門付け乞食 ・ 今昔物語 ( 15 - 15 )
今は昔、
比叡山の東塔(比叡山三塔の一つ)に長増(チョウゾウ・伝不詳)という僧がいた。
幼くして山に登って出家して、名祐律師(ミョウユウリッシ・伝不詳。よく似た人物あるもよく分からない。)という人を師として、顕密(ケンミツ・顕教と密教)の法文を学んだが、理解力に優れ聡明で、仏道を極めた。
こうして、比叡山に住んで年月を過ごしたが、長増は道心を起こして、「我が師の名祐律師も極楽に往生なされた。自分も何としても極楽に往生したいものだ」と強く思って、他の人にもこのことを言っていた。
ある時、長増が僧房を出て厠(カワヤ)へ行き、しばらく経っても帰って来ないので、弟子は不審に思って行ってみると、見当たらないので、「どこか外の知っている僧房に行ったのか」と思ったが、「いや、ふつうはいったん僧房に帰り、手を洗って、念珠や袈裟など持ってからどこなりへと行くはずだ。どうもおかしい」と思って、あちらこちらと尋ね歩いたが、どこにもいない。僧房には多くの経文や持仏が残っていたが、放りっぱなしのままで、いなくなってしまったのは、わけが分からない。どこにおいでであるとしても、これらのものを始末をつけておかれるでしょうに、まるで、突然亡くなった人のようにいなくなってしまったので、弟子たちは泣き惑って探し回ったが、その日は見つからなかった。
その後、数日経ってもどうしても見つからずに終わったので、弟子たちはその僧房に住むことになった。多くの法文などは同門の弟子である清尋供奉(ショウジングブ・「静真」が正しいらしい。)という人が、全部自分の所に運んでしまった。
その後、数十年が経ったが、遂に行方が分からないままになった。
さて、清尋供奉も六十歳ほどになった頃、藤原知章(フジワラノトモアキ・1013年没。藤原道長の家司)という人が伊予の守になって任国に下ることになったが、ある事情からこの清尋供奉を祈祷の師として頼んでいたので、清尋供奉は守に随って下って行った。
清尋供奉が伊予国に着くと、別棟に僧房を新しく造って住まわせた。修法などもその僧房の内で行わせた。
守はこの清尋を尊い者として、その国の人に宿直して夜警にあたらせたり、特別に食事担当者を指定したりして帰依したので、その国の人々は挙って清尋をたいそう敬った。
僧房の辺りには、蠅一匹さえ飛び回らせないように、清尋は口やかましく仕えている人を追い使った。僧房の縁先には、持って来させた菓子(果物のこと)や野菜などが隙間なく並べられていた。
そうした時、僧房の前に立て渡している切懸(キリカケ・目隠しの板塀)の外を見てみると、色が真っ黒で田植え笠という物の半分破れたのを着た老法師がやって来た。腰にはぼろぼろの蓑をまとい、身にはいつ洗ったかも分からないような汚れた手作りの単衣を二枚ばかり着ているらしく、藁沓を片足だけに履き竹の杖をついている。
その老法師が、僧房の内にずかずかと入ってきたので、宿直していた土地の者たちはそれを見て、「あの門付け乞食め、御坊(清尋)の御前に行こうとしているぞ」と言って、大声で追い払う。
清尋は、「何者が来て、追い払っているのか」と思って、障子を引き開いて、顔を指し出して見てみると、何ともひどい姿の門付け乞食が来ていた。その門付け乞食が近寄って来て笠を脱いだ顔を見ると、自分の師で、山で厠に行ってそのまま行方知れずになった長増供奉ではないか。
よく見るにつけ、紛れもなく師に間違いなく、清尋は驚いて縁から飛び降りて、地面にひざまずいた。門付け乞食に続いて、棒などを持って追い払おうとしてやってきた土地の者たちは、清尋が地面にひざまずいているのを見て、ある者はぼんやりと立ちすくみ、ある者は走って戻り、「あの門付け乞食、坊様の御前に行ったので、『追い払おう』と思って追って行ったところ、坊様があの門付け乞食を見て、大あわてで縁から飛び降りて地面にお座りになっている」などと言って大さわぎになった。
長増は、清尋が地面に下りたのを見て、「早くお上がりください」と言って、共に縁に上って、長増は蓑と笠を縁に脱ぎ置いて、障子の内ににじり入った。
清尋も続いて入り、長増の前に身を投げ出して泣き続けた。長増もまた激しく泣いた。
しばらくして、清尋が訊ねた。「いったいどうして、このようなお姿でいらっしゃるのですか」と。
長増は、「私はあの時、厠に入っている間に心静かに思いをめぐらしているうちに、世の無常を悟り、この生活を棄ててひたすら後世の往生を祈ろうと思い至り、『ただ、仏法が行き届いていない所に行って、身を捨てて門付け乞食をして何とか命をつないで、ひたすら念仏を唱えることによって極楽に往生しよう』と思いついたので、厠から僧房にも立ち寄らず、下駄をはいたまま山を走り下り、その日のうちに山崎に行き、伊予国に向かう船に乗せてもらって、この国に下ってからは、伊予・讃岐の両国を物乞いをしながら長年過ごしてきたのです。この国の人は、私を般若心経さえ知らない法師だと思っています。ただ日に一度、人の家の門前に立って物乞いをしますので、門付け乞食という名がついたのです。しかしながら、『このようにあなたにお会いしたので、皆が私のことを知ってしまうでしょう。知られた後は、門付けをしても相手にしてくれなくなるので、お会いするまい』と何度も思っていたのですが、昔の関係が睦まじかったために懐かしく、心弱くもこのようにお目にかかってしまったのです。されば、ここを去った後は、誰もが自分の事を知らない国にまた行こうと思っています」と言って、走って出て行ったので、清尋は、「せめて今夜だけでもここにいてください」と言って止めたが、「無駄なことをおっしゃいますな」とだけ言って、出て行ってしまった。
その後、消息を尋ねたが、まことにこの国を去って跡をくらましてしまった。
やがて、その守の任期が終わって上京した後、三年ばかり経ってから、門付け乞食がまたこの国にやって来た。
すると、今度は、その国の人々は、「門付け乞食様がいらっしゃった」と言って、たいそう尊び敬っていたが、それからいくらも経たないうちに、その国にある古寺の後ろにある林の中で、門付け乞食が、西に向かって端座し合掌して、眠っているように死んでいた。
この国の人々は、これを見つけて感激し尊んで、それぞれに法事を営んだ。讃岐・阿波・土佐の国においても、この事を聞き伝えて、五、六年後までも、この門付け乞食のために法事を営んだのである。
されば、この国々は、少しばかりの供養も造らない所であるのに、この事があってから、このように功徳を行うようになったので、「この国々の人を導くために、仏が仮に門付け乞食の身となって現れてやって来られたのだ」と、このようにまで言って、感激し尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。
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