『 緊急事態宣言はしない 』
新型コロナウイルス感染症に関して
改正特措法が成立した
これにより 感染拡大がさらに深刻になった場合
緊急事態宣言が可能になった
今夕の 首相の記者会見では
今は緊急事態宣言をする状況ではない と発言された
すでに他国では 米国はじめ 多くの国で宣言が出されている
わが国は この種の問題に対して 政界の動きは遅すぎると思う
それが日本なのだということかもしれないが
緊急時に 思い切った対策を早期に実施することは
必要だと思うのだが・・・
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薄く濃き 野べの緑の 若草に
跡まで見ゆる 雪のむら消え
作者 宮内卿
( No.76 巻第一 春歌上 )
うすくこき のべのみどりの わかくさに
あとまでみゆる ゆきのむらぎえ
* 作者 宮内卿(クナイキョウ)は 後鳥羽院に仕えた女房。( ? - 1205頃か? )享年も不詳であるが、二十歳前であったらしい。
* 歌意は、「 ある所は薄くある所は濃くなっている 野べの若草に 薄い所は消えるのが遅く濃い所は早く消えたという跡までが見えている 雪のまだらな消え方よ 」といったもので、まだ雪の残る初春のよくある姿を、繊細にとらえたものであろう。
* 父は、右京権大夫源師光。官位は正五位下なので中級貴族の娘ということになるが、師光の父は大納言師頼で村上源氏という家柄の出自である。母は、後白河院に仕えた安芸で、祖父は画家という家柄で、宮内卿は幼い頃から宮中近くで育ったと考えられる。
* 宮内卿の幼い頃の消息は伝えられていないようであるが、記録上では、1200年11月の「新宮三首歌合」が歌壇デビューのようである。残念ながら、この時の年齢は伝えられていないが、おそらく十五歳位ではないかと推測される。
この後の丸四年ばかりの間に、後鳥羽院歌壇を中心に、記録が残されているものだけでも二十ほどもの歌合にその名前が残されている。
* 後鳥羽院には、その才能は高く評価されていたようで、1201年に後鳥羽院が主催した「千五百番歌合」において宮内卿が詠んだ表題の歌は高い評価を受け、それを後鳥羽院がたいそう喜んだと伝えられている。また、この和歌によって、「若草の宮内卿」の異名を取ったともいわれる。
また、後鳥羽院による「時代不同歌合」においては、和泉式部と組み合わせており、その評価と期待の大きさは尋常ではなかったようである。
いささか私見ではあるが、和泉式部といえば、平安王朝文化の絶頂期に活躍した才媛であるが、当時第一の女流歌人であり、わが国の歴史全体を通しても超一流の女流歌人と思われるのである。宮内卿を和泉式部と同列に評価するのは、いささか贔屓が過ぎるようにも思われるが、その期待の大きさが伝わってくる。
また、鴨長明はその書の中で、宮内卿について藤原俊成の娘と並び称されると評しているので、単に後鳥羽院が肩入れし過ぎていたわけではないことが分かる。
* 宮内卿は、和歌に取り組む態度は真摯すぎるほどのもので、それにより体調を崩すこともあり父から注意を受けていたとも伝えられている。
1204年11月に催された「春日大社歌合」を最後に、宮内卿の消息は途絶えている。
おそらく、こののち間もない頃に世を去ったのではないかと考えられる。まだ、二十年にも満たない生涯であったようだ。
宮内卿の和歌は、新古今和歌集には十五首が入撰している。勅撰和歌集全体では四十首を超えている。
しかし、研究者の方などを除けば、宮内卿の知名度は決して高くない。若くして散った才女の生涯をもっと知りたいと願うが、その資料はあまりに少ない。
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