雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  激動の陰で

2014-09-06 08:00:15 | 運命紀行
          運命紀行
               激動の陰で

明智光秀が謎多い戦国武将であることは別稿で述べてきた。
それは、光秀という人物の生涯そのものや、心情についてであるが、その子孫についても同じことが言える。
もっとも、この時代の人物の家族関係や妻や子のその後についは、不明な部分が多いのが通常である。そう考えれば、光秀が特段謎多いというわけではないが、興味深い点が多いことも事実である。

光秀には、三男四女がいたとされる。これは「明智軍記」によるものらしいが、別の系図によれば、六男七女とされている。そして、古来、多くの研究者が口を揃えているところによれば、光秀の子女については、俗説が非常に多いとされている。
時の実質的な天下人である主君織田信長に反旗を翻し、しかも、瞬く間に羽柴秀吉に討たれてしまったとあっては、その子供たちのその後は、男の子であれ女の子であれ厳しいものであったに違いない。
山崎の戦いで光秀を破った秀吉が、もし晩年の秀吉であったならば、光秀の子孫はそれこそ根こそぎ抹殺されたのではないかと思われる。
しかし、男子はともかく、娘たちは厳しい試練にさらされながらも、誅殺されることなく生涯を終えている。

光秀の娘の中で、最も知られているのは、三女(あるいは四女ともいわれる)の珠姫であろう。玉姫とされることも多いが、細川忠興に嫁ぎ、父・光秀の謀反から関ヶ原の合戦にかけて波乱の生涯を生きている。敬虔(ケイケン)なキリシタンとして歴史上に名をとどめていて、むしろ、ガラシャ夫人という名前の方が名高い。
すでに述べたように、光秀の娘は、四人とも七人とも伝えられているが、養女も含めてのことであろうが、さらに多くの女性を光秀の娘とする伝承もあるらしい。
今回の主人公は、「明智軍記」には示されておらず、明智系図に五女と伝えられている「秀子」である。

秀子の生年は分からない。
その生年を推定する手段としては、一方で秀子は織田信長の三女とされていて、これは相当正しい記録と考えられている。そうすれば、次女の冬姫(蒲生氏郷の妻)が1561年生まれで、四女の永姫(前田利長の妻)が1574年生まれであることから、その間と考えられる。
また、秀子を光秀の娘だとすれば、明智系図ではガラシャ夫人の妹となっているので、ガラシャの生まれた1563年より後ということになる。
これらに加え、結婚することになる筒井定次が1562年の生まれであることも考え合わせれば、おそらく1565年(永禄八年)前後と考えられる。

秀子の生年を推定するのに、信長や光秀の娘の生年を並べるのは一見奇異に感じられるかもしれないが、その理由は、秀子は光秀の実の娘であるが信長の養女となっているからである。
もっとも、これには諸説があり、秀子は信長の実の娘だという説もある。ただ、信長の娘には生母がはっきりしないことが多く、有力武将などに対して、政略上家臣の娘を自分の養子として嫁がせることは信長に限らず多くの例がある。
本稿は、秀子が光秀の実の娘であり、その後信長の養女となったものと仮定して進めるが、その場合でも、養女となった時期が不明なのである。
つまり、まだ幼い頃に信長の養女として織田家で養育されていたとすれば、信長を父としてどの程度意識していたかはともかく、織田家を実家として意識する部分は大きいと思われる。一方、信長が筒井順慶との関係強化の手段としてその嫡男に光成の娘を養女として嫁がせたとすれば、信長と順慶との関係はどのようなものであれ、秀子には光秀を実父としての意識が強く、明智家を実家として意識することが強かったのではないかと思われる。
当時は、養子縁組による親子関係は、現代のそれ以上に強い紐帯となっていたようであるが、秀子の本心は明智の娘というものではなかったかと考えるのである。

おそらく、信長には多くの子供がおり、光秀の子供を幼い頃から養育したとは考えにくく、おそらく織田家と筒井家の関係強化の必要性が強まった段階で、秀子を養女とすることが実現したものと考えられる。
秀子は、おそらく十四歳の頃に信長の養女となり、織田秀子として筒井家に嫁ぎ、その四年後の天正十年(1582)の六月、実父光秀が養父信長を誅殺するという事件が起きてしまったのである。

その時の秀子の心境がどのようなものであったのか。
あまりにも過酷な試練であるが、興味が尽きない。


     ☆   ☆   ☆

織田秀子の残されている消息は極めて少ない。その僅かな消息をたどり、その過酷な生涯を探ってみよう。

秀子は、織田信長の三女とされている。
信長には、養子養女も含めれば多くの子供がいる。そのうちの一応誕生順が記されている六人と結婚相手を挙げてみる。
 長女・・徳姫、松平信康(徳川家康長男)に嫁ぐ。
 次女・・冬姫、蒲生氏郷に嫁ぐ。
 三女・・秀子、筒井定次に嫁ぐ。
 四女・・永姫、前田利長に嫁ぐ。
 五女・・報恩院 、丹羽長重に嫁ぐ。
 六女・・三の丸殿、豊臣秀吉の側室となる。
この他にも、実の娘とされる人が五人以上、養女とされる人が四人以上記録が残されている。

名前あるいは法名などを挙げた六人のうち、三の丸殿を除く五人はいずれも信長にとって重要な武将の息子に嫁いでおり、この中の三女の秀子だけが養女だというのは少々不自然な気がする。
しかし、秀子の実父を光秀とする伝承や文献は古くからある。それに、長女から六女までの順番を信長が決めたとも思われないので、他に伝えられている実の娘や養女も、この六人と誕生を前後している可能性もある。

それはともかく、本稿では、秀子は明智光秀を父として誕生したと考える。
生年は、永禄八年(1565)の頃、後のガラシャ夫人の二歳年下と推定する。 
永禄八年といえば、室町第十三代将軍足利義輝が三好三人衆や松永久秀らによって討たれるという事件が起こり、その弟の足利義昭が跡を継ぐべく決起した年にあたる。従って、まだ光秀は足利義昭とは接しておらず、若狭の武田家あるいは越前の朝倉家に身を寄せている頃であったと思われる。そうだとすれば、誕生の頃は、お姫さまという環境ではなかったかもしれないが、幼時について残されている記録は全く見当たらない。

天正六年(1578)年の頃、秀子は織田信長の有力家臣である筒井順慶の養嫡子・定次と結婚する。信長の娘としての輿入れで、十四歳の頃ではなかったか。
光秀の娘として育ってきた秀子を、明智・筒井両武将の御殿である信長の娘として嫁がせることは、両家にとっても悪い話ではなく、主家の織田も加えた三家の絆を強くするのに効果的な婚姻であったと考えられる。

筒井氏は、大神神社の神官・大神氏の一族といわれるが、早くから大和国の添下郡筒井あたりの豪族として一定の勢力を有していたが、戦国期に入るとさらに勢力を伸ばし戦国大名としての地位を獲得していった。
秀子が結婚することになる定次(サダツグ)は、永禄五年(1562)に筒井順国の次男として誕生した。ほどなく本家筋にあたる筒井順慶に子供がいなかったことから養嫡子となる。
二人の結婚は天正六年(1578)の頃と考えられているが、定次が十七歳、秀子が十四歳の頃ということになる。
その後の秀子は、夫と共に義父となった順慶の庇護下にあったと思われる。

それから四年後、天正十年(1582)六月二日未明、本能寺の変が勃発した。
秀子の実父の明智光秀が養父の織田信長を討ったのである。
「洞ヶ峠を極めこむ」という言葉がある。日和見的な態度をとることを指すが、その語源は、明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いにおいて、筒井順慶が洞ヶ峠に陣をしいて去就を明らかにしなかったということからきている。
秀子の驚きは想像に余りあるが、義父であり戦国の世に名高い筒井順慶をもってしても、光秀に味方すべきか、信長の敵を討つという秀吉に味方すべきか、戸惑いがあったものと想像するのである。

山崎の戦いの後は、筒井順慶は秀吉に仕えることとなり、定次は人質として大坂城に赴いている。秀子はおそらく大和にあったと考えられる。
天正十二年には順慶が亡くなり、定次は家督を相続した。
定次は二十三歳にして大和筒井城主となった。当然、人質としての立場は解かれ、大和に戻り、秀子も城主夫人として家内の監督にあたったものと考えられる。
しかし、定次が自領に落ち着けることはほとんどなく、秀吉の天下掌握の戦いの先鋒として戦場を駆け巡った。定次は長刀を振りかざして先陣を切るような剛の者であったらしい。
多くの戦役に加わり、その時々に戦功を挙げたが、天正十三年(1585)に、大和から伊賀上野へと移封を命じられた。

この移封については、対立する考え方がされている。
大和へは、その後秀吉の弟の秀長が入っているので、大坂、京都に近い大和国を一族で固めたいというのが秀吉の狙いであっことは確かであるが、当時大和国は四十万石ともいわれ、新たに定次に与えられた伊賀上野は五万石ほどなので、減封左遷されたものと見ることが出来た。
一方で、筒井氏が支配していたのは大和国の半分ほどで、新たな領地には伊賀上野の他に伊勢・山城の一部も与えられていて、むしろ若干の加増であったともいわれる。また、伊賀上野は要衝の地であり、秀吉が定次に羽柴の姓を与えたりしていることを考えれば、左遷ではなかったらしい。
伊賀上野での街造りでは定次は非凡なところを見せたと伝わるが、その一方で、家臣間の争いをうまくさばけず、後に石田光成の重臣となる島左近が定次を見捨てて筒井家を去っている。この島左近は、「治部少(光成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われた名将である。
この頃に、他にも古くからの家臣が数人去っているので、定次には人望面で問題があったのかもしれない。

時代は豊臣から徳川に移り、関ヶ原の戦いでは、定次は東軍について徳川家康から所領を安堵された。
翌年の慶長六年(1601)には、秀子は嫡男順定を設けた。家中挙げての慶事であったことであろう。
ところが、慶長十三年(1608)、幕命により筒井家は突然改易となった。その理由としては、「たびたび大坂城に赴いていること。悪政、酒乱を責められた。キリシタンとの関わり」であったとされる。
身柄は鳥居忠政に預けられた。なお、この後、家康の配慮もあって、定次の従兄弟にあたる定慶に一万石が与えられたが、大坂夏の陣で大野治房軍に攻められ自刃、大名家としての筒井家は滅亡となる。

改易されていた筒井定次の家族の受難はさらに続いた。
慶長二十年(1615)三月、前年の大坂冬の陣で豊臣方に内通していたとの理由で、定次と十五歳の嫡男定慶が切腹を命じられたのである。
その理由は、大坂冬の陣において、大阪城中から放たれた矢の中に筒井家が使っていたものがあったというものであった。これは、改易された際に散逸した物が城中に入ったと考えられるし、定次に豊臣方に味方するほどの力などなかったはずである。
幕府は、何としても豊臣に極めて近いと見える筒井家を抹殺したかったかに見える。ちょうど、加藤清正や福島正則がそうであったように、筒井定次も徳川幕府にとって危険な存在であったのかもしれない。

実父も養父も非業の最期を遂げた秀子は、夫も、さらに息子までも無残な最期を見守ることになってしまったのである。
その時の様子も、その後のことも、消息を尋ねることはなかなかに難しい。
法名は日栄と伝えられているので、非業な最期を遂げた人々の菩提を弔う晩年であったと考えられる。
秀子は、寛永九年(1632)に世を去った。享年は、六十八歳ほどであったか。
夫と息子を亡くしてから十七年もの年月をどのように生きたのか、ただ、想像をめぐらすばかりである。

                                                ( 完 )


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 遠くて近きもの | トップ | 近うて遠きもの »

コメントを投稿

運命紀行」カテゴリの最新記事