運命紀行
大輪の花
平安王朝における女性ナンバーワンは誰なのか。
これは、なかなか難しい課題である。政治面、文化面、あるいは容姿などのどの面に重点を置くかによって変わってこようが、伝えられるところの容姿や、知性・教養などを中心として、最も魅力的な女性を選ぶとすれば、どのような女性が上位に名を連ねるのであろうか。
文学という面から見れば、清少納言や紫式部が上位に位置するように思われるが、彼女たちが容姿端麗面で抜きんでていたという記録は、どうやら無いらしい。
個人的には、容姿端麗、文学面で優れ、華やかな話題性を兼ね備えた和泉式部がナンバーワンだと考えているのであるが、これは個人的な思い込みが強いことも認めざるを得ない。このようなことを考えること自体にどれほどの意味があるかはともかく、この時代の歴史や文学などに興味がある人なら、数人の候補者を挙げるのは簡単だと思われる。
さて、その中に、「馬内侍」という女性を加える人はどれほどいるのだろうか。
「馬内侍」は、当時一流の人たちに仕えた女房であり、一流の人物たちと数多くの浮名を流したとされる女性であり、和歌に関しても一流の足跡を残しているのだが、現代の私たちには、馴染みが薄い人物といえる。
梨壺の五歌仙と称せられる女房たちがいる。
これは、平安王朝絵巻の頂点ともいえる一条天皇の御代、藤原道長の娘である中宮彰子に仕えた女房たちのうち特に優れた五人を選んだものである。
一条天皇には、先に定子という美貌・教養共に特に優れた中宮がいて、そこには清少納言など多くの才媛が集められていた。道長は、政務の実権を握ると長女である彰子を入内させ、仕える女房たちには定子の女房に負けない才媛たちを数多く集めていったのである。
梨壺の五歌仙とは、その女房たちの中から選ばれた女房たちのことである。
さて、その五人とは、赤染衛門、和泉式部、紫式部、伊勢大輔、そして、馬内侍なのである。
いずれも当時一流の歌人であり、教養豊かな女房として、宮廷内に知れ渡った人物であり、馬内侍も、その中に加わって何の遜色もない女房だったはずであるが、なぜか、現代の私たちには正当な評価がなされていないように思われる。
今回は、この大輪の花ともいえる女房の生涯の一端を覗いてみる。
馬内侍(ウマノナイシ)の生没年は未詳である。
一部の説や、交際相手の年齢などから推定すれば、西暦950年頃の誕生で、没年は1011年頃と推定される。正しくはなくとも、そう大きな差異のない推定と考えられる。
名前の由来であるが、内侍というのは、天皇に近似する内侍司の女官の総称で、この時代の女房には「何々の内侍」という名前が多く登場する。内侍には、内侍司に仕えている女官のほかにも、斎宮寮や齋院司などにもいたが、大半は官職に就いていたと考えられる。「何々納言」とか「何々式部」と呼ばれる女房たちは、父親などの官職から付けられたものがほとんどで、官職ではなく、女院や中宮など身分の高い人物に私的に雇われていることになる。
ただ、「馬」というのはよく分からない。ウマ年生まれということも考えられるが、その場合は「午」の字が使われるはずである。命名には、個別な理由によるものが多いので、由来を求めるのに意味がなさそうである。
西暦950年は、第六十二代村上天皇の御代で、平安王朝が比較的落ち着いており、武士の台頭は今少し先で、公家政治が絶大な力を持っていた。
馬内侍は、文徳源氏の家柄に生まれた。父は、源時明であるが実父は時明の兄・致明(ムネアキ)といわれている。
第五十五代文徳天皇の皇子能有が源氏の姓を賜り臣籍降下したが、時明はその玄孫にあたる。暦とした天皇家の血筋であるが、すでに時明の時代には、皇室とは遠い存在で中流貴族の家柄ぐらいであったようだ。
馬内侍がこの時代の超一流の女房であったことを、いくつかの切り口から見てみよう。
まず、当人の家柄については上記したように、天皇直系からは遠くなっており、摂関家でもないことから、超一流というわけではない。
しかし、馬内侍は次々と出仕先を変えているが、いずれも一流人物ばかりなのである。
出仕したと伝えられている人物を列記してみると、
斎宮女御徽子女王(村上天皇女御) ・ 円融天皇中宮媓子(別名 堀川中宮) ・ 賀茂斎宮院選子内親王(村上天皇皇女) ・ 東三条院詮子(円融天皇女御・一条天皇生母) ・ 一条天皇皇后定子(清少納言も仕えていた) ・ 一条天皇中宮彰子(藤原道長娘。後一条・後朱雀天皇生母)
という人たちである。
また、定子に仕えていた頃、掌侍に昇進している。内侍司の三等官で暦とした役職に就いているのである。
因みに、内侍司は、四等官までの役職があり、一等官である長官を尚侍(ナイシノカミ/ショウジ)といい定員二名。二等官である次官を典侍(ナイシノスケ/テンジ)といい定員四名。三等官の判官を掌侍(ナイシノジョウ/ショウジ)といい定員四名。四等官は主典(サカン)というが、実際には設置されなかったらしい。
内侍司の女官は、天皇ばかりでなく皇后・中宮・女御など後宮の女性に仕える人も加えれば相当の数と思われ、さらに私的に抱える女房の数はそれ以上とも考えられる。
その中で、掌侍となれば、上位十人に入るわけであるから、馬内侍は女官としても相応の能力があったと考えられる。
☆ ☆ ☆
馬内侍が梨壺の五歌仙に加えられていることはすでに述べたが、中古三十六歌仙にも女房三十六歌仙にも加えられている。つまり、多くの場面で一流の歌人として認められているのである。
勅撰和歌集には三十八首採録されているが、そのほかにも「馬内侍集」などの歌集にも多くの和歌を残している。
そのうち「新古今和歌集」には八首採録されているので、見てみよう。
「斎宮女御のもとにて、先代の書かせ給へりける草子を見侍りて」
『 尋ねても跡はかくてもみづぐきの ゆくへも知らぬ昔なりけり 』
歌意は、「お探しして、先帝の御筆跡はこのように拝見いたしましたが、その御代の行方も分からない昔になってしまいました」
なお、先代とは村上天皇のこと。
この歌に対する「返し」として、女御徽子女王の和歌が載せられている。
『 いにしへのなきにながるる水茎の 跡こそ袖のうらに寄りけれ 』
歌意は、「昔の帝はいなくなったので、残されている御筆跡に泣いて流れる(亡くなって流れる)涙の跡は、御筆跡と共に私の袖の奥に残ることでしょう」
「五月五日、馬内侍に遣はしける」として、前大納言公任の歌が載せられている。
『 時鳥(ホトトギス)いつかと待ちしあやめ草 今日はいかなる音(ネ)にか鳴くべき 』
歌意は、「ほととぎすよ、いつ来てくれるのかと待っているうちに五月の節句となってしまった。待ちわびた今日は、どのような声で鳴いてくれるのだろう」
これに対する「返し」の馬内侍の歌は、
『 五月雨は空おぼれする郭公(ホトトギス) 時に鳴く音は人もとがめず 』
歌意は、「五月雨の季節には、そらとぼけて鳴くほととぎすですから、どうかすると、その鳴く声を誰も気にしてくださらないのですよ」
「兵衛佐(ヒョウエノスケ・兵衛府の次官)に侍りける時、五月ばかりに、よそながらもの申し初めて、遣はしける」 法成寺入道前摂政太政大臣(藤原道長)
『 ほととぎす声をば聞けど花の枝(エ)に まだふみなれぬものをこそ思へ 』
歌意は、「ほととぎすのように、あなたの声は聞きましたが、ほととぎすが花の枝にまだとまり慣れていないように、わたしもまた手紙を差し上げるのに慣れていませんので、一人思い悩んでいます」
これに対する馬内侍の「返し」の歌は、
『 郭公忍ぶるものを柏木の もりても声の聞えけるかな 』
歌意は、「忍び音で鳴くほととぎすのように、密やかな声で話しておりましたのに、ほととぎすの声が柏木の森から漏れて聞こえるように、私の声が聞こえてしまったのでしょうか」
なお、柏木は、皇居守衛の兵衛・衛門の異称である。
「『時鳥の鳴きつるは聞きつや』と申しける人に 馬内侍
『 心のみ空(ソラ)になりつつ時鳥 人頼めなる音(ネ)こそ泣かるれ 』
歌意は、「わたしの心は、うわの空になり続けていて、お尋ねになったほととぎすのように、頼みがいのないあなたが恨めしくて、声を出して泣いてしまいました」
「人にもの言ひはじめて」 馬内侍
『 忘れても人に語るなうたた寝の 夢見てのちも長からじ世を 』
歌意は、「わたしのことを忘れてしまっても、決して人には話さないでください。うたた寝のような儚い一夜を過ごした後も、長くはないと思われる命なのですから」
「左大将朝光(アサテル)、久しうおとづれ侍(ハベ)らで、旅なる所に来あひて、枕のなければ、草を結びてしたるに」 馬内侍
『 逢ふことはこれや限りの旅ならん 草の枕も霜枯れにけり 』
歌意は、「あなたと逢うことは、これが最後となる旅なのでしょうか。草の枕も、それを予言するように、霜枯れてしまっています」
「男の久しくおとづれざりけるが、『忘れてや』と申し侍りければよめる」 馬内侍
『 つらからば恋しきことは忘れなで 添へてはなどかしづ心なき 』
歌意は、「もしあなたが薄情であるのなら、わたしがこのように、恋しいことを忘れることなく、それどころか落ち着いた心でさえいられないのはなぜなのでしょうか」
「昔見ける人、『賀茂祭りの次第司(シダイシ・道の往来や行列などを取り仕切る役)に出で立ちてなんまかりわたる』と言ひて侍りけれは」 馬内侍
『 君しまれ道の往き来を定むらん 過ぎにし人をかつ忘れつつ 』
歌意は、「何とまあ、あなたが道の往き来を取り締まっているのですか。めぐり逢った人を片っ端から忘れてしまうあなたが・・」
以上が「新古今和歌集」にある馬内侍の歌であるが、最初の一首を除き残りは「恋歌」として載せられている。馬内侍の面目躍如と言える。
このうちの、藤原道長との贈答歌は、その職掌から道長二十歳の頃と判断できる。馬内侍の年齢は不詳であるが、おそらく三十五歳前後であったと考えられる。
当時の貴族層の姫の結婚適齢期は、十五歳前後と推定されるので、三十五歳というのは全盛を過ぎつつある頃と考えられるが、時代を背負って立つことになる若き藤原道長を惹きつけてやまない容色を保っていたことが窺えると思うのである。
真偽のほどはともかく、馬内侍との恋の噂が伝えられている人物は多く、しかもその身分の高さに驚く。
名前と最高位を列挙してみよう。
藤原朝光、大納言。
藤原伊尹(コレタダ/コレマサ)、摂政・太政大臣。
藤原道隆、摂政・関白・内大臣。
藤原通兼、関白・右大臣。
藤原実方、左近中将・陸奥守。
藤原道長、摂政・関白・太政大臣。
藤原公任(キントウ)、和歌の大家。大納言。
と、いった具合である。
さらに加えるならば、これはいささか江戸時代の春本を見るようではあるが、第六十五代花山天皇が即位の時、高御座(タカミクラ)の帳を掲げる役についていた馬内侍を、高御座の内に引き込んで事に至ったというのである。
何とも信じがたくきわどい話ではあるが、当時の文献の中から「天皇高御座の内に引き入れしめ給ひて忽ち以って配偶す」という一文を見つけ出すのは簡単にできるのである。
花山天皇の即位は、永観二年(984)のことで、天皇十七歳。馬内侍はすでに三十五歳前後になっていて、上記の道長との贈答歌の時と二年ほどの差なので、いかに馬内侍と言えども忙しすぎる感じはする。
伝承にも、馬内侍は二人いたとして、花山天皇の行動は否定していないが、本稿主人公の馬内侍とは別人としているものもある。
馬内侍は、女房生活の後半、一条天皇の中宮(後に皇后)定子に仕えていて掌侍に昇進したことはすでに述べた。その時期は分からないが、定子を敬愛してやまない枕草子の著者清少納言と一緒であった時期があったと考えられる。
定子は、父の死と道長の台頭により、次第に道長の娘である彰子にその座を奪われ、二十五歳の若さで世を去っている。長保二年(1000)のことである。
その後、馬内侍は彰子に仕え梨壺の五歌仙と称される存在にいたっている。
激しいライバル関係にあった定子から彰子に出仕を変えたのが何時のことなのか興味深いが未詳である。
定子没後のことなのか、それ以前に権力の潮目を見て移ったのであれば残念な気もするが、若き道長があこがれた馬内侍を、今度はわが娘のためにと懸命に口説いた可能性も極めて高いような気もする。
馬内侍は、ほどなく宮中を去っている。
「この世をば我が世とぞ思ふ・・」とまで歌われた道長の絶頂期の頃である。
その後は出家して宇治院に住んだと伝えられている。
没年は不詳であるが、寛弘八年(1011)の頃とも伝えられている。享年は、六十余歳と思われる。
平安王朝の絶世期の大輪の花・馬内侍の生涯を伝えられることが余りにも少ないのが、重ね重ねも残念である。
最後に、馬内侍歌集から一首挙げておきたい。
『 飛ぶ蛍まことの恋にあらねども 光ゆゆしき夕闇の空 』
( 完 )