『 疫病の猛威 ・ 望月の宴 ( 47 ) 』
内大臣殿(伊周・関白道隆の子息)の子息の松君(道雅)は、まことに容姿が美しくいらっしゃるが、姫君たちもたいそう可愛らしくお生まれなので、行く末はお后にと大切にお育て申し上げている。
この内大臣殿は、ご容姿も身にそなわる才能も、この世の上達部(カンダチメ・公卿)としてはとてもおさまりきれぬ人物だとまで言われているお方なので、もしかすると、不吉なことになるのではないかと思われる、というのも無理からぬ事とお見えになる。
正室貴子御腹の三郎は、法師(隆円)にして、僧都にしてあげられた。また、その弟(隆家)は中納言でいらっしゃる。
山井(ヤマノイ・道頼。伊周の兄であるが、道隆に可愛がられず兼家の養子になった。)は、故殿(兼家。道隆らの父)のご意向を思い起こしになって、大納言におさせ申し上げられた。
このようになさった関白殿(道隆)は、水をお飲みになることが止めることが出来ず、まことに尋常でないご様子のまま、年も暮れていく。
東宮(居貞親王)には、宣耀殿の女御(娍子)がお生みになった若宮(敦明親王)をお連れになって参内なさったので、もう拘ることもなくなって(原子が入内して、波風が立っていたらしい。)、いつも若宮をお抱きになって大切に可愛がられていらっしゃる。
やがて年も改まりました。
宮中では中宮定子さまが、帝の寵愛を一身にお集めになり、並ぶ者などない有様で時めいていらっしゃいます。
東宮は、淑景舎の女御殿(原子)をどのように遇されるのかと、人々は興味深く見守られています。
ところが、この年、長徳元年(995)でございますが、沈静化したと思われました疫病が再び激しくなり、正月から世の中がたいそう騒がしくなって参りまして、もう誰もが生き残れないのではないかと思うほどで、大変悲しいことでございます。
とりわけ女院(詮子)におかれましては、関白殿(道隆)のご病状をご心配なされると共に、世の中の政を落ち着いて指図なさる事が出来なくなるのではないかと、お悩みが尽きません。
疫病の猛威(疱瘡らしい)は、今年は、まず下々の者などが、ほんのしばらく患っただけで、まことに無残に死んでしまうとのことでございます。四位、五位などの者が亡くなるのはもちろんのこと、いずれは上位の方々にも及ぶのではないかと、噂されているのでございます。
まことに恐ろしい限りですございますが、三月になって、関白殿のご病状はさらに重くなっておられましたが、宮中に夜分になって参内なさいました。
「このように病がひどく悪うございますので、この間の政務は内大臣が行うよう宣旨をお下しくださいませ」と、奏上なさったそうでございます。
帝は、関白殿のご様子をご覧になられ、やむを得ないことと思し召しになり、三月八日に、「関白病の間、殿上及び百官施行」という宣旨が下されたそうでございます。
これにより、内大臣殿(伊周)がすべての政務を執行なさることになりました。
こうしている間に、閑院の大納言殿(朝光・道隆らの従兄弟)が、猛威を振るっている疫病で、三月二十日にお亡くなりになりました。
まことに哀れで、悲しいことでございます。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます