより後は、毎年相次いで朝貢した。

     ☆   ☆   ☆



 
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歴史散策  空白の時代 ( 15 )

2016-06-03 08:37:45 | 歴史散策
          『 空白の時代 ( 15 ) 』

今一つの空白の時

日本書紀は、神功皇后について多くの記事を載せているが、神功摂政五十二年以降については、崩御までの十六年余りの間、百済の動向が中心で、その動静はほとんど記されていない。
神功皇后の摂政の期間は、天皇の「空白の時代」であるが、神功皇后晩年の十六年ほどは、今一つの空白の時ともいえる。
以下、日本書紀の内容に戻る。

神功摂政五十五年、百済の肖古王(ショウコオウ)が薨(ミマカ)った。
五十六年に、百済の王子、貴須(クイス)が立って王となった。
六十二年、新羅は朝貢しなかった。
その年、襲津彦(ソツヒコ・葛城氏)を派遣して新羅を攻撃させた。
( この後に、「百済記に曰く」として、日本から派遣された将軍(襲津彦が否か、はっきりしない)が新羅の美女に惑わされて、新羅を討たずに加羅国を攻撃した。加羅国は滅ぼされ、王族らは百済国に逃れた。百済国は彼らを厚く遇し、王の妹を日本に派遣して、事の次第を訴えた。それにより、再び新たな将軍を派遣して、加羅国を回復させた・・。等々の記事が記されている。)

六十四年に、百済国の貴須王が薨った。王子の枕流王(トムルオウ)が立って王となった。
六十五年に、百済国の枕流王が薨った。王子の阿花(アカ)は若年であった。叔父の辰斯(シンシ)が位を奪って王となった。
六十六年、この年は、晋の武帝の泰初二年である。晋の起居注(キキョチュウ・日記体の記録)に「武帝の泰初二年十月に、倭の女王、通訳を重ねて貢献せしめた」という。

六十九年の夏四月の十七日、皇太后(神功皇后)は稚桜宮(ワカサクラノミヤ・奈良県桜井市か?)で崩御された。時に御年、一百歳であった。
同年冬十月の十五日に、狭城盾列陵(サキノタタナミノミササギ・奈良市内。成務天皇陵と並んでいる)に葬り祭った。この日に、皇太后を追尊して、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)と申し上げる。この年は、太歳己丑(タイサイキチュウ・中国の暦)であった。

     ☆   ☆   ☆

もっと光を

「日本書紀巻第九 神功皇后」編は、ここで終わっている。
その記事の内容や信憑性はともかくとして、その分量は夫である仲哀天皇の数倍に及び、古代史上、重要な意味を持つ天皇の一人ともいえる、子の応神天皇さえも凌いでいる。
摂政としての治世は、六十九年にも及ぶわけであるから、それが不自然というわけではないが、しかし日本書紀は、神功皇后を天皇とは示していないのである。

日本書紀の完成は、長い時間をかけて編纂され修正されたのであろうが、その完成は養老年間とされるのが通説である。
それは、第四十四代元正天皇の御代にあたり、まさに女性天皇の絶頂期ともいえる時期なのである。つまり、もし神功皇后が即位していたのであれば、少なくとも日本書紀がそれを隠ぺいする必要性はなかったと考えられるのである。
やはり、神功皇后は即位することなく、摂政として六十余年の長きにわたって朝鮮半島との混乱の時期のわが国を導いたということになる。
神功皇后崩御の翌年、応神天皇が即位する。仲哀天皇没後七十年の時が流れている。やはり、この期間は、天皇の「空白の時代」であったと考えられるのである。

第二次世界大戦の敗戦を経て、歴史上の人物の評価が大きく変わっている例が多くある。
人物や事象が時代とともに評価が変わって行くこと自体は、ごく自然な流れであり、文化的にも学問的にも健全なことだと思う。しかし、その中には、その時代の政治というか政権というか、あるいは世相を誘導するためにか、実態を遥かに超えて英雄視したり、悪者扱いしたり、もっと極端な場合は隠してしまう場合さえある。それさえも、自然な流れと考えるのは少し辛い気もする。

神功皇后という人も、そのような人と思われる。戦前と戦後の評価が違い過ぎるのである。
本稿は、「日本書紀」に載せられている神功皇后の足跡を辿ったもので、古事記やその他の資料を無視したもので、決して研究書などではなく、一つの読み物としてご覧いただきたいと思う。
そして、ぜひ、本格的な研究者の方々が、わが国の神話と現実史とを結ぶ時代の中で、現実史に相当近い時代に生きた偉大な女性について、もっと光を当ててほしいと願うばかりである。

                                          ( 完 )

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