『 春分の日が過ぎて 』
当地は 朝から降ったり止んだりの天気
予想されたほどの強い雨ではなかったが
一日中 ステイホーム
春分の日が過ぎて 今日から昼の時間が長くなっているはずだが
お日さまの姿は まったく見えず
その分 庭の草花は 生き生きと色が増した感じ
それにしても 東京の昼の人出は かなり多かったとか
緊急事態宣言解除の 先取りということですか・・・
☆☆☆
昔見し 春は昔の 春ながら
わが身ひとつの あらずもあるかな
作者 清原深養父
( NO . 1450 巻第十六 雑歌上 )
むかしみし はるはむかしの はるながら
わがみひとつの あらずもあるかな
* 作者は、平安時代中期の歌人・貴族である。
* 歌意は、「 昔見た 春は昔のままの 春であるのに わが身だけは 昔のままではないのだなあ 」といったもので、自らの老いを嘆いたもののようだ。
* 作者 清原深養父(キヨハラノフカヤブ)は、枕草子の作者である清少納言の祖父とも曾祖父ともされる人物である。祖父・曾祖父の二説があるのは、伝えられている家系が二種類あり、なかなか決着されないためのようである。
つまり、「深養父 ー 春光 ー 元輔 ー清少納言」というものと、「深養父 ー 元輔 ー 清少納言」という二説である。
この二説が決着しないまま今日まで伝えられた原因の一つは、全く筆者個人の考え方であるが、深養父を「平安時代中期の歌人・貴族」と紹介してはいるが、宮廷に仕える官人ではあったが、最下級の貴族とされる従五位下に叙爵されたのは、深養父が七位相当の官職に就いてから二十二年後のことで、年齢は不詳であるが、かなり高齢であったと推定される。春光も従五位下・下総守に就いたという記録はあるが、それ以外の官職などははっきりしないようである。元輔の場合は生没年や官暦は相当詳しく伝えられているが、従五位下に叙されたのは六十二歳の時であるから、貴族でない期間の方が長い生涯であった。このあたりに、家系が混乱している理由があるように思うのである。
* 清原氏は、氏族としては清原真人ともいわれ、八世紀末から九世紀後半に掛けて臣籍降下した百人以上の皇族たちに下賜されたが、深養父の時代には、宮廷内での勢力は強いものではなかった。
深養父の生没年は不詳であるが、908 年に内匠寮少允(タクミリョウショウジョウ・七位相当官)に就いている。その後に残っている記録としては、923 年に内蔵寮大允に就いているが、これは正七位相当官であることを考えれば、その昇進ぶりがうかがえる。
そして、待望の従五位下に叙爵されたのが 930 年のことである。年齢は不詳であるが、少なくとも( 889 - 931 )の間は生存が確認できるという説もあることから推定すれば、四十歳は過ぎていたと思われる。
* とても貴族とはいえない身分であったが、教養人としては一流であったようだ。
琴の名手とも伝えられており、紀貫之らとの交流の記録がある。
ただ、生存中の評価に比べ、藤原公任による三十六歌仙に選ばれなかったことから歌人としての評価は落ちていたが、その後、藤原俊成らに再評価されて、中古三十六歌仙には選ばれている。
* そして何よりも、子や孫(孫や曾孫)から、元輔という大歌人、清少納言という才媛を誕生させたことは特筆すべきだと思う。
清少納言は、父の歌人としての偉大さゆえに、自分は下手な和歌は詠めないと言ったという逸話を残しているが、深養父・元輔・清少納言はそろって小倉百人一首に和歌を残している。
小倉百人一首の和歌の評価はともかく、三人そろって選ばれていることはなかなかの快挙といえよう。
最後に、深養父の小倉百人一首に選ばれている和歌を記させていただく。
『 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ 』
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