もろともに あはれといはずは 人知れぬ
問はず語りを われのみやせん
作者 大納言俊賢母
( No.1000 巻第十一 恋歌一 )
もろともに あはれといはずは ひとしれぬ
とはずがたりを われのみやせん
* 作者は、平安時代中期の貴族女性。( 934? - 962? )生没年を不詳とする資料もあるが、この推定に従えば、二十九歳で亡くなったことになる。
* 歌意は、「 お互いに 愛しいと言わないでいるのであれば 誰にもあかせない 切ない独り言を わたしだけがしているのでしょうか 」という恋歌であろう。
* この和歌の前書き(詞書)には、『返し』となっており、No.999には、西宮前左大臣の和歌が載っている。
『九条右大臣のむすめに、はじめて遣わしける』
「 年月は わが身に添へて 過ぎぬれど 思ふ心の ゆかずもあるかな 」
とあり、二人の最初の恋文といえる。
* この西宮前左大臣というのは、波乱の生涯を送った源高明(ミナモトノタカアキラ・(914-983))のことである。源高明は、醍醐天皇の第十皇子として誕生したが、七歳の時、源朝臣の姓が与えられて臣籍降下した。
皇族の身分を離れはしたが、十七歳の頃までは父は皇位にあり、有形無形の後援があったことは十分考えられる。さらに、当時の実力者である藤原師輔(九条右大臣)やその娘である村上天皇の中宮・安子 の信頼を受けて、公卿として異例といえるほどの昇進を重ねた。もちろん、出自や有力者の支援だけでなく、本人の資質も卓越していたようで、学問に勝れ朝儀にも明るく、朝廷で重きを成していった。
しかし、師輔や安子が世を去ると共に、傑出しつつあった高明に藤原氏は警戒を強め、遂に、962年の安和の変において罪を問われ、太宰権師に左遷された。実質的には流罪にあたる。
その罪が許されて帰京したのは、972年のことであるが、政界に復帰することはなく、隠棲生活となったが、封戸も与えられ、決して惨めな晩年ではなかったようである。
* 作者の「大納言俊賢母」は、九条右大臣・藤原師輔の三女として誕生した。村上天皇の中宮安子は同母の姉にあたる。同母の兄や姉妹は八人とされるが、異母の兄弟姉妹となれば、二十人に及ぶと考えられる。その中でも、「大納言俊賢の母」と同母の兄たちからは、平安王朝の絶頂期に君臨した公卿たちを輩出している。つまり、作者は、超一流の姫君として誕生し、一世源氏という出自の源高明と結ばれているのである。ただ、不思議なことは、師輔の多くの子供たちのうち男子はもちろん女子のほとんどの名前が伝えられているが、作者だけは「大納言俊賢母」とされていて、筆者の力では名前を知ることが出来なかった。
* 「大納言俊賢母」は、掲題の和歌の交換があってからどれほどの後のことなのであろうか、二人は結ばれている。高明は、「大納言俊賢母」より二十歳ほど年長であること、二人の間に三男一女を儲けていることなどから推定すれば、「大納言俊賢母」は、まだ十代であったように思われる。
作者の呼び名に使われている俊賢は、この二人の間の子の一人であるが、父の高明の失脚、藤原氏全盛の中での源氏でありながら、正二位権大納言まで昇っていく過程では、並々ならぬ苦難があったのではないかと察せられる。父譲りの学才に加え、時の執政者の藤原兼家、道隆、道長らと巧みに接したからとも伝えられている。一方で、その資質を評価しない記録もあるようだ。
俊賢については、その人物評価は分かれており、もっと深く学ぶ必要があるが、不利な環境を切り抜けていった一面を持っていることは確かであろう。
* さて、肝心の作者「大納言俊賢母」の生涯であるが、行年が二十九歳とすれば、余りに早い死去に哀れさを感じることは確かである。
しかし、時の政界の中心人物の家に生まれ、一世源氏の高明と結ばれるなど、平安王朝のもっと日の当たる場所にありながら、夫の没落、源氏の衰退のいう逆境の悲哀を感じたのではないかと思っていたが、実は、そうではなかったようなのである。
作者が亡くなったとき、俊賢は満年齢で二歳になるかならぬかという頃で、その悲しみは大きかったであろうが、それゆえに、その頃夫の高明は、大納言であり中宮大夫(中宮は安子)を兼務するなど絶頂期にあった。
夫の失脚に直面することもなく、俊賢の逆境も知ることなく、平安王朝のもっとも恵まれた環境の中での生涯だったと思われるのである。
☆ ☆ ☆