『 哀れなり御匣殿 ・ 望月の宴 ( 98 ) 』
ところで、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・藤原娍子。のちの三条天皇皇后。)は、たくさんの宮たちをお連れして東宮(居貞親王。のちの三条天皇。)のおそば近くにお仕えしていらっしゃいますが、それも、並大抵ではない御宿世(スクセ・前世からの因縁。)と見受けられる。
大殿の御娘の尚侍(ナイシノカミ・道長の次女妍子。この時、十一歳。)殿を、きっと東宮の妃として入内させなさるだろうと、世間ではお噂申している。
されど、殿(道長)のお考えは、かつての殿方のように、他の人を蹴落とすような御心はお持ちでないので、そうした機会もないこともあるまいとお考えになって、参内を急がれる様子はない。
この頃、殿の上(道長正室倫子)のご兄弟に、くわがゆの弁(不詳。誤記か?)といった人には、たくさんの娘がいたが、そのなかの中の君に帥殿(伊周)の北の方のご兄弟である則理(ノリマサ・権大納言源重光の三男。)を婿にお迎えになったが、たいそう心外なことがあって縁が絶えたので、最近、中の君は中宮(彰子)のもとに出仕なさっている。
この中の君は、容姿も仕草もたいそう美しく、まことに優美なお方であったので、殿の御前(道長)のお目にとまり、何かとお話しなどなさっているうちに、愛おしく思われるようになり、真剣に愛情をお育てであるが、殿の上は、この人であればと思ってお見逃しになり、そのままに過ごしていらっしゃる。
それを見た人は誰もが、「則理の君は、まったく妻を見る目がないお方だ。これほどの女性を粗末になさったことだ」などと取沙汰したのである。
そして、中の君を大納言の君と呼び名をお付けになったのである。
こうして月日が過ぎ行くうちに、あの御匣殿(ミクシゲドノ・故定子皇后の妹)は懐妊なさって、ご気分がすぐれず、月日と共に苦しまれていて、その御様子を帝もたいそうふびんに思われて、心の内でどうすれば良いかとお案じのうちに、四、五ヶ月ほどになったので、これが噂されるようになり、正式に奏上なさることはなかったが、このままでは周囲の目もわずらわしく、里のお邸に退出なさった。
帝もたいそうふびんと思しめして、その事をお口にされるが、たいそう苦しげになさるのを、どうなることかと憂慮なさっている。
帥殿(ソチドノ・伊周。御匣殿の兄。)などは、帝の御寵愛を受けたからには、何事もないよりは、御子がお生まれになるのも悪いことではないと思われて、あれこれと安産の御祈祷をなさる。
御匣殿は、里邸にあって、故定子皇后の皇子や皇女たちをご心配なさり、また恋しさなどもあってお心を乱され、ご気分がますます悪くなり、起き伏しさえもお苦しみになる。
帥殿は、ご自分の御邸にお迎え申し上げて、何かにつけてお世話申し上げていたが、急に御容態が悪くなり、五、六日してお亡くなりになった。
御年は十七、八歳くらいでいらっしゃっただろうか、御容姿も御心もたいそう可愛らしく、たいそう美しくあられたが、故定子皇后の御有様にも劣らず、物静かで控えめで奥ゆかしいお方であられたのに、このようにただならぬお体でお亡くなりなったとはと、様々に帥殿も中納言殿(隆家)もそのお嘆きは一通りではなく、まことに情けないことであろうと思われる。(当時、妊娠したまま亡くなるのは罪深い事である、という考え方があった。)
内々の悲しさよりも、外聞を恥ずかしく辛いことと思われて辛抱されているが、これほどまでにすべての願いが裏切られることに、このご一家(中関白家)の御有様を世間の人たちは、まずはお噂しているようである。
帝におかれては、人知れずしょんぼりとお力を落とされているご様子で、御匣殿に深く心を寄せられていたのだと拝見するにつけても、まことに口惜しく情けないことと思われる。
むなしく後々の法要などが行われ、服喪の期間が終ってから、帥殿も中納言も宮中に参内なさって、故定子皇后が残された皇子や皇女のお世話などを十分になさる。
御匣殿がいなくなったことを、一の宮(敦康親王)がとりわけ恋い慕われる様子は、それはそれはいたわしく悲しまれることであった。
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