『 奈良の都も 』
人ふるす 里をいとひて 来しかども
奈良の都も 憂き名なりけり
作者 二条
( 巻第十八 雑歌下 NO.986 )
ひとふるす さとをいとひて こしかども
ならのみやこも うきななりけり
* 歌意は、「 ある人から古い女だと見捨てられて 里(京都を指している)が嫌になって ここまで来ましたが 奈良の都も 古都と呼ばれていて 辛い名前でありました 」といったもので、失恋を匂わせる歌のようです。
この歌の前書き(詞書)には、「 初瀬にまうづる道に、奈良の京に宿れりける時よめる 」とありますので、旅の途上で、少々感傷的になっていたのかもしれません。
* 作者の二条は、平安時代前期の宮廷女房と推定されますが、その情報はほとんど伝えられていないようです。
そうした中で、貴重な情報である「源至の娘らしい」というものを信じることにして、源至の足跡を追うことにしました。
* 源至(ミナモトノイタル)は、平安時代前期の貴族です。嵯峨天皇の孫という血筋ですが、正確な生没年は伝えられていません。
至の父の源定(ミナモトノサダム・815 - 863 )は、嵯峨天皇の皇子で、生母は女御の百済王教俊の娘です。嵯峨天皇には、皇后や妃、女御、更衣、あるいは多くの宮人がおり、その正確な数はとても確認できませんが、数十人といっても大げさではないようです。皇子・皇女となるとその何倍かにもなりそうです。従って、定には誕生の段階で皇位継承の可能性はなく、828 年、源朝臣の姓を賜与されて臣籍降下しました。
嵯峨天皇の皇子・皇女たちのうち、17人の皇子、15人の皇女が源朝臣姓を賜っており、嵯峨源氏と呼ばれる一族は多くが高位に昇り、宮廷政治において藤原北家と並び立つ勢力を有し、二世源氏の頃まで続いたようです。
定も、正三位大納言まで昇っています。
* 作者である二条の父の至は、851 年に無位から従五位下に直叙されています。おそらく、十五歳から遅くとも二十歳までの頃だったのではないでしょうか。二世源氏として厚遇されての叙爵でした。
その後は、武官を中心とした地位にあったようですが、858 年に就いた右兵衞佐(次官)は、以後20年ほども務めています。途中で相模守を兼務したりしていますが、これは、実務面よりも収入面で配慮されたものではないでしょうか。
885 年に右京大夫、886 年に従四位上に叙されているのが消息の最後です。この右京大夫というのは、京の司法・行政・警察などを担った京職(左京職と右京職の二つがあった。)の長官で、公卿に昇ることは出来なかったものの重職を務め続けていたようです。
* さて、本稿の主人公である作者の二条ですが、すべて推定となってしまいます。
父の年齢も不明ですが、おそらく 860 年を挟んだ前後十年ぐらいの間に誕生したのではないでしょうか。そして、880 年前後には成年に達していたのではないでしょうか。
その推定をもとにすれば、まだまだ二世源氏の娘として、あるいは嵯峨天皇の曽孫として認知されていて、恵まれた環境に育ったのではないでしょうか。
もし、女房として出仕していたとすれば、宮中あるいは相当高官の邸と考えられ、掲題の歌から受けるような、鬱々とした生涯では決してなかったと推定したいと思うのです。
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