『 日経平均株価が史上最高値 』
本日の東京株式市場で
日経平均株価が 史上最高値に達した
1989年12月29日以来となれば
関係者の方々に限らず 感慨深い
失われた何十年 などという言葉を聞くが
株式市場も その象徴の一つであろう
今年の賃上げでは 自動車大手会社からは
景気のよいニュースが聞こえており 続く会社も多そうだ
年金も ほんの少し ほんの少しばかり増えそうだ
それらを当て込んで 隠れ増税といった
姑息な手段で 水をぶっかけるようなことだけは
しないで欲しい と願う・・・
☆☆☆
『 声ふりたてて 』
夏山に 恋しき人や いりにけむ
声ふりたてて なく郭公
作者 紀 秋岑
( 巻第三 夏歌 NO.158 )
なつやまに こひしきひとや いりにけむ
こえふりたてて なくほととぎす
* 歌意は、「 夏山に 恋しい人が 入ってしまったのだろう 後を追う事も出来ず ほととぎすが激しく鳴いている 」そのまま読み取れば、このような感じでしょう。
ただ、この歌をほととぎすを擬人化したものと取ることも出来ますが、むしろ、自分の思いをほととぎすに置き換えたというように思われます。
なお、「夏山に入る」は、夏安居(ゲアンゴ・仏教の修行の一つ。)を指しますので、少し違う意味を含んでいるのかもしれません。
* 作者の紀秋岑(キノアキミネ)は、平安時代初期の紀氏一族の一人です。
生没年は未詳ですが、父や兄弟の情報、寛平年間( 889 - 898 )に歌合に出詠しているとされていますので、840 年頃から 900 年頃までを生きた人物と推定されます。
官位は六位と伝えられていますが、官職などは不明です。秋岑の父は紀善峯( ? - 837 )は、従四位上美濃守になっており、祖父は参議にまで昇っている家柄です。異母兄や異母弟もかなりの足跡が伝えられていますが、秋岑の官職が全く伝えられていないのは不思議でなりません。
* 秋岑の義母兄の夏井は、善峯の三男ですが嫡男扱いの後継者であったようです。文徳天皇の御代では側近く仕え、清和天皇の御代になってからは地方官に転じていますが、従五位上まで昇り、讃岐守、肥後守の時には民に添った政策を行ったと伝えられています。ただ、惜しむらくは、後述する応天門の変に連座して土佐国に流罪となっています。
* 紀氏一族に大きな影響を与える事になった張本人は、異母弟の豊城(トヨキ)です。
豊城は、勝手気ままな振る舞いが多く、異母兄の夏井から厳しく責められる事に嫌気がさし、大納言伴善男のもとに身を寄せて従者となりました。
ところが、866 年に発生した応天門の炎上は、その犯人捜しが二転三転して伴善男が主犯として捕らえられ、豊城も首謀者の一人として逮捕され安房国に流罪となりました。義母兄の夏井も連座で官位を剥奪された上で流罪となったのです。
* 応天門の変と呼ばれるこの事件は、政権争いの絡んだ謎の多い事件のようです。
伴善男が首謀者となったことにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は、この事件により没落していきました。
そして、同時に、紀氏一族もこの事件により朝廷政治の中核からは遠ざけられ、宗教界や歌壇など、活躍の場が限られていったのです。
* この大事件の時に、作者の秋岑はどうしていたのでしょうか。
応天門の変の流罪者の中には名前が挙がっていませんが、全く連座の対象者ではなかったのでしょうか。
夏井や豊城は京に戻れる事はなかったようですが、秋岑は、応天門の変から二十年以上経った寛平年間に歌合で和歌を詠んでいるのです。つまり、健在だったということになります。
* 大事件の最中、秋岑はどうしていたのでしょうか。それからの二十年余りはどのような生活だったのでしょうか。歌会に参加した時はどのような立場だったのでしょうか。そして、その後の生き様はどのようなものだったのでしょうか・・・。
これらの疑問に答えてくれるような情報は見当たりません。もしかすると、秋岑の動静は後世に伝えるべきではないはずのものが、寛平年間の歌合では、つい漏れてしまったのでしょうか。
謎多いというほどではないとしても、秋岑の情報の少なさに疑問を感じてならないのです。
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