雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

臨時休校スタート

2020-03-02 19:33:44 | 日々これ好日

        『 臨時休校スタート 』

     高中小学校の臨時休校 スタート
     若干の例外はあるも ほぼ全国的に実施されたようだ
     首相の急な要請であり 相当の混乱は予想され
     特に 一部の子育て層には かなりの負担を強いることになる
     ただ 今回のことは 是非はともかく
     「国会で討議して」などといった 
     悠長な事だけは避けなくてはならなかった事だ
     首相の心配が 杞憂であることを祈るが
     単に子供を護るということではなく
     わが国の社会の混乱を防ぐためと考え
     影響が大きい方々の 堪忍をお願いしたいし
     首相は大見えを切っただけの 手厚いバックアップを期待したい

                       ☆☆☆

                      

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見しも聞きしも

2020-03-02 08:27:49 | 新古今和歌集を楽しむ

     世の中は 見しも聞きしも はかなくて
               むなしき空の 煙なりけり

               作者  清輔朝臣

( NO.830  巻第八 哀傷歌 )
     よのなかは みしもききしも はかなくて
                むなしきそらの けぶりなりけり


* 作者は、平安時代末期の公家・歌人。( 1104 - 1179 )享年七十四歳。

* 歌意は、「 世の中は 見た人も 伝え聞いた人も みなはかないもので 虚空に立ち上る 煙なのですねぇ 」といったものであろうが、この和歌の前書き(詞書)には、「母の思ひに侍りけるころ、またなくなりにける人のあたりより問ひて侍りければ、遣はしける 」とあるので、少々複雑な状況下での作品ということになる。
つまり、「作者が母の喪に服していたところに、やはり近しい人を亡くした人が弔問に来たので、この和歌を詠んで贈った」というもので、互いの悲しみを悼み合ったという作品である。

* 作者 清輔朝臣(キヨスケノアソン)は藤原氏の六条家。 極官は正四位下太皇太后宮の大進。
父の顕輔は正三位左京大夫に就いており、公卿の身分であったが、清輔の昇進が遅れた理由には父と意見が合わなかったことがあるらしい。

* 父も歌人として知られており、崇徳天皇の命により勅撰集「詞花和歌集」を撰集したが、清輔もその補助に当たったがほとんど意見が取り入れられなかったらしい。父子の対立には、このあたりのことも原因になっていたのかもしれない。
そのためもあって、清輔の官位は四十代半ばまで従五位下のままと冷遇されていた。しかし、歌の才能は、そうした環境に潰されることなく台頭し、世間の評価を父も無視できなかったらしく、1155年に六条藤家の当主の座を譲っている。清輔が五十二歳の頃のことである。

* 1156年には従四位下に昇進し、1158年に即位した二条天皇に重用され、「続詞花和歌集」の選集に当たったが、奏覧前に二条天皇は崩御、勅撰和歌集としての誕生はならなかった。
その後も、太皇太后宮の大進(次官の次くらいか?)として、藤原多子(マサルコ)に仕え、その支援もあってか、六条藤家歌壇を確立させ、御子左家の藤原俊成と並び称せられるまでになった。
なお、藤原多子は、はじめ第七十六代近衛天皇の皇后となり、のちに第七十八代二条天皇の皇后となり、「二代の后」と呼ばれた女性である。

* 藤原清輔は、官職としては恵まれた人生でなかったかもしれないが、歌人として、また歌学者としては当代一流の地位を獲得している。不運にも、勅撰和歌集の撰集者になることは出来なかったが、新古今和歌集には12首が撰ばれており、勅撰和歌集全体では89首に及んでいる。平安時代末期における一流の歌人であったことは確かであろう。
最後に、小倉百人一首に入っている、1843番の和歌を挙げさせていただく。

 『 長らへば またこのごろや しのばれん 憂しと見し世ぞ 今は恋しき 』

     ☆   ☆   ☆

 

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