運命紀行
今生の暇乞い
大坂の前田屋敷は、前日からの緊張が続いていた。
今やひとかどの武将に成長した利長を中心に、さらに強硬派の次男利政、重臣の村井長頼、奥村永福、片山伊賀らは断続的に軍議を重ねていた。
一時は、「討つべし」といった意見が圧倒していたが、「自重すべし」という意見も少数ながら強固であった。
慶長三年八月、稀代の英雄豊臣秀吉が世を去るとともに、その政権は大きく揺らぎ始めていた。
動揺の中心にあるのは、徳川家康に他ならず、これと対抗すべき立場には、自らの意思に関わらず前田利家が押し上げられていた。
秀吉は死期を悟った頃から、五大老をはじめとする有力者たちに後事を託し、起請文を出させた。しかし、家康の振舞は秀吉の願いを無視したものであり、石田三成を中心とした豊臣政権にとっては堪忍の限度を超え、さらには豊臣家臣団内部の対立も激しく、一触即発の状態になりつつあった。
複雑に絡み合った緊張の糸をほぐすべく、利家は伏見の徳川屋敷を訪れた。
実はこの時にも、利家には家康と刺し違える覚悟があった。
家康が次の天下を手に入れるために、一番邪魔なのは自分だということは明白であった。利家が徳川屋敷を訪れることは、相手に絶好の機会を与えることであった。
利家は、心配して同道しようとする利長に対して、「共に死地に赴いて何とする。もしわしが討たれた時は直ちに弔い合戦に打って出よ。何の、わしとてむざむざ討たれはしない」と、その覚悟を利長に残していた。
慶長四年三月八日、家康は僅かの供を連れただけで大坂の前田屋敷を訪れた。先の利家の訪問に対する返礼である。
その朝利家は、家臣たちに自分が動かない限り決して行動を起こしてはならないと厳命した。
昨夜来、利家はこれまでの走り続けて来た日々を思い起こしていた。己の命がもう数日しか残されていないことも承知していた。
「返々 秀より事 たのみ申候・・」という若い頃からの盟友の秀吉の遺言に応えられないことは断腸の思いであったが、これも又、世の常といえば常であった。
あの足利将軍家はあっけなく滅び、神をも恐れなかった信長さまさえ自刃した。秀吉は人徳厚く天下を掌握したといっても、次を治める人物は、天が望む人物でしかあり得ないのかもしれない。
利家は正装で宴席に臨んだが、その衰え方は隠しようもなく家康を少なからず驚かせた。
互いに慇懃な挨拶を交わしてしばらくたってから、利家は家康を見つめてしっかりとした口調で話した。
「これが今生のお暇乞いでござる。拙者は間もなく死にまする。利長のこと、くれぐれも頼み申しまする」
利家は、もうすべてが終わったという心境になっていた。そして、思わず言葉にしたことは、秀吉が鬼気迫るばかりに秀頼の後事を託しても空しいことを承知しながらも、わが子利長の行く末のことであった。
家康は、ただ、涙を流していたという・・・。
* * *
前田利家が死去したのは、この会見後ひと月にもならない閏三月三日のことである。
若い頃から信長に従って、戦場を駆け巡ってきた「槍の又左」としては、功なり名を遂げて、しかも穏やかな最期だったといえる。
そして、歴史の流れを考える時、利家の死は、関ヶ原の戦いへの出発点だということさえできる。
利家が家康にわが子の将来を託したことが、果たして老獪な家康にどれだけのものとして伝わったのか、推し量る記録は見つからないが、両雄の最後の会見が権謀術数のみであったと断じることも出来まい。
前田家は、利家が死んだ後、家康の計略もあって厳しい立場に立たされるが、何とか凌ぎ切り、加賀百万石を明治の御代まで守り続けている。
その身代は、外様大名ばかりでなく、御三家を含む諸大名中最大であり、三代利常の室には秀忠の娘珠姫を迎えている。
江戸時代を通じて、前田家が御三家に次ぐほどの扱いを受けていることを思えば、利家の『今生の暇乞い』は、あながち無駄ではなかったのかもしれない。
( 完 )
今生の暇乞い
大坂の前田屋敷は、前日からの緊張が続いていた。
今やひとかどの武将に成長した利長を中心に、さらに強硬派の次男利政、重臣の村井長頼、奥村永福、片山伊賀らは断続的に軍議を重ねていた。
一時は、「討つべし」といった意見が圧倒していたが、「自重すべし」という意見も少数ながら強固であった。
慶長三年八月、稀代の英雄豊臣秀吉が世を去るとともに、その政権は大きく揺らぎ始めていた。
動揺の中心にあるのは、徳川家康に他ならず、これと対抗すべき立場には、自らの意思に関わらず前田利家が押し上げられていた。
秀吉は死期を悟った頃から、五大老をはじめとする有力者たちに後事を託し、起請文を出させた。しかし、家康の振舞は秀吉の願いを無視したものであり、石田三成を中心とした豊臣政権にとっては堪忍の限度を超え、さらには豊臣家臣団内部の対立も激しく、一触即発の状態になりつつあった。
複雑に絡み合った緊張の糸をほぐすべく、利家は伏見の徳川屋敷を訪れた。
実はこの時にも、利家には家康と刺し違える覚悟があった。
家康が次の天下を手に入れるために、一番邪魔なのは自分だということは明白であった。利家が徳川屋敷を訪れることは、相手に絶好の機会を与えることであった。
利家は、心配して同道しようとする利長に対して、「共に死地に赴いて何とする。もしわしが討たれた時は直ちに弔い合戦に打って出よ。何の、わしとてむざむざ討たれはしない」と、その覚悟を利長に残していた。
慶長四年三月八日、家康は僅かの供を連れただけで大坂の前田屋敷を訪れた。先の利家の訪問に対する返礼である。
その朝利家は、家臣たちに自分が動かない限り決して行動を起こしてはならないと厳命した。
昨夜来、利家はこれまでの走り続けて来た日々を思い起こしていた。己の命がもう数日しか残されていないことも承知していた。
「返々 秀より事 たのみ申候・・」という若い頃からの盟友の秀吉の遺言に応えられないことは断腸の思いであったが、これも又、世の常といえば常であった。
あの足利将軍家はあっけなく滅び、神をも恐れなかった信長さまさえ自刃した。秀吉は人徳厚く天下を掌握したといっても、次を治める人物は、天が望む人物でしかあり得ないのかもしれない。
利家は正装で宴席に臨んだが、その衰え方は隠しようもなく家康を少なからず驚かせた。
互いに慇懃な挨拶を交わしてしばらくたってから、利家は家康を見つめてしっかりとした口調で話した。
「これが今生のお暇乞いでござる。拙者は間もなく死にまする。利長のこと、くれぐれも頼み申しまする」
利家は、もうすべてが終わったという心境になっていた。そして、思わず言葉にしたことは、秀吉が鬼気迫るばかりに秀頼の後事を託しても空しいことを承知しながらも、わが子利長の行く末のことであった。
家康は、ただ、涙を流していたという・・・。
* * *
前田利家が死去したのは、この会見後ひと月にもならない閏三月三日のことである。
若い頃から信長に従って、戦場を駆け巡ってきた「槍の又左」としては、功なり名を遂げて、しかも穏やかな最期だったといえる。
そして、歴史の流れを考える時、利家の死は、関ヶ原の戦いへの出発点だということさえできる。
利家が家康にわが子の将来を託したことが、果たして老獪な家康にどれだけのものとして伝わったのか、推し量る記録は見つからないが、両雄の最後の会見が権謀術数のみであったと断じることも出来まい。
前田家は、利家が死んだ後、家康の計略もあって厳しい立場に立たされるが、何とか凌ぎ切り、加賀百万石を明治の御代まで守り続けている。
その身代は、外様大名ばかりでなく、御三家を含む諸大名中最大であり、三代利常の室には秀忠の娘珠姫を迎えている。
江戸時代を通じて、前田家が御三家に次ぐほどの扱いを受けていることを思えば、利家の『今生の暇乞い』は、あながち無駄ではなかったのかもしれない。
( 完 )