雅工房 作品集

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運命紀行  情熱の歌人

2014-01-03 08:00:13 | 運命紀行
          運命紀行
               情熱の歌人

歴史上「情熱の歌人」と評される人物は決して少なくない。
しかし、これほど激しい歌を後世に残している女性は、そう多くはないのではないか。

『 君が行く 道のながてを 繰り畳(タタ)ね 焼き亡ぼさむ 天の火もがも 』

この激しい和歌を万葉集に残したのは、狭野茅上娘子(サノノチガミノオトメ)である。
歌意は、「あなたが去って行く長い長い道のりを、手繰り寄せ巻き畳んで、焼き亡ぼしてしまう天の火が欲しい。そうすれば、あなたはもう先に行くことは出来ないでしょうから」といった感じであろうか。
愛しい人が去って行く道を繰り畳んで燃やしてしまいたい、というのであるから何とも凄まじい情念を感じさせる歌である。
しかし、この歌は、確かに激しい恋の歌であるが、その裏には夫が流罪となり都を追われて行くという悲しい現実があったのである。

狭野茅上娘子は、奈良時代に生きた女性である。
残念ながら、その生没年は全く分からないが、僅かな記録から推察すれば、生年は奈良時代に入って間もない頃、西暦でいえば、720年前後ではないだろうか。

『 君が行く・・ 』の激しい歌の中にある「君」は、中臣朝臣宅守(ナカトミノアサミヤカモリ)である。
宅守は、神祇職を担う家柄である中臣の一族で、歴とした貴族の出自である。
狭野茅上娘子は、蔵部に仕える女嬬であった。蔵部は宮中の役所の一つであり、女嬬は雑役につく下級官人である。雑役婦に近い職務であったと思われるが、宮中に仕えているのであるから、何処の誰とも分からない家柄の出自ではなく、おそらく下級官僚の娘であったと思われる。全くの推量であるが。

この二人が、どういう切っ掛けかは分からないが、激しい恋に落ち、結ばれるのである。
その時期は不明であるが、狭野茅上娘子が残した歌から推定すれば、うら若い乙女というよりも、もう少し成熟した女性であった頃のように思われるのである。

激しい恋を経て結ばれた二人であるが、間もなく夫となった宅守は罪を得て越前国へと流されるのである。
この罪状についても、よく分からない。後年、宅守は謀反事件に関連して罪を得ているので、この時も政治的な動きをしていたことからの罪であったかもしれない。また、多くの研究者は二人の結婚が罪に問われたものだとして、重婚であったのではないかと指摘する向きもある。さらにダブル不倫だという人もあるようだ。

奈良時代であれば、一夫多妻など珍しくなく、特に貴族が複数の妻を持つのは普通のように私たちは考えているが、この頃の一時期には一夫一婦制がかなり厳格に守られていた期間があったらしいのである。実際に、重婚により処罰を受けたという記録もあるらしい。
この二人の場合も、重婚罪であった可能性は否定できない。あるいは、貴族(この頃はまだ宅守は六位以下であったが)と女嬬の結婚などは許されることではなかったかもしれないし、あるいは、宅守の妻の実家が有力貴族で、狭野茅上娘子への激情が面白くなく咎められたのかもしれない。
いろいろと想像は出来るが、宅守は越前国への流罪という厳しい罪を負いながら、狭野茅上娘子の方は何の罪も得ていないようなのである。やはり、何らかの政治的な罪ではないかと思われるのである。

ともあれ、ようやく結ばれた二人は、平城京と越前国に引き離される。
万葉集には、狭野茅上娘子の引き離された夫への激しい想いと悲しみが込められた歌が二十三首載せられている。同じく、妻の想いに答えた宅守の歌は四十首に及んでいるのである。
これらの贈答歌は、歴史上最も激しい恋を歌った女流歌人を誕生させたことになるが、同時に、万葉の時代の一途な大人の恋を彷彿とさせてくれる場面を演出してくれているのである。


     * * *

それでは、万葉集第十五巻に載せられている狭野茅上娘子の歌二十三首のうち前記しているもの以外の幾つかを記してみよう。

『 あしひきの 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし 』

歌意は、「険しい山路を越えて行こうとしているあなたのことを、心に抱き続けていて、安まるときなどありません」
なお、「心に持ちて」という表現は、他に例を見ない独自のものらしい。

『 命あらば 逢うこともあらむ わが故に はだな思ひそ 命だに経ば 』

歌意、「命があれば、再び逢うことも出来ましょう。私のために余り思い悩まないでください。命さえ大切にしていただければ、いつかは逢えるのですから」
なお、「はだ」は「はなはだ」といった意味らしい。
また、この歌は、同じく万葉集に収められている宅守の次の歌などに答えたものらしい。
「 天地(アメツチ)の 神なきものに あらばこそ 吾(ア)が思ふ妹(イモ)に 逢はず死にせめ 」
「 吾妹子(ワギモコ)に 恋ふるに吾(アレ)は たまきはる 短き命も 惜しけくもなし 」

『天地の 底ひのうらに 吾(ア)が如く 君に恋ふらむ 人は実(サネ)あらじ 』

歌意、「天地の果てまでも探し回っても、私のように、あなたを恋い慕っている人はいないことでしょう」
なおこの歌も、宅守の次の歌に答えたものらしい。
「 他人(ヒト)よりも 妹そも悪しき 恋もなく あらましものを 思はしめつつ 」

『 白栲(シロタヘ)の 吾が下衣(シタゴロモ) 失なはず 持てれわが背子 直(タダ)に逢ふまで 』

歌意、「わたしの下衣を亡くさないように持っていてください、愛しいあなた。直接お逢いできる時が来るまで」

『 魂は 朝(アシタ)夕べに 賜ふれど 吾が胸痛し 恋の繁きに 』

歌意は、「あなたの魂の叫びは、朝も夕べも受け取っております。しかし、私の胸は、あなたを想う気持ちが激しくて、胸が痛むのです」
なおこの歌も、宅守の次の歌などを受けたものであろう。
「 吾が身こそ 関山越えて ここにあらめ 心は妹に 寄りにしものを 」

『 帰りける 人来たれりと 言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて 』

歌意は、「赦免されて帰ってきた人が都に着いたということで駆けつけました。危うく死んでしまうところでした、あなただと思ったものですから」
なお、「ほとほと」は「ほとんど」の意。
天平十二年(740)に、大規模な恩赦が行われたが、宅守は許されなかったらしい。この歌も宅守に贈られたものであろうから、「あなたでなくて、死ななくてすんだ」という意味に取れるのは、落胆の気持ちを堪えて、いつまでも待つ気持ちを伝えたのではないだろうか。

『 昨日今日 君に逢はずて する術の たどきを知らに 哭(ネ)のみしそ泣く 』

歌意、「昨日今日と、あなたに逢えなかった悲しさに堪える術を知らなくて、声をあげて泣いてばかりいます」

『 白妙の 吾が衣手を 取り持ちて 斎(イハ)へわが背子 直(タダ)に逢ふまでに 』

歌意、「私の衣を手に持って、神に祈って下さい、あなた。直接お逢いできる日が来るまで、ずっとですよ」

以上は、万葉集に収められている狭野茅上娘子の歌の一部である。激しい愛情を歌いあげている様子が分かっていただけると思うが、宅守の赦免が叶わなかった後の二首などは、むしろ切なさが伝わってくるものである。

さて、夫の中臣朝臣宅守であるが、天平十二年六月の恩赦では許されなかったが、翌十三年九月には、さらに大規模な恩赦が行われており、ほとんどの流人が赦免を受けているので、この時に、無事都に、そして、狭野茅上娘子のもとに帰りついたものと考えられる。
そして、その後は二人に幸せな時間が訪れたものと願うばかりである。

万葉集には、実に四千五百首以上の歌が収められている。歌人の数となれば、詠み人不明のものも多く、確定は難しいがその数も少ないものでない。
その中にあって、貴族の家柄といっても決して身分の高くない男性と、女嬬という低い身分の女性の激しい恋の贈答歌が六十三首も載せられていることに驚きを感じる。
また、宅守はともかく、狭野茅上娘子は下級の女官であり、清掃などの雑務にあたる地位であったと考えられるが、その女性が、これだけの歌を残すことが出来たのには、どのような形で教育を受け教養を身につけることが出来たのか、興味深い。そのことは、万葉集に数多く登場してくる防人や名も伝わらない人々の教養の高さについても同様である。
さらにいえば、二人の間では、何度も何度も歌が交換され、下衣などが送られているのである。
流人の生活がどのようなものであったのか、都と越前国の間がそれほど簡単に往還することが出来たのか、驚くことが数多く見えてくるのである。

宅守は、恩赦を受けて帰京した二十二年後にあたる天平宝宇七年(763)一月に、従六位上より従五位下に昇叙している。貴族の末席についたといえる。
しかし、翌八年九月には、藤原仲麿(恵美押勝)の乱に関わったとして処罰を受けている。これにより、中臣氏の系図からも除名されているので、相当重いものであったと考えられる。

狭野茅上娘子の消息は、万葉集に収められている二十三首の歌のあとは辿ることが出来ない。
宅守は無事赦免を受けて都に戻った後、二十三年を経て従五位下に上っている。つまり、苦節はあったとしても、この間は官人としての生活を送っていたと思われる。
おそらく狭野茅上娘子は、宅守との愛をさらに育み幸せ溢れる時間を持つことが出来たはずである。
宅守が再び重い罪に問われた頃は、狭野茅上娘子は四十歳をかなり過ぎていたと考えられる。

宅守が再び罪を得た後に、二人の間で贈答歌が交わされたという記録は見当たらない。
もしかすると、この間に狭野茅上娘子は世を去っていたのかもしれない。
しかし、それも単なる想像に過ぎず、万葉集にある激しい恋の歌の数々から、万葉の時代に生きた情熱の歌人を思い描くことしか出来ないのである。

                                    ( 完 )

 

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