運命紀行
見守り続けて
応仁の乱の勃発をもって戦国時代の幕開けという考え方は、ほぼ定着しているように思われる。
応仁元年(1467)に勃発した大乱は、この後十一年も続くことになるが、当然のことながら、その前兆ともいえる動きはもっと前からあった。
足利将軍家の後継問題に加え、管領家の畠山氏・斯波氏の家督争いが激しさを増し、公卿や有力守護たちが複雑に絡み合い、それがついに応仁元年に爆発してしまったということなのである。
この応仁元年六月、後花園上皇が戦乱の勃発の責任を感じて出家を決意されたという記録がある。
応仁の乱といえば、管領家の家督争いを主因とし、そこに足利将軍家の後継問題も絡んでいたと考えてしまうことが多いが、実は、その争いの責任を天皇家が重く受け取っていたということも事実なのである。
時の天皇は、三年前に践祚を受けた後土御門天皇でこの時二十六歳であった。年齢からすれば立派な青年天皇ではあるが、この時代は父であり上皇である後花園院こそが天皇家の最高権力者だったのである。
この頃、天皇家は、南北朝以来の激しい後継争いがようやく収束していた。その苦心の時代を三十六年もの間天皇位にあり、ようやくわが子・後土御門に皇位を譲ることが出来た安心感も束の間で、京都の大半を灰燼に帰す大乱発生となってしまったのである。
後花園天皇は、第百二代の天皇であるが、神武天皇までも遡らないとしても、例えば、第二十六代の継体天皇以後の継承を見れば、何の問題もない継承の方がむしろ少ないように見える。しかしながら、第九十六代の後醍醐天皇から後花園天皇に至る継承を見れば、天皇家にとって難しい時代であったことが窺われる。
後醍醐天皇の即位は、西暦1318年であり、後花園天皇の即位(践祚)は西暦1428年である。この百十年の間に、両天皇を除いて、南北朝合わせて十人の天皇が即位されているのである。
皇位交代については、さらに短い期間で交替がなされた時代もあるが、この期間は、朝廷が南北に分かれるという特異な期間であった。
南北朝が合一することによって北朝と呼ばれる京都朝廷が存続することになるが、その京都朝廷にとっては、この期間の皇位継承はまことに厳しい状況が続いていたのである。
大まかに言えば、南朝と北朝とが対立していた時代全体を見れば、軍事力を中心に圧倒的に北朝が優位にあったといえる。しかし、その優位性の裏付けは、足利将軍家の力に支えられていたからである。南朝に対しては有利にあったとしても、足利政権の圧迫を受けながら皇統を守り続けていたのである。
そう考えた時、幼くして天皇となり三十六年間に渡り皇位を守り続けた後花園天皇の存在は極めて大きな意味を持ってくる。
そして、持明院統の正統の血を引く王族とはいえ、本来皇位とは遠い存在と思われていた彦仁王(後花園)を守り育てた生母、源幸子の存在も、歴史上極めて大きな意味を持っていると思われるのである。
* * *
源幸子(ミナモトノユキコ)は、明徳三年(1390)四月に誕生した。南北朝が百余年にわたる抗争に終止符を打つ二年ばかり前のことである。初名は経子で、幸子と名乗るのはずっと後年のことであるが、本稿では幸子で通す。また、源は本姓で通常は庭田氏を名乗っていた。
父は庭田経有。庭田氏は宇多源氏の流れを引く堂上源氏で、家格は大臣家に次ぐ羽林家である。母も同じく羽林家の家格である飛鳥井氏の娘で、幸子は上流貴族の姫として育った。
やがて、伏見宮貞成親王のもとに出仕するが、その時期はよく分からない。
女房名は二条局といったが、これもいつの頃からか分からないが貞成親王の寵愛を受けるようになり、最初の姫が二十七歳の時に生まれている。そして、三十歳の時に後の後花園天皇となる彦仁王を生んでいる。この他にも一男四女を儲けており、全部で二男五女に恵まれている。
幸子は貞成親王の正妻ではなかったようであるが、貞成には正妻の記録がなく、実質的には正妻の立場にあったと思われる。
ここまでの経過を見れば、幸子は親王家の恵まれた麗夫人として生きたかに見えるが、現実はかなり違う。その最大の理由は、夫である貞成親王の生涯が波乱に満ち過ぎていたからである。
貞成親王は、応安五年(1372)、伏見宮栄仁親王の次男として誕生した。幸子より十八歳年上ということになる。栄仁親王は北朝第三代崇光天皇の皇子であり、今上天皇(北朝の)と極めて近い関係にありながら何故か貞成は、親王宣下どころか、親王家の御子としても扱われなかったようなのである。
幼くして今出川家で育てられ、共に左大臣に昇る今出川公直・公行親子が養親になっている。
貞成が父の栄仁親王に迎え入れられたのは、応永十八年(1411)のことで、すでに四十歳になっていた。この時、伏見御所で元服し、貞成と名乗るのもこれ以降のことである。
晴れて伏見宮の一員になった貞成王だが、五年後の応永二十三年(1416)に父・栄仁親王が死去、跡を継いだ兄の治仁王も翌年死去するという不幸が続いた。
ここに、つい数年前までは想像さえしていなかった伏見宮三代当主に就いたのである。しかし、治仁王の死があまりに急であったため毒殺の噂が流れ、貞成王は辛い立場に置かれたようである。この嫌疑は、時の治天の君後小松上皇と第四代将軍足利義持から安堵を受けることで晴らすことが出来たのである。
この慌ただしい期間を、幸子は夫を支え、次々誕生した子供たちの養育に励み、皇族や将軍家や公卿家との親交に務めたことと思われるが、その消息を伝える物は極めて少ない。しかし、貞成王や嫡男の彦仁王に対して、後小松上皇や足利将軍家が好意的であったと窺われるのは、北朝の正統という家柄もさることながら、幸子の内助の功も働いていたと想像できるのである。
その一方で、北朝の正統の家柄ということは、当人の意向に関わらず、天皇やその側近たちからは危険視されることも多かったようである。
応永二十五年、貞成王が伏見宮三代当主として落ち着きを見せかけた頃、事件が発生している。称光天皇に仕える女房が懐妊したが、貞成王との密通が疑われるという騒動が発生したのである。この時も足利将軍義持が中に入り、貞成王が起請文を差し出すことで決着を図っている。
さらに、称光天皇が一時危篤状態になった時、次期天皇の有力候補と目され、応永三十二年(1425)四月に親王宣下を受けている。これにより五十四歳にして貞成親王誕生となったが、ほどなく天皇は病状が回復、この経緯を知った称光天皇が激怒したため、三か月後には出家に追い込まれたのである。
正長元年(1428)七月、再び称光天皇が重体に陥ると、第六代将軍足利義政は、貞成親王の嫡男彦仁王を支持して、後小松上皇に新帝の指名を強く求めたのである。
南北朝が合体して三十六年が経っていたが、未だ南朝方の残党が不穏な動きを続けていて、後南朝と呼ばれることになる反抗勢力は、この後も三十年ばかりも続くのである。
足利将軍家としては、後小松天皇の直系が途絶えるとなると、空白期間を作ることなく北朝正統の天皇を即位させる必要があり、彦仁王以外に選択肢はなかったのである。
父の波乱をそのまま体験していたわけではないが、激しい運命に求められるままに、まだ十歳の彦仁王は後花園天皇として践祚されたのである。。即位は翌永享元年(1429)であるが、この後三十六年間にわたって皇位にあり、天皇の地位の安定を取り戻したのである。
後小松上皇存命の最初の五年程は上皇が実権を握っていたと思われるが、上皇の薨去時でもまだ十五歳であり、政治的にはともかく、精神的には父・貞成親王や母・源幸子の存在を大きな支えにしたことは当然のことと考えられる。
幸子は、後花園天皇が践祚を受けてから二十年後の文安五年(1448)に五十九歳で没した。夫の貞成親王の死去はさらに八年後のことである。
幸子が没した時には、後花園天皇は三十歳に達していて、堂々たる天皇に成長していたことであろう。時代は応仁の乱に向かう激しい時代であり、後南朝という朝廷に真っ向から抵抗を示す勢力も存在していた。そしてその後は、百年以上も続くことになる戦国時代が待っていたのである。
この激しい時代の中、後花園天皇は三十六年間皇位にあり、譲位を受けた第一皇子である後土御門天皇も同じく三十六年間皇位を守っている。
幸子が育てた子供たちは、長男彦仁は後花園天皇となって皇位を守り、次男貞常は伏見宮を継ぎ世襲親王家として後世まで皇室を守り続けているのである。五人の姫たちもそれぞれ有力寺院に入っている。
なお、世襲親王家とは、江戸時代において、当今天皇との血統の遠近に関わらず代々親王家の宣下を受ける四家を指している。その四家は、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮であるが、伏見宮が最も旧い。
源幸子は、嫡男が後花園天皇となった後には官位を授かり、准三后の宣下を受けている。死の直前には敷政(フセイ)門院という院号宣下まで受けている。
しかし、おそらく幸子は、幼帝後花園を母親として懸命に支えただけで、敷政門院という名前ほどに政治に関わったつもりなどなかったと考えられる。ひたすらに、ただひたすらに子供たちを守り続けただけという気持ちだったのではないだろうか。
しかし、その結果として、戦国の世を迎える難しい時代の皇室を守った女性として、今少し注目されるべきだと思うのである。
( 完 )
見守り続けて
応仁の乱の勃発をもって戦国時代の幕開けという考え方は、ほぼ定着しているように思われる。
応仁元年(1467)に勃発した大乱は、この後十一年も続くことになるが、当然のことながら、その前兆ともいえる動きはもっと前からあった。
足利将軍家の後継問題に加え、管領家の畠山氏・斯波氏の家督争いが激しさを増し、公卿や有力守護たちが複雑に絡み合い、それがついに応仁元年に爆発してしまったということなのである。
この応仁元年六月、後花園上皇が戦乱の勃発の責任を感じて出家を決意されたという記録がある。
応仁の乱といえば、管領家の家督争いを主因とし、そこに足利将軍家の後継問題も絡んでいたと考えてしまうことが多いが、実は、その争いの責任を天皇家が重く受け取っていたということも事実なのである。
時の天皇は、三年前に践祚を受けた後土御門天皇でこの時二十六歳であった。年齢からすれば立派な青年天皇ではあるが、この時代は父であり上皇である後花園院こそが天皇家の最高権力者だったのである。
この頃、天皇家は、南北朝以来の激しい後継争いがようやく収束していた。その苦心の時代を三十六年もの間天皇位にあり、ようやくわが子・後土御門に皇位を譲ることが出来た安心感も束の間で、京都の大半を灰燼に帰す大乱発生となってしまったのである。
後花園天皇は、第百二代の天皇であるが、神武天皇までも遡らないとしても、例えば、第二十六代の継体天皇以後の継承を見れば、何の問題もない継承の方がむしろ少ないように見える。しかしながら、第九十六代の後醍醐天皇から後花園天皇に至る継承を見れば、天皇家にとって難しい時代であったことが窺われる。
後醍醐天皇の即位は、西暦1318年であり、後花園天皇の即位(践祚)は西暦1428年である。この百十年の間に、両天皇を除いて、南北朝合わせて十人の天皇が即位されているのである。
皇位交代については、さらに短い期間で交替がなされた時代もあるが、この期間は、朝廷が南北に分かれるという特異な期間であった。
南北朝が合一することによって北朝と呼ばれる京都朝廷が存続することになるが、その京都朝廷にとっては、この期間の皇位継承はまことに厳しい状況が続いていたのである。
大まかに言えば、南朝と北朝とが対立していた時代全体を見れば、軍事力を中心に圧倒的に北朝が優位にあったといえる。しかし、その優位性の裏付けは、足利将軍家の力に支えられていたからである。南朝に対しては有利にあったとしても、足利政権の圧迫を受けながら皇統を守り続けていたのである。
そう考えた時、幼くして天皇となり三十六年間に渡り皇位を守り続けた後花園天皇の存在は極めて大きな意味を持ってくる。
そして、持明院統の正統の血を引く王族とはいえ、本来皇位とは遠い存在と思われていた彦仁王(後花園)を守り育てた生母、源幸子の存在も、歴史上極めて大きな意味を持っていると思われるのである。
* * *
源幸子(ミナモトノユキコ)は、明徳三年(1390)四月に誕生した。南北朝が百余年にわたる抗争に終止符を打つ二年ばかり前のことである。初名は経子で、幸子と名乗るのはずっと後年のことであるが、本稿では幸子で通す。また、源は本姓で通常は庭田氏を名乗っていた。
父は庭田経有。庭田氏は宇多源氏の流れを引く堂上源氏で、家格は大臣家に次ぐ羽林家である。母も同じく羽林家の家格である飛鳥井氏の娘で、幸子は上流貴族の姫として育った。
やがて、伏見宮貞成親王のもとに出仕するが、その時期はよく分からない。
女房名は二条局といったが、これもいつの頃からか分からないが貞成親王の寵愛を受けるようになり、最初の姫が二十七歳の時に生まれている。そして、三十歳の時に後の後花園天皇となる彦仁王を生んでいる。この他にも一男四女を儲けており、全部で二男五女に恵まれている。
幸子は貞成親王の正妻ではなかったようであるが、貞成には正妻の記録がなく、実質的には正妻の立場にあったと思われる。
ここまでの経過を見れば、幸子は親王家の恵まれた麗夫人として生きたかに見えるが、現実はかなり違う。その最大の理由は、夫である貞成親王の生涯が波乱に満ち過ぎていたからである。
貞成親王は、応安五年(1372)、伏見宮栄仁親王の次男として誕生した。幸子より十八歳年上ということになる。栄仁親王は北朝第三代崇光天皇の皇子であり、今上天皇(北朝の)と極めて近い関係にありながら何故か貞成は、親王宣下どころか、親王家の御子としても扱われなかったようなのである。
幼くして今出川家で育てられ、共に左大臣に昇る今出川公直・公行親子が養親になっている。
貞成が父の栄仁親王に迎え入れられたのは、応永十八年(1411)のことで、すでに四十歳になっていた。この時、伏見御所で元服し、貞成と名乗るのもこれ以降のことである。
晴れて伏見宮の一員になった貞成王だが、五年後の応永二十三年(1416)に父・栄仁親王が死去、跡を継いだ兄の治仁王も翌年死去するという不幸が続いた。
ここに、つい数年前までは想像さえしていなかった伏見宮三代当主に就いたのである。しかし、治仁王の死があまりに急であったため毒殺の噂が流れ、貞成王は辛い立場に置かれたようである。この嫌疑は、時の治天の君後小松上皇と第四代将軍足利義持から安堵を受けることで晴らすことが出来たのである。
この慌ただしい期間を、幸子は夫を支え、次々誕生した子供たちの養育に励み、皇族や将軍家や公卿家との親交に務めたことと思われるが、その消息を伝える物は極めて少ない。しかし、貞成王や嫡男の彦仁王に対して、後小松上皇や足利将軍家が好意的であったと窺われるのは、北朝の正統という家柄もさることながら、幸子の内助の功も働いていたと想像できるのである。
その一方で、北朝の正統の家柄ということは、当人の意向に関わらず、天皇やその側近たちからは危険視されることも多かったようである。
応永二十五年、貞成王が伏見宮三代当主として落ち着きを見せかけた頃、事件が発生している。称光天皇に仕える女房が懐妊したが、貞成王との密通が疑われるという騒動が発生したのである。この時も足利将軍義持が中に入り、貞成王が起請文を差し出すことで決着を図っている。
さらに、称光天皇が一時危篤状態になった時、次期天皇の有力候補と目され、応永三十二年(1425)四月に親王宣下を受けている。これにより五十四歳にして貞成親王誕生となったが、ほどなく天皇は病状が回復、この経緯を知った称光天皇が激怒したため、三か月後には出家に追い込まれたのである。
正長元年(1428)七月、再び称光天皇が重体に陥ると、第六代将軍足利義政は、貞成親王の嫡男彦仁王を支持して、後小松上皇に新帝の指名を強く求めたのである。
南北朝が合体して三十六年が経っていたが、未だ南朝方の残党が不穏な動きを続けていて、後南朝と呼ばれることになる反抗勢力は、この後も三十年ばかりも続くのである。
足利将軍家としては、後小松天皇の直系が途絶えるとなると、空白期間を作ることなく北朝正統の天皇を即位させる必要があり、彦仁王以外に選択肢はなかったのである。
父の波乱をそのまま体験していたわけではないが、激しい運命に求められるままに、まだ十歳の彦仁王は後花園天皇として践祚されたのである。。即位は翌永享元年(1429)であるが、この後三十六年間にわたって皇位にあり、天皇の地位の安定を取り戻したのである。
後小松上皇存命の最初の五年程は上皇が実権を握っていたと思われるが、上皇の薨去時でもまだ十五歳であり、政治的にはともかく、精神的には父・貞成親王や母・源幸子の存在を大きな支えにしたことは当然のことと考えられる。
幸子は、後花園天皇が践祚を受けてから二十年後の文安五年(1448)に五十九歳で没した。夫の貞成親王の死去はさらに八年後のことである。
幸子が没した時には、後花園天皇は三十歳に達していて、堂々たる天皇に成長していたことであろう。時代は応仁の乱に向かう激しい時代であり、後南朝という朝廷に真っ向から抵抗を示す勢力も存在していた。そしてその後は、百年以上も続くことになる戦国時代が待っていたのである。
この激しい時代の中、後花園天皇は三十六年間皇位にあり、譲位を受けた第一皇子である後土御門天皇も同じく三十六年間皇位を守っている。
幸子が育てた子供たちは、長男彦仁は後花園天皇となって皇位を守り、次男貞常は伏見宮を継ぎ世襲親王家として後世まで皇室を守り続けているのである。五人の姫たちもそれぞれ有力寺院に入っている。
なお、世襲親王家とは、江戸時代において、当今天皇との血統の遠近に関わらず代々親王家の宣下を受ける四家を指している。その四家は、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮であるが、伏見宮が最も旧い。
源幸子は、嫡男が後花園天皇となった後には官位を授かり、准三后の宣下を受けている。死の直前には敷政(フセイ)門院という院号宣下まで受けている。
しかし、おそらく幸子は、幼帝後花園を母親として懸命に支えただけで、敷政門院という名前ほどに政治に関わったつもりなどなかったと考えられる。ひたすらに、ただひたすらに子供たちを守り続けただけという気持ちだったのではないだろうか。
しかし、その結果として、戦国の世を迎える難しい時代の皇室を守った女性として、今少し注目されるべきだと思うのである。
( 完 )