当ブログで、『今昔物語拾い読み』という作品を連載させていただいております。
この作品を書き始めた切っ掛けは、いわゆる「研究目的」ではなく、単純に自分自身が読んでみたい思ったことからです。しかし、この今昔物語集には、千百話に及ぶ物語が収められているうえ、何分、すべての作品が仏教的な考え方や教えがベースとなっているだけに、第一巻から順に読んでいくのは荷が重い感じがしたのです。そこで、「拾い読み」という言葉をつけて、あちらこちらと気ままに読んでいくことにしたものです。
そうとはいえ、三日に一話のペースで読み進んでいるわけですから、いつ完読できるのか、気の長い話です。
ところで、今昔物語集のなかには、「限り無し」という言葉が頻繁に出てきます。
たとえば、「嘆キ悲ム事無限シ。」「歓喜スル事無限シ。」「財宝豊ナル事無限シ。」「愛シ寵シ給フ事無限シ」「貴ビ奉ル事無限シ。」など、まだまだあります。
「無限シ」は、「かぎりなし」と読みますが、いたるところに登場してきます。そこで、この部分を現代文になおす場合、どう書けばよいかということなのですが、これがなかなか難しいのです。最初の頃は、「たいそう歎き悲しんだ」とか、「たいへん歎き悲しんだ」とか「この上なく嘆き悲しんだ」といった具合に書き直していたのですが、どうもしっくりしませんでした。それに、続けさまにこの言葉が出てきますと、同じ言葉を避けるためだけに、「たいそう」を「たいへん」や「とても」に変えている自分がばかばかしくなっしまい、最近では、特別不自然な場合以外は、「・・・限りなかった」とそのまま使うことにしました。
さて、「限り無し」という言葉は、今昔物語集に限らず、古典にはよく登場する「表現の仕方」です。実に便利な表現方法だと思うのですが、現代の日常生活ではあまりお目にかからないように思われます。
しかし、この言葉とは反対に、「数を限定させる」表現方法は、よくお目にかかります。ただ、個人的には、少々疑いながら言葉の奥を考えてしまうのです。
例えば、「このすばらしい商品、先着五十名様に限ります」といった具合です。
恐らくほとんどは、この言葉のままの意味だと思うのですが、私は時々疑いを持つ場合があります。まず一つは、「本当は、五十を超えた申し込みがあれば、いくらでも売るんじゃないの?」といった疑問。もう一つは、「本当は、そんな目玉価格で売るつもりはなく、十個ほどで売り切れとなり、代わりの商品、あるいは上乗せされた価格で売り込もうとしている」と疑ってしまうのです。
まあ、「無限シ」の部分は言葉遊び的な感がありますが、日常生活においても、「限り無し」ではなく、数を限定させることによる詐欺まがいのことは少なくないようです。
特別安価な商品を限定数用意して宣伝することは、「目玉商品」としてよく見られますが、もともと用意されていない物を大々的に宣伝し、乗ってきた人には売却済みを理由に他の商品を巧みに売り込むとなれば、これは「おとり商品」ということになります。
どうやら、日々のささやかな生活においては、自分だけが得するような限定商品を手に入れようと目を光らせるより、「限り無し」として並べられている、普通の値段で手に入れることを旨とする方が無難のようですよ。
( 2016.10.24 )
この作品を書き始めた切っ掛けは、いわゆる「研究目的」ではなく、単純に自分自身が読んでみたい思ったことからです。しかし、この今昔物語集には、千百話に及ぶ物語が収められているうえ、何分、すべての作品が仏教的な考え方や教えがベースとなっているだけに、第一巻から順に読んでいくのは荷が重い感じがしたのです。そこで、「拾い読み」という言葉をつけて、あちらこちらと気ままに読んでいくことにしたものです。
そうとはいえ、三日に一話のペースで読み進んでいるわけですから、いつ完読できるのか、気の長い話です。
ところで、今昔物語集のなかには、「限り無し」という言葉が頻繁に出てきます。
たとえば、「嘆キ悲ム事無限シ。」「歓喜スル事無限シ。」「財宝豊ナル事無限シ。」「愛シ寵シ給フ事無限シ」「貴ビ奉ル事無限シ。」など、まだまだあります。
「無限シ」は、「かぎりなし」と読みますが、いたるところに登場してきます。そこで、この部分を現代文になおす場合、どう書けばよいかということなのですが、これがなかなか難しいのです。最初の頃は、「たいそう歎き悲しんだ」とか、「たいへん歎き悲しんだ」とか「この上なく嘆き悲しんだ」といった具合に書き直していたのですが、どうもしっくりしませんでした。それに、続けさまにこの言葉が出てきますと、同じ言葉を避けるためだけに、「たいそう」を「たいへん」や「とても」に変えている自分がばかばかしくなっしまい、最近では、特別不自然な場合以外は、「・・・限りなかった」とそのまま使うことにしました。
さて、「限り無し」という言葉は、今昔物語集に限らず、古典にはよく登場する「表現の仕方」です。実に便利な表現方法だと思うのですが、現代の日常生活ではあまりお目にかからないように思われます。
しかし、この言葉とは反対に、「数を限定させる」表現方法は、よくお目にかかります。ただ、個人的には、少々疑いながら言葉の奥を考えてしまうのです。
例えば、「このすばらしい商品、先着五十名様に限ります」といった具合です。
恐らくほとんどは、この言葉のままの意味だと思うのですが、私は時々疑いを持つ場合があります。まず一つは、「本当は、五十を超えた申し込みがあれば、いくらでも売るんじゃないの?」といった疑問。もう一つは、「本当は、そんな目玉価格で売るつもりはなく、十個ほどで売り切れとなり、代わりの商品、あるいは上乗せされた価格で売り込もうとしている」と疑ってしまうのです。
まあ、「無限シ」の部分は言葉遊び的な感がありますが、日常生活においても、「限り無し」ではなく、数を限定させることによる詐欺まがいのことは少なくないようです。
特別安価な商品を限定数用意して宣伝することは、「目玉商品」としてよく見られますが、もともと用意されていない物を大々的に宣伝し、乗ってきた人には売却済みを理由に他の商品を巧みに売り込むとなれば、これは「おとり商品」ということになります。
どうやら、日々のささやかな生活においては、自分だけが得するような限定商品を手に入れようと目を光らせるより、「限り無し」として並べられている、普通の値段で手に入れることを旨とする方が無難のようですよ。
( 2016.10.24 )
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