雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  わが恋まさる  

2011-10-04 08:00:19 | 運命紀行
       運命紀行

          わが恋まさる


あれから五日も経ったのでしょうか。
まだ、身も心も納得できない状態なのに、内臣の殿が訪れるという前触れがありました。
私のさざ波のように揺れ動いている気持など誰も分かってくれないのか、新しく付けられた召使ならともかくも、長年私に付き従っている下女までが、何かうれしげに立ちふるまっているのです。

あの時、私にもある予感がなかったわけではありません。
あのお方が、大島の嶺とお呼びになった私の家に通って来られた頃の、あの夢のような日がいつまでも続くとは思っておりませんが、その後もずっと、私を愛おしく思っていて下さり、私はそれよりはるかにお慕い申し上げてきました。
それが、確たる変化は何もないのですが、何かしら隙間風のようなものを感じるようになったのです。そう、確か、私が子を宿したことをお知りになった頃からでしょうか・・・。

五日ばかり前、午前の食事からいくらも時間が経っていないのに私をお召しになられました。
これまでに無いことなので、私は胸騒ぎを感じながら参上いたしました。
そこは皇太子の私的なお部屋なのに、内臣の中臣鎌足殿が控えておられました。軍事の最高司令官として内臣を受けられている武人の姿に、私は身が固まるのを感じました。

「鏡王女よ」
と皇太子は呼びかけられました。
「そなたは、只今より、内臣の妻となるのじゃ」

お言葉は、ただ、それだけでございました。
鎌足殿は、低い声で皇太子に御礼を申しあげられ、私と目を合わすこともなかったのでございます。
私は、その日のうちに僅かばかりの供に連れられて、この屋敷に移りました。ここには、何人の下男や下女や、あるいは警護の武者がいるのか分かりませんが、私はたった一人で揺れ動く心と戦っています。いえ、おなかの中の子供と二人ででしょうか・・・。

少しざわめきがあり、それが鎮まると、内臣中臣鎌足殿が部屋に入られました。いつも見る御姿ではない、くつろいだ服装です。
付き従っていた武者一人と数人の召使たちは、敷物と膳部の用意を整え、潮が引くかのように去って行きました。
私は、殿の近くに座り、瓶子を取り殿が手にされた盃に酒を満たしました。
「うん」と頷かれた殿は、一息に飲み干し、その盃を私に持たせ、なみなみと注いで飲み干すように仕草で示しました。酒はとても強く、私は少しむせながら飲み干しました。

「それでよし」
と、少し表情を和らげた殿は、私の肩に手を回し、体ごと引き寄せられました。
「王女よ」
無骨な腕が私を抱きしめ、さらに言葉を続けました。
「わしにすべてを委ねよ。そなたも、腹の御子も必ず守って見せよう」

私は眼を閉じました。
これがわが身の定めなら、この殿にすべてを委ねましょう。
衣ずれの音を遠く聞きながら、私はお腹にある子どもの未来を祈りました。


     * * * 

鏡女王(カガミノオオキミ)は、額田姫王(ヌカタノオオキミ)の姉と伝えられている。異説もあるが、伝えられている資料から勘案する限り、二人が姉妹であったことは確かなように思われる。

額田姫王の場合には、采女のような立場で宮廷に出仕した気配があるが、鏡女王の場合は、中大兄皇子との相聞歌が残されているので、いわゆる妻問い婚の形で結ばれたようなので、その関係で宮廷あるいはその近くに召されたと推定される。

中臣鎌足は、中大兄皇子が蘇我氏を破った大化の改新といわれる事変の立役者であり、一番の協力者であった。内臣(ウチツオミ)というのは公的な役職ではないが、皇太子に就いた中大兄皇子の腹心といった意味があり、蘇我氏亡き後の軍事の実権を掌握していた。
鏡女王が、それも妊娠中に鎌足に下されたのは、歴史上他例もあることではあるが、その理由ははっきりしない。おそらく恩賞としての行為なのであろうが、鏡王女の心境はどのようなものだったのか。

『神奈備(カンナビ)の磐瀬(イワセ)の森の呼小鳥(ヨブコドリ) いたくな鳴きそわが恋まさる』

これは、恋の情熱をうたった鏡女王の歌だが、中大兄皇子に対するものか、鎌足に対するものか不明とされているが、筆者には、わが子の行く末を案じて鎌足にすがろうとしている切なさのように感じられてならないのである。

やがて、中大兄皇子は天皇となるも、その翌年、鎌足は近江王朝の絶頂期に逝去。鎌足五十五歳、鏡女王四十歳の頃。そして、鎌足に守られて出産した男の子が十歳くらい。
その男児は、後に藤原不比等と称することとなる人物なのである。
鎌足の死の前日、天皇は「藤原」の姓を与えたが、鎌足の子供で「藤原」を名乗るのは、この不比等ただ一人で、他の子は「中臣」姓なのである。

鎌足を亡くした後の鏡王女に試練が訪れる。
天智天皇の後継者大友皇子と大海人皇子が戦う、壬申の乱の勃発である。
戦いは、大友皇子側が敗れ、鏡女王は苦難に陥る。妹の額田姫王は大海人皇子の軍に保護されたが、鏡女王の消息は不明、おそらく一人息子と共に近江の辺境に逃れていたと思われる。

勝利した大海人皇子は即位し飛鳥浄御原宮に遷都する。天武朝の始まりである。
そして、並みならぬ努力もあって、藤原不比等は歴史の表舞台に登場してくるのである。その後、平安期、あるいはその後までも続く藤原氏の隆盛は、この不比等に始まるのである。
鏡女王は五十四歳くらいで亡くなったが、その前日には、天武天皇自ら鏡女王の自宅に見舞ったと記録されていることから、その晩年は幸せなものであったらしい。

                                  ( 完 )
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