雅工房 作品集

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運命紀行  百年の栄華を支える

2013-09-29 08:00:37 | 運命紀行
          運命紀行
               百年の栄華を支える


わが国の戦国時代を考える時、北条早雲という人物の存在を無視することは出来ない。
戦国時代をどの期間とするかについては、これまでにも何度も述べてきたが、その期間を応仁の乱勃発(西暦1467)から大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡する(西暦1615)までの期間だとすれば、およそ百四十八年間ということになる。
この激動の百四十八年間のうち、北条早雲が興した後北条は五代九十七年間にわたって繁栄を続けたのである。

私たちには北条早雲という名前でよく知られているが、伊勢新九郎盛時というのが本名である。
伊勢氏は、武家平氏である桓武平氏伊勢流の名門で、室町幕府の御家人として活躍した伊勢氏の一族にあたる。
伊勢盛時が駿河国に入ったのは、文明八年(1476)に今川義忠が戦死したことから起こった今川氏の内紛に甥の今川氏親を支援するためであった。
応仁の乱も終息に近い頃で、京都の町はすでに大半が荒廃していて厭戦気分が強くなっていたが、地方各地ではなお戦闘が続けられていた。

室町幕府で強い権力を有していた一族の伊勢貞親は、応仁の乱に先立つ文正の政変により山名宗全らによって京都から追放されているので、盛時も少なからぬ影響を受けていると思われる。
盛時が駿河国の今川氏のもとに入った時は、一介の素浪人であったという物語もあるが、伊勢氏は歴とした家柄であり一介の素浪人というのは当たらないが、幕府の力を背景に今川氏の内紛を仲介しようとしたというのも正しくないようである。当時、盛時にはそれほどの権威も幕府の後ろ盾もなかったと思われるからである。

いずれにしても、盛時は甥の氏親を支援し、今川の九代当主に就かせることに成功している。氏親の母・北川殿は盛時の姉であり、桶狭間の戦いで敗れる今川義元は氏親の子である。
氏親が当主になると、北川殿という存在もあって、盛時は今川家中で存在感を高めていった。
そして、明応二年(1493)、盛時は、幕府の管領細川政元らによる足利義澄の将軍擁立に連動する形で、伊豆国に軍を進めた。堀越公方の子・足利茶々丸を義澄の母と弟の敵として討つという大義名分のもとに滅ぼし、戦国大名としての第一歩を踏み出す。
「北条早雲による伊豆討ち入り」と呼ばれる戦国時代における大きな出来事の一つである。

その後も積極的に伊豆国内を攻略して所領を固めていった。
明応四年(1495)には、大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、やがて、三浦半島の新井城で三浦義同討ち亡ぼして相模国全土も手中にする。
伊勢盛時、すなわち北条早雲は自ら北条を名乗ることはなかった。
北条氏を名乗るようになるのは、早雲から家督を継承した二代氏綱であるが、一般的には早雲を北条氏の初代としている。
氏綱が北条氏を名乗るについては、鎌倉幕府の執権北条氏を意識したものであるが、それは、その圧倒的な著名度へのあこがれもあるが、京都政権と距離を置いて関東の独立性を保とうとした意思もあったと考えられる。
また、その北条氏と区別することから、「後北条氏」あるいは「小田原北条氏」と呼ばれることもある。

この後、「後北条氏」は豊臣秀吉に敗れるまで五代に渡り繁栄を続けるが、そこには際立って優れていた治世が行われていたようである。
かつては風雲児と評されることの多かった北条早雲であるが、実は極めて優れた君主であり政治家であったから成し得た偉業なのであるが、それを五代の後まで継承させていく過程には、それを支えたと思われる一人の人物が浮かび上がってくるのである。
それが、早雲の弟の一人である北条幻庵宗哲なのである。


     * * *

北条宗哲は、伊勢新九郎盛時のちの北条早雲の三男(四男とも)として生まれた。母は側室と思われる善修寺殿である。幼名は菊寿丸といった。
生年は、明応二年(1493)とされているが、文亀元年(1501)説もあるようで、早雲が最も慌ただしい頃のことで、側室の子供の記録は正確でない可能性もある。
幼少のうちに箱根権現社に入り、その後継者と目されていた。大永二年(1522)から近江国三井寺上光院に移り、大永四年に同院で出家している。
このあたりの経緯をみると、文亀元年誕生の方が自然な感じもする。
この後、程なく帰国して、箱根権現社別当に就任した。

出家後は、長綱(チョウコウ)と幻庵宗哲(ゲンアンソウテツ)の二つの法名を称しているが、幻庵宗哲の方がよく知られている。
早くから仏門に入れられているが、武将としての活躍の方が目立つ。
当時は家督争いを避ける意味もあって、男児を早くに有力寺社に入れる例は多いが、幻庵宗哲の場合は、最初から箱根権現社の権威を手中にするための早雲の狙いからなのか、いざ入れてみたが幻庵宗哲の武門としての器量が際立っていたため活躍するようになったのか分からないが、おそらくその両方であったように思われる。

稀代の英雄北条早雲が没するのは、幻庵宗哲が二十七歳の頃(あるいは十九歳)である。
この頃は、まだ正式に出家する前で箱根権現社で修業の身であった。従って、父・早雲のもとで初陣を果たしたのかどうかは伝えられていない。その後、三井寺上光院に移っているが、早雲亡き後の北条家としては、周辺との戦いに多忙な時期であった。その中での近江行きを考えれば、幻庵宗哲もこの頃は武将としてはあまり期待されていなかったかに見える。

しかし、天文四年(1535)の甲斐山中合戦、翌五年の武蔵入間川合戦では、二代当主となった兄の氏綱に従って、甥の氏康(三代当主)・為昌らと共に出陣し、一軍の大将を務めている。
天文十二年の頃からは、北条氏の領国支配の諸策への参加が見られ、武蔵小机領の支配を担うなど、この後も家中の長老として後北条全五代にわたって重要な役割を担い続けたのである。
永禄二年(1559)の「北条家所領役帳」によれば、幻庵宗哲の所領は突出した一位で5457貫文である。二位の松田憲秀2798貫文を大きく引き離し、直臣約390人の総額が64250貫文であることを考えると、いかに大きな存在であったかが分かる。

後北条は、北条早雲という英傑の出現により誕生したが、二代以後も勢力圏の拡大を続けている。
三代氏康の頃には関東のほぼ全域を制圧するほどであったが、織田信長の台頭以後は、領土をめぐる争いは激しくなっていった。
それでも、信長が倒れた後に徳川家康と同盟を結んだ時点の勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・上野・下総・上総北半分に及び、さらに下野・駿河・甲斐・常陸の一部も領有していた。加えて安房の里見氏も勢力下にある状態で、全盛期の版図は二百四十万石に及び、十万の軍勢を動員することが出来たという。

その強力な軍事力は、本城と支城が連携する体制を構築し、さらには枝城、端城と呼ばれるものが本城支城を守るなど、まるで近代の大艦隊のような軍事体制を構築していた。支城の数は主なものだけでも数十に及び、全城数を示す資料を見つけることが出来ないほどである。
各支城は、単に軍事的な任務を担うだけでなく、一定地域の内政なども司り、まるで幕藩体制の小型版といえる領国支配を行っていたのである。
また、後北条氏は、民政面でも極めて優れていて、直轄地では当時としては画期的ともいえる四公六民の善政を敷いていた。

後北条五代百年の栄華を長いとみるか短いとみるかは意見の分かれるところであろうが、激しい時代を強大な勢力を保ち続けた今一つの要因は、家督が極めて円滑に引き継がれたことである。
家督相続にあたっては正室を重んじることが徹底されていて、他家によく見られる廃嫡騒動やそれに伴う家臣団の派閥争いがほとんど見られなかったのである。
どの大名家においても、家督相続が野放図だったわけではないが、約束事が守られていくことは容易なことではない。そこには、一族を取り纏め、嫡系を護り抜く有力な人物を必要としたことは間違いあるまい。
後北条には、家中最大の所領を得ており、しかも創業者早雲の弟という血統と文武に優れた北条幻庵宗哲という人物が全五代に渡って睨みを利かせていたのである。

後北条氏は、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより滅亡した。
隠居していた四代氏政とその弟氏照は実質的な指揮者として切腹となるが、当主の氏直は助命されて高野山に流された。これには繋がりの深かった徳川家康の取り成しがあったとも伝えられている。
謹慎処分とはいえ氏直には、大名並の一万石の賄い料が与えられ、遠からず国持ち大名として再封という話もあったらしい。しかし、氏直は翌年に病死し、後北条の嫡系は絶えたのである。

氏直には子がなかったため叔父の氏規が家督を継ぎ、後に許されて河内国狭山で七千石を拝領、その子の氏盛も下野国内に四千石が与えられた。氏規の死後、氏盛は父の遺領と共に一万一千石の大名として、河内狭山藩を興し、紆余曲折はあるも江戸時代を生き抜いている。
また、家康が天下を取ると、縁故ある数家が旗本などとして再興されている。有名な大岡越前守忠相もその流れをくむ。
そして、徳川幕府は、軍政において武田氏から多くのものを受け継いでいるように、民政面では後北条から受け継いだものも少なくないのである。

幻庵宗哲は、嫡男が早世、二男が戦死などの苦難を受けながら、天正十三年(1585)に嫡孫である氏隆が成人すると家督を譲り隠居している。
その後の動静については伝えられていないので、高齢でもあり一線から完全に離れていたらしい。
そして、天正十七年一月、小田原落城の前年に没している。享年は九十七歳(八十九歳とも)。
幻庵宗哲が小田原の落城を見る前に亡くなったのは幸せだったともいえるが、もし健在な時に豊臣軍を迎えていれば、果たして戦況はどうであったのかなどと考えるのだが、所詮、詮ないことではある。

                                     ( 完 )

 


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