『 山路の菊の 』
濡れてほす 山路の菊の 露のまに
いつか千年を 我は経にけむ
作者 素性法師
( 巻第五 秋歌下 NO.273 )
ぬれてほす やまぢのきくの つゆのまに
いつかちとせを われはへにけむ
* この歌の前書き(詞書)には、「仙宮(センキュウ・仙人の住む家)に菊をわけて人のいたれる形(カタ・模型)をよめる」とあります。この歌は、この前書きをもとにしなければ作者の意図は伝わらないことになります。
それを考慮した上で、歌意は、「 山路の菊の間を行くうちに すっかり濡れてしまった衣を干す 束の間だと思っている間に いつの間にか千年の年月を 私はこの仙境で送ったのだろうか 」といったものでしょう。なお、仙境の一日は人間界の千年にあたる、といった考え方が加味されています。
この歌は、『秋歌』に編集されていますが、秋を詠んでいるというより、もっと技巧的なものを感じます。
* 作者の素性法師(ソセイホウシ)は、平安時代前期から中期にかけての僧侶・歌人です。
生没年は共に不詳ですが、850 年より前に誕生し、909 年より後に亡くなっていることは確認できます。
* 素性法師の父は、歌人として名高い僧正遍照(ヘンジョウ・ 816 - 890 )です。遍照は六歌仙の一人にも加えられている著名な歌人ですが、桓武天皇の皇孫にあたる人物ですから、素性法師も桓武天皇の曾孫に当たるということになります。
遍照は、俗世において従五位上蔵人頭に上っていますが、850 年に仁明天皇の崩御をうけて出家しています。
素性は、遍照が俗世にあった時の子供とされていますので、この情報によれば、誕生は 840 年代ぐらいではないかと推定できます。俗名は良岑玄利(ヨシミネノハルトシ)と伝えられていますから、元服の頃までは俗世にあったようで、清和天皇の御代に殿上人になったとの情報もありますが、父の意向で早くに出家したようです。
* 素性について、僧侶としての消息はそれほど多くなく、もっぱら歌人としての物が中心のようです。
出家後は、雲林院に住んだようですが、この雲林院というのは、仁明天皇の第七皇子常康親王が、父の崩御後に出家して、雲林院を御所としているのです。おそらく、血族的にも、仁明天皇の崩御により出家しているなど、常康親王と遍照は近しい関係にあったと考えられ、遍照・素性親子は雲林院には常に出入りしたようです。
そして、親王の死後は遍照が管理を任され、遍照の死後は素性が引き継いでいます。この間、和歌や漢詩の会が開かれるなど文芸の場を提供し続けていたようです。
* 896 年、素性は権律師の位を受けています。その後、大和の良因院に移り、その後は此処を住まいとしたようですが、多くの歌会に出たり、屏風歌を詠進するなど、宮廷や貴族らとの交流は多かったようです。
909 年 10 月に、醍醐天皇の前で屏風に歌を記したというのが最後の消息のようで、これから程なくして没したのではないかと推察されます。行年は七十歳前後だったのではないでしょうか。
* 素性法師は、この時代の歌人としては超一流の人物と考えられます。
古今和歌集に採録されている歌数を見ますと、紀貫之102首、凡河内躬恒60首などが突出していますが、いずれも本歌集の撰者であり、個人的には、これにより古今和歌集の選歌方法に不満を感じているのですが、撰者以外では素性法師の36首が最大なのです。
また、現代の私たちには、父の僧正遍照の方がメジャーに感じますが、勅撰和歌集に採択されている歌数を比べてみますと、遍照が「古今和歌集16首・勅撰和歌集全体35首」に対して、素性は「古今和歌集36首・勅撰和歌集全体61首」であり、素性法師が後の世でも高い評価を受けていたことが分ります。
* 遍照・素性親子は、ともに百人一首でもお馴染みなので、最後にその和歌を記しておきます。
僧正遍照
「 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめん 」
素性法師
「 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな 」
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