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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

女院最後の参内 ・ 望月の宴 ( 91 )

2025-01-24 09:26:50 | 望月の宴 ③

     『 女院最後の参内 ・ 望月の宴 ( 91 ) 』


霜月(11月)には、五節はもとよりのこと、神事が数多く行われるはずなので、女院(東三条院詮子)は、この十月の内に宮中に参られた。
帝(一条天皇)はたいそうお喜びになられ、お待ちかねであったので、早速に女院のお部屋においでになる。
若宮(定子の娘媄子)は、たいそう可愛らしいので、帝は他のことをお忘れになったように、若宮のお相手をなさっていると、若宮もいかにも楽しげになさっている。

女院は、御物語のついでに、「なぜか、わけもなく心細く思われるので、どうなることかと考えてしまいます。今は、もう命も惜しくはございませんが、あなたのご繁栄の御有様を、もうしばらく拝見したいと思われるのが心残りでございます」などと仰せになって、たいそうお泣きになられるので、帝も込み上げてくるものを押えがたく、「もし、そのようなことになれば、私は、この世にどのようにして片時でも生きていることが出来るのかと思われます。円融院(帝の父で、女院の夫)は、近くで見奉っておりましたが、私はまだ幼うございましたから、こうして今まで長らえておりますが、御前(オマエ・母である女院のこと)の御有様をしばらくでも見奉らなければ・・・」と、たいそうお泣きになられるので、女院は、「何も今すぐと言うことではございますまい。ただ、どうしてかいつになく心細く思われるのです」とだけ申されて、若宮をあやしていらっしゃる。

帝は、たいそう沈んだお気持ちになられて、そのまま中宮(彰子)の御方にお渡りになり、御部屋にお入りになると、すぐにその様な御心も消えてしまうような格別美しく調えられている中宮の御有様を、やはり来た甲斐があったとお思いになって、ゆったりと御物語などなさって、「女院のもとに参上しましたが、たいそう心細げな事を仰せになられるので、ひどく心配になった」などと、とてもしんみりとお話になられるので、中宮は何かと気後れして、つつましやかであられるが、女院には殿の御前(中宮の父道長を指す)が、この宮(彰子のこと)の御事を昔から格別にお頼み申し上げていたので、どうしてその様なことを申されるのかと、心の内では心配なさっていることだろう。
帝は、しみじみとした事や面白い事など、あれこれお話しなさって、「日暮れには、あちらに参上なさい。明日明後日は物忌みなので、こちらには来られないので」と申されて、お帰りになった。
この間のご様子を見奉るにつけ、微笑ましくすばらしい御仲でいらっしゃる。

月末になって、女院はご退出なさった。
帝は、常にも増してお別れを名残惜しく思われて、夜の更けるまで女院の御部屋に留まっていらっしゃるので、女院は、「さあ、早くお戻りなさいませ。夜が更けてしまいます。これでわたしは退出いたしましょう」と仰せになったので、帝はまことにしぶしぶとお帰りになられたので、女院はご退出なさった。
霜月になっているので、神事などが数多く行われる頃なので、世の中は騒がしく日々が過ぎて行く。
十二月にもなれば、公私ともに来年の支度に、いずれもが励んでいる。

     ☆   ☆   ☆









 

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女院の病状悪化 ・ 望月の宴 ( 92 )

2025-01-24 09:26:18 | 望月の宴 ③

     『 女院の病状悪化 ・ 望月の宴 ( 92 ) 』


こうしているうちに、女院(詮子。一条天皇生母。)は腫(ハ)れ物のため熱をお出しになり、お苦しみになる。
殿(道長)は大変ご心配なさって、途方に暮れていらっしゃる。
病状は、女院ご自身それほどでもないとお思いであったが、数日経つうちに、しだいにそのお気持ちも揺らいで、どうしたことなのだろうと、心細く思うようになられる。
帝におかれても、御気分がいつもとは違うと仰せであったので、どうなるのかとご心配なさり、お食事もお受け付けにならず、万事につけ塞ぎ込んでいらっしゃるので、御乳母たちもどうすればよいのかと心配申し上げている。
中宮(彰子、この時十四歳。)もお若い心ながらも、女院のご病状をあれこれとご心配申し上げている。

殿は、「こうなれば、医師に診てもらわなければなりません。このままでは大変恐ろしいことです」と、たびたび進言なさいましたが、女院は、「医師に見せるくらいなら、生きていても仕方がありません」と、かたくなに申されて、診させようとはなさらない。
殿は、そのご容態を医師に語り聞かせたところ、「寸白(スハク・寄生虫による病のことで、腫れ物もその一種と考えられていた。)でいらっしゃるようです」と言って、その為の治療などを施したので、そう悪化するようには見えなかった。

数日経ったためであろうか、腫れ物から膿(ウミ)が流れ出ているので、誰もが一安心なさって見守られていると、ただ御物の怪どもが次々に立ち現れるので、御修法(ミズホウ・密教の祈祷法)を数限りなく尽くし、世にある良いとされる手段を、宮中、殿(道長)方、院(詮子)方など三方に手分けして、あらゆる手段がなされた。
帝には、いかにいかにと毎日お見舞い申し上げたくお思いであるが、日取りなどお選びになられるので、数日が素早く過ぎていった。
御物の怪を四、五人に駆り移しながら、それぞれの受け持ちの僧が声高に祈祷していると、東三条院の隅(スミ)の神の祟りだということまで出てきて、事態はさらに難しくなってきた。
「恐ろしき山には(当時の諺らしいが不詳。)」と世間で言っているように、いっそう病状が芳しくないうえに、このような事(災いをする神)まで加わったので、所をお変えさせるべきだという意見も出て来て、御占いにも合う所は、惟仲(コレナカ・平惟仲)の帥中納言の所有の邸で、そちらにお移りになるとお定めになる。
すぐさま、その日に行幸もあるはずである。

このように、女院はいかにも苦しげになさっているのに、この若君(媄子内親王)はたいそう騒がしくはしゃぎまわっていらっしゃるので、御懐から離れようともしないでまつわりなさるのを、御乳母に「この宮をお抱き奉れ」とも仰せにならず、じっとされるがままにさせていらっしゃる御心ざしは、しみじみとあわれに感じられ、そば近くに奉仕する僧なども、涙を流して控えている。
長年、心から愛しみお世話を下さったお陰を蒙ってお仕えしてきた人々は、いったいどうおなりになるかと心配する他に、為す術もない。
誰もが、女院の病状平癒の大願を立てて、涙を拭っておそばに控えている。

     ☆   ☆   ☆



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一条天皇 女院を見舞う ・ 望月の宴 ( 93 )

2025-01-24 09:25:43 | 望月の宴 ③

     『 一条天皇 女院を見舞う ・ 望月の宴 ( 93 ) 』


やがて、月末となった。
( 史実としては閏十二月の十六日のこと。)
世の中は何かと騒がしく新年の準備に励む頃であるが、女院(東三条院詮子。一条天皇生母。)のご病状が回復なさらないので、気分は落ち着かず、公も私もご心痛である。
こうした時、東三条院への行幸が行われる。それが今日のこととお聞きになって、女院は今か今かとお待ち申し上げているうちに、午の時(真昼ごろ)ばかりにお成りになる。

帝は、御輿が到着してお下りにになられる間もじれったく思われ、さっそくに女院と御対面なされたが、たいそう苦しげにされているのに、若宮(媄子内親王。母は定子。)は女院の御懐から離れず出たり入ったりされているので、すぐにおいたわしいことだとご覧になられて、中将の乳母(媄子の乳母)をお呼びになって、「この宮を抱いてさしあげよ」と仰せになられると、若宮は「いやいや」と言って御懐にお入りになる。
すっかりおやつれになり、まるで別人のようになられた女院の御姿に、帝は涙も止まらぬほど思われて、「今までお会いしなかったことが悔やまれて」などと、どうすることも出来ず、たいそう悲しくお思いであった。

女院も、特に申されるお言葉もなく、ただつくづくと帝をご覧奉って、お泣きになられるが、御涙をおこぼしにならないのも、これはゆゆしきことと拝されるにつけても、帝はますます涙を押えきれずにお泣きになられる。(泣いて涙が出ないのは不吉とされた。)
これまで何度もお迎えしていた行幸の作法に比べて、様子は異なり忌まわしいばかりの有様は、お伝えのしようもない。
伺候している多くの女房たちも、ただ涙にむせんでいる。
殿(道長)もお見受けする限り気丈に構えていらっしゃるが、すべてにつけて悲しいことなので、御直衣の袖も涙に濡れていて、御部屋を出たり入ったりして看病申し上げている。女院は、さっそく今夜にも他所へお移りのはずなので、転居先の御設備のことなど色々と仰せ付けになるにつけても、ただお一人で涙ながらに出たり入ったりなさっている。
行幸の御供の上達部や殿上人やたくさんの人々も、たいそう悲しくて、どのようにおなりになるのかと、ひたすら心を痛めている。
帝はさらにお悲しみで、御声も惜しむことなく、まるで幼児のようにしゃくり上げてお泣きになる。

日もいつしか暮れてゆき、殿(道長)は、「早く還御なさいませ。今夜の御移りは夜が更けてからになるでしょうから」と、早く早くと急かせられる。(天皇が夜中に、宝剣が置かれている清涼殿を空けることは許されない。)
帝は、「まことに罪深く情けない者は、この私のような者であったのだ。この御有様を見捨て奉ることがどれほど辛いことか。下賤の者でさえ、このような場合これほどつれないことはするまい。何と情けない身の上であるのか。せめてお移りになる所まで」と仰せになられたが、「そのようなことはなさるべきではありません」とて、早々に還御なさるように奏上させなさったので、女院は何も申されないが、もう十分と満足する前に還御なさることになり、悲しく思っていらっしゃる。
帝の御手をお取りになって、御顔にご自分の御顔を近寄せて、お泣きになる有様に、御部屋の内外に伺候している人々は号泣した。
「何と不吉なことか。そんなに泣くものではない」と、立前を口にするような上達部なども、制止なさりながらも、やはり涙を浮かべている。

こうして、「この若宮はどちらへ」と帝がお訊ねになると、中将の命婦が「若宮は姉宮(脩子内親王)兄宮(敦康親王)のいらっしゃる所にと、殿は申されています」と奏上すると、「まことに、そうするのが良いだろう」と仰せられる。
すでに夜になっており、御輿を寄せて度々還御を催促申し上げるので、心を引かれながら還御なさる帝のお気持ちは、まことに推察申すべきである。
無上の御位にあるとは申せ、親子の情愛をご存じないのであればともかく、すべて世の道理のままの御有様は、まことに悲しい限りである。御輿にお乗りになる時のご様子は、まがまがしいほどに思い詰めていらっしゃる。御袖を御顔に押し当てていらっしゃるが、それでも御涙が流れ出ていらっしゃる。
殿は帝の還御にお仕えなさるので、御乳母たちや女房たちが女院のおそばに伺候すべくお命じになって、帝にお供なさるのも気もそぞろで、今頃女院はいかがなっているかと心細くお思いである。
帝はそのまま何も仰せになることなく、夜の御座(オマシ・清涼殿の夜御殿。)にお入りになり、もう何事も念頭になく、女院のお見舞いの御使者ばかりを絶え間なくお遣わしになる。

     ☆   ☆   ☆

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女院御逝去 ・ 望月の宴 ( 94 )

2025-01-24 09:25:09 | 望月の宴 ③

      『 女院御逝去 ・ 望月の宴 ( 94 ) 』


さて、殿(道長)がお戻りになってから、若宮(媄子内親王。生母は定子。)の御乳母や然るべき女房たちに命じて、姫宮(媄子の姉姫の脩子内親王。)のお住まいの所にお送り申し上げる。
女院(東三条院詮子。一条天皇の生母。)が転居なさるのを、御車から牛を離して、お伏せになっている御座のまま、殿の御前(道長)、弾正宮(為尊親王。女院の甥にあたる。)などが担いで御車にお乗せして、そのまま殿は御車にお付き添いなさる。
ご転居先でも、御車を牛から離して、お乗せした時と同じようにお下ろし奉った。
帥宮(ソチノミヤ・敦道親王。為尊親王の同母弟。この時二十一歳。)や弾正宮は夜も昼もお世話なさっていたので、こちらでも同じようにお仕え申し上げている。この親王たちは女院の甥に当たられるが、帝の御身に次いで、お目を掛けていらっしゃった女院のお心遣いをよくわきまえてお世話なさっていて、涙に溺れていらっしゃる。

所をお変えになられたので、それなりの効験があろうかと望みを繋いでいらっしゃったが、お移りになって二、三日後に、女院は遂にお亡くなりになられた。
殿の御心地は何にも例えようがない。
帝もお聞きになって、これまでも生きた御心地でもなくいらっしゃったが、何もかも一段と塞ぎ込まれ、御薬湯さえお召し上がりにならず、まったくたいそうなお嘆きである。無理からぬ御有様なれば、申し上げようもない。
長保三年( 1001 )閏十二月二十二日のことであった。時候柄まことに寒く、雪などもたいそう降り積もって、おおよその月日も残り少なくなって、暦の軸もあらわに見えるようになっているのも、悲哀をつのらせるばかりの御事であった。

かくて、三日ばかり過ぎてから、鳥辺野において御葬送がが行われることになった。
雪がひどく降っている中、殿をはじめとして、すべての殿上人で、残ってお仕えしない人などおらず、参列なさっての儀式の有様は口にするのも愚かである。
殿が心を込めて執り行い申し上げ、さらに、帝の御心ざしの限りなさも加わった有様は、並一通りの儀であるはずがない。
こうして、夜もすがら殿は万事お世話申し上げて、暁になると、一同はお帰りになった。
雪がなお降り続き、いつもの御幸(ミヤキ・女院の行啓を指す。)で、このような事があっただろうかと思い出すにつけても、涙で濡れた袖は凍り隙間もない。
暁には、殿はお骨を首にお懸けになって、木幡(コハタ・藤原氏の墓所。)へお出向きになり、日が差し出でてからお帰りになった。
そして、ほどなく御衣の色が喪服の色に変った。
帝におかれても、悲しみの日々をお過ごしになる。天下は、諒闇(リョウアン・天皇が父母の喪に服する期間。一年間で、臣下もこれに従う。)になった。


女院、東三条院詮子さまの御逝去は、一条天皇や道長殿に大きな悲しみを与えましたが、同時に、時代を大きく動かせる出来事でもありました。
詮子さまは、応和二年( 962 )に誕生しました。父は摂政関白太政大臣・藤原兼家殿、母は摂津守藤原中正の娘時姫です。詮子さまは次女として生まれましたが、同母の兄弟姉妹には、冷泉天皇の女御となり三条天皇を生んだ姉の超子さま、兄には、道隆殿、道兼殿、そして四歳下の弟に道長殿がいらっしゃいます。

天元元年( 978 )八月、円融天皇のもとに入内なさり、十一月に女御となりました。十七歳の時でした。
同三年( 980 )六月、第一皇子である懐仁親王(後の一条天皇)を生みました。
寛和二年( 986 )に、円融天皇(法皇)が崩御されました。詮子さまは九月に出家され、皇太后宮職を止めて、院号宣下を受けました。お住まいの名前に因んで東三条院を称しましたが、これが、わが国で最初の女院の誕生でございます。
父の後を継いで、一条天皇が即位なさいました。一条天皇の在位期間は二十五年に及ぶ長い期間でございますが、即位の時はまだ七歳でございましたから、政治は外戚の兼家殿、道隆殿が実権を担いましたが、道隆殿御逝去の後の頃からは、国母である女院の発言力が増していきました。

女院は、道長殿を早くからたいそう可愛がられ、支援なさいました。その類い希なご器量を見抜かれていたのでしょうが、女院のご支援がなければ、いくら道長殿といえども、あれほどのご繁栄をお手にされていたでしょうか。
ただ、その裏返しとして、長兄の道隆殿のお子様方の、伊周殿、定子皇后などに厳しい運命を導いてしまったかもしれず、中関白家は没落の一途を辿ります。
しかし、定子皇后が自らの命と引き換えに誕生させた媄子内親王を引き取って、それはそれはお可愛がりになられました。女院が、せめてあと十年お元気であれば、定子皇后のお子様方も、違う生涯を送られたのではないかと、四十一歳での御逝去が残念でなりません。

平安王朝文化の絶頂期ともいえる一条天皇の御代は、東三条院詮子さまの御逝去により、その舞台が大きく変化していきます。
大変な支援を受けて参りました道長殿にとって、女院の御逝去は大きな悲しみに加え、後ろ盾をなくしたことになりますが、道長殿は、この大事を切っ掛けに、そのご繁栄に拍車が掛かって参るのでございます。名実ともに頂点へと上り詰めて行くのでございます。

     ☆   ☆   ☆


 




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淑景舎女御の急死 ・ 望月の宴 ( 95 )

2025-01-24 09:24:07 | 望月の宴 ③

      『 淑景舎女御の急死 ・ 望月の宴 ( 95 ) 』


むなしくその年(長保三年、1101 )も暮れていった。
正月一日に涙を流すことは不吉だというのも、平安な時のことであって、いずこも女院(東三条院詮子)のご恩顧を蒙っていた人々は皆途方に暮れている。
念仏はもちろんのこと、長年行われている不断の御読経や、すべてのなすべき御事は、法要がすべて終る日まで欠かさず行うとお決めになる。
帝(一条天皇)は、引き続き御手づから御経をお書きになる。
正月七日は子の日(ネノヒ・野遊びをする行事が行われた。)に当たっていたが、船岡山の遊びも今年は張り合いのない有様なので、左衛門督公任(キントウ・正三位で、当時の代表的な文化人。)君が女院の御所の台盤所にあてて、
『 誰(タ)がためか 松をも引かん 鶯の 初音かひなき 今日にもあるかな 』
と詠まれていたが、女房たちはこれをご覧になって、誰も返歌をなさらなかった。
御忌みの間も、しみじみとあわれな事などがたくさんあった。

こうして、御法事の頃になったので、花山の慈徳寺(詮子の御願寺。現存していない。)にて催すことになった。
二月十余日に御法事は行われた。その間の諸行事はご想像いただきたい。
帝が手づからお書きになった御経などを添えて供養をなさる。院源僧都(インゲンソウズ・延暦寺の僧。道長の信頼が厚かった。)が講師としてご奉仕なさった様子は想像いただきたい。
このように悲しみの内に御忌みの期間は過ぎた。

その年の賀茂祭はたいそう見栄えのしない事が多かったが、例年の公事(オオヤケゴト)なので中止できるものではなく、近衛司などは見物のしがいがあるが、それも立たなかったりして、いかにも寂しいことである。

こうして、五、六月の頃にもなったが、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・東宮(居貞親王)の女御)は、一の宮(敦明親王)をお世話申し上げなくなって久しくなっていたが、その後、もうこれが最後ではないかと思われるほど重病になられたので、東宮は御心を痛めていらっしゃった。
たいそう悪くなっておいでであったが、昨日今日あたりは良くおなりになった。

弾正宮(為尊親王。冷泉天皇の皇子。)は、相変わらず御夜歩き(女性のもとへ通う。)をなさる恐ろしさを、世間の人は心中穏やかならず、ご身分にふさわしくないことと差し出がましくお噂申していたが、今年は何かとたいそう騒がしく(疫病のことか?)、いつぞやと同じような心地がして、道端や大路も惨憺たる状態で、その死骸を見ながらも、情けなくも御夜歩きをなさった為であろうか、ひどく患ってお亡くなりになった。
最近では、新中納言(不詳)や和泉式部(為尊親王、弟の敦道親王との恋愛は「和泉式部日記」に書き残されている。)などにご執心で、情けないほどの御有様を北の方(藤原伊尹の娘)は辛くお思いであったが、為尊親王の御逝去を悲嘆なされて、四十九日の頃に尼におなりになった。
北の方は、もともとたいそう信心深いお方で、二、三千部の経を読んでお過ごしであったので、世の無常もよく悟られていて、さらにいっそうのご修行である。

こうして、弾正宮が亡くなられたということを、御父の冷泉院はそれとなくお耳にされて、「宮は亡くなってはいまい。よく捜せば、どこぞにいるだろうに」と仰せになる。おいたわしい親心というものである。
東宮(居貞親王。為尊の同母兄。)もたいそうお嘆きになる。帥宮(敦道親王。為尊の同母弟。)もたいそう哀れで残念なこととお思いであろう。
まことに、為尊親王は、今年二十五歳におなりであったのだ。
花山院(為尊の異母兄。)が、格別にご葬儀をすべてお世話申し上げておいでであった。

しみじみと哀れな世であるのに、さらにどうしたことか、八月二十余日に、聞くところによれば、淑景舎女御(シゲイサノニョウゴ・東宮女御、原子。定子の妹。)がお亡くなりになったとの噂で持ちきりである。
「ああ、大変なことだ。これは一体どういう事か。そのような事は、まさかあるまい。最近お患いだということも聞こえてきていなかったのに」などと、不審がる人が多かったが、「ほんとうの事だったのだ。御鼻や口から血をお流しになり、まことに、あっという間にお亡くなりになられた」と言う。
情けないとか忌まわしいとかも世の常である。世の中は無常であると言うが、その中でもそうそうない辛く情けない御有様である。

この事を世間の人も口うるさくされていたので、宣耀殿女御がたいそうな重病であられたのが平癒なさったので、こうした意外な御有様を、「宣耀殿女御が、尋常ならざる事を仕掛けられたので、このようになったのだ」と、まことに聞きづらいことまで申しているが、「女御ご自身が、あれこれとお考えつくことなどない。少納言の乳母(宣耀殿女御の乳母)などが、どうにかしたのではないか」などと人々が取沙汰しているが、それはともかく、まだお若い御身(淑景舎女御は二十三、四歳位。)でこのようにお亡くなりになったことを、帥殿も中納言殿(伊周と隆家。淑景舎の兄たち。)も大変なお嘆きであるが、東宮におかれても、格別に深く御寵愛というわけではなかったが、いつか、帝の位に就くような時があり、思い通りの事が出来るようになれば、然るべくお扱い奉り、華やかで栄えあるお立場にとお考えであったので、まことに哀れで口惜しく、また恋しくお忍び申されている。
その中でも、「御衣の重ね具合や袖口などは、他の女人を見る度に思い出されるものを」などと、悲しいお気持ちを仰せになられるのであった。
御対面などはそう容易くはなかったが、御心ざしは、宣耀殿女御と同等にお寄せであったものを、かえすがえすも哀れで口惜しい事とお思いであった。

     ☆   ☆   ☆




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頼通 右近衛少将に ・ 望月の宴 ( 96 )

2025-01-24 09:23:28 | 望月の宴 ③

     『 頼通 右近衛少将に ・ 望月の宴 ( 96 ) 』


殿(藤原道長)の若君田鶴君(タヅギミ・頼通)は十二歳ばかりにおなりである。
今年( 1003 年)の冬、枇杷殿(ビワドノ・道長の邸の一つ。)において元服式を挙げられた。引入れ(ヒキイレ・冠をかぶせる役。)には閑院内大臣(藤原公季。正二位。道長の叔父にあたる。)が臨席なさった。
一人として参上なさらない人はなく、お邸は人で満ちあふれていた。御贈物や引出物などのほどは、ご想像いただきたい。

さて、その年は暮れて、翌年となった。
司召(ツカサメシ・秋の除目を指す。頼通が右少将になったのは八月なので、時期が前後している。)において、若君は少将におなりになり、二月に春日の使い(春日祭の勅使)にお立ちになった。
殿は、これが若君の初仕事とお思いになっていて、その支度に大わらわになっていらっしゃるのも当然である。万事においててきばきと進められる。
若君は、何となくふっくらとなさっていて愛くるしくあられるので、殿はたいそう大切にお思いである。
春日の使いの御供には、少しは世間に知られた四位、五位、六位の者が残らず参上なさる。
殿は、宮中において、帝の御前で若君をご覧になられ、また、その途中の様子を牛車の中からご覧になられるなど、たいそう情愛に満ち溢れているとお見受けされる。

ご出立の翌日(春日祭当日)、雪がたいそう降ったので、殿の御前(道長)が、
 『 若菜摘む 春日の野辺に 雪降れば 心づかひを 今日さへぞやる 』
 ( 若菜を摘む 春日野に 雪が降ったので 若君(頼通)が難儀しているだろうと 今日も 気に掛かることだ )
と、お詠みになられると、その御返事として、四条大納言公任が、
 『 身をつみて おぼつかなきは ゆきやまぬ 春日の野辺の 若菜なりけり 』
 ( わが身にあてても 心配されるることは 雪のやまない 春日野で 若菜摘みが出来るかどうかです [ 歌意から、公任の子も参加している可能性もあるが、はっきりしない ])とお詠みになった。
また、これをお聞きになって、花山院が
 『 われすらに 思ひこそやれ 春日野の 雪間をいかで 田鶴の分くらん 』 
 ( 私でさえ 気に掛かりますよ 春日野の 雪降る中を 田鶴君がどのように踏み分けていくかと ) 
と、お詠みになられた。

また、その次の日には、若君のお帰りをお待ちかねになって、殿は設けられた宴席は、まことに格別のものであった。
舎人(トネリ・ここでは近衛府の下級官人。)たちも、若君に心を寄せていて、身分の差を忘れたかのように、自分たちのもののように仰ぎ奉る様子も、そうした人々さえも若君を大切に思っているということで、好ましく思われる。

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中関白家の人々 ・ 望月の宴 ( 97 )

2025-01-24 09:22:45 | 望月の宴 ③

      『 中関白家の人々 ・ 望月の宴 ( 97 ) 』


道長の御殿の御嫡男、頼通殿は、十二歳で元服なさると正五位に叙され、ほどなく右近衛少将に任じられました。
その後も、まっしぐらに昇進なさり、十五歳の時には、従三位に昇叙、公卿の地位に達するのでございます。
宮廷政治において、道長殿は盤石の地位を築いて行かれますが、同時に、後宮におけるご長女彰子中宮の圧倒的な存在感、御嫡男頼通殿を中心としたお子様方の異例の昇進によって、並ぶ者とてない御方になられるのでございます。

その一方で、中関白家の状況は、道長殿の長兄道隆殿の御逝去と共に輝きをなくし、後継者である伊周殿の失脚の上、一条天皇の御寵愛深い定子皇后が二十四歳の若さでお亡くなりなるという不運が続き、没落を止めることができない有様でございました。
一条天皇はもちろん、道長殿も定子皇后のお子様方を軽視なさったわけではございませんが、沈み行く日輪を引き戻すことなど、どなたにも出来ることではないのでしょう。


さて、宮中には、亡き定子皇后の皇子や皇女がたくさんいらっしゃいますが、帝(一条天皇)は、一の宮(定子所生の敦康親王)を中宮(彰子)の御子としてお託しになって、その御殿になるべくお連れするようになさり、女一の宮(脩子内親王)、女二の宮(媄子内親王)などがたいそう可愛らしくあられるのを、粗略にならないようにお世話申し上げられては、亡き定子皇后をしみじみと思い出されない時はない。

故関白殿(定子らの父道隆)の娘であられる四の御方は、御匣殿(ミクシゲドノ)と申し上げているが、この一の宮(敦康親王)の御事を亡き定子皇后が万事ご依頼申し上げていたので、今はひたすらにこの宮の御母代わりとしてお世話なさっているので、帝も足繁くお渡りになられていらっしゃるが、おのずからお顔をお目にかけられる事もおありであったが、その間にどのようないきさつがあったのか、睦まじいお仲になられたということが、自然と噂になって聞こえてきた。
中宮(彰子)は、何分まだお若くていらっしゃるので、何事もお気になさらないご様子であるが、周囲の人は、この御事を厄介なこととひそひそと困惑しているようだ。
帥殿も中納言殿(伊周と隆家。御匣殿の兄たち。)も、感に堪えない前世からの因縁なのだろうとお思いになって、人に知られないように御祈祷などなさるのであろう。
帝も、たいそう愛おしくお思いであろう。御匣殿も、万事に付けて、峰の朝霧(古今和歌集の歌を引用している。)のように、胸の晴れる間もなく思い嘆いていらっしゃるのであろう。

帥殿も中納言殿も、宮(敦康親王)が宮中にお住まいなので、思いのままに参上することは出来ず、夜になってから忍んで参られて、誰にも知られないようになさって、二、三日ばかりそのままおそばについていらっしゃったのである。
宮たちのご様子は、それぞれに可愛らしくいらっしゃるので、すべての不幸な事々を慰めつつお気を紛らわせて日を過ごされている。その間に、帝がお見えになられた時などには、内々にちょっとしたお話しをなさったり、また奏上なさるような事もあるのだろう。
中納言は、大殿(道長)のもとに常に参上なさっていて、また、中納言が姿をお見せにならない時には、度々おそばに呼び寄せられるなどして、中納言を憎からぬ者とお思いになっていて、「この君(中納言隆家)は、憎らしい心の持ち主ではない。帥殿の賢すぎる心に引っ張り回されているだけなのだ」などとお思いなのであった。

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哀れなり御匣殿 ・ 望月の宴 ( 98 )

2025-01-24 09:22:00 | 望月の宴 ③

     『 哀れなり御匣殿 ・ 望月の宴 ( 98 ) 』


ところで、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・藤原娍子。のちの三条天皇皇后。)は、たくさんの宮たちをお連れして東宮(居貞親王。のちの三条天皇。)のおそば近くにお仕えしていらっしゃいますが、それも、並大抵ではない御宿世(スクセ・前世からの因縁。)と見受けられる。

大殿の御娘の尚侍(ナイシノカミ・道長の次女妍子。この時、十一歳。)殿を、きっと東宮の妃として入内させなさるだろうと、世間ではお噂申している。
されど、殿(道長)のお考えは、かつての殿方のように、他の人を蹴落とすような御心はお持ちでないので、そうした機会もないこともあるまいとお考えになって、参内を急がれる様子はない。

この頃、殿の上(道長正室倫子)のご兄弟に、くわがゆの弁(不詳。誤記か?)といった人には、たくさんの娘がいたが、そのなかの中の君に帥殿(伊周)の北の方のご兄弟である則理(ノリマサ・権大納言源重光の三男。)を婿にお迎えになったが、たいそう心外なことがあって縁が絶えたので、最近、中の君は中宮(彰子)のもとに出仕なさっている。
この中の君は、容姿も仕草もたいそう美しく、まことに優美なお方であったので、殿の御前(道長)のお目にとまり、何かとお話しなどなさっているうちに、愛おしく思われるようになり、真剣に愛情をお育てであるが、殿の上は、この人であればと思ってお見逃しになり、そのままに過ごしていらっしゃる。
それを見た人は誰もが、「則理の君は、まったく妻を見る目がないお方だ。これほどの女性を粗末になさったことだ」などと取沙汰したのである。
そして、中の君を大納言の君と呼び名をお付けになったのである。

こうして月日が過ぎ行くうちに、あの御匣殿(ミクシゲドノ・故定子皇后の妹)は懐妊なさって、ご気分がすぐれず、月日と共に苦しまれていて、その御様子を帝もたいそうふびんに思われて、心の内でどうすれば良いかとお案じのうちに、四、五ヶ月ほどになったので、これが噂されるようになり、正式に奏上なさることはなかったが、このままでは周囲の目もわずらわしく、里のお邸に退出なさった。
帝もたいそうふびんと思しめして、その事をお口にされるが、たいそう苦しげになさるのを、どうなることかと憂慮なさっている。
帥殿(ソチドノ・伊周。御匣殿の兄。)などは、帝の御寵愛を受けたからには、何事もないよりは、御子がお生まれになるのも悪いことではないと思われて、あれこれと安産の御祈祷をなさる。

御匣殿は、里邸にあって、故定子皇后の皇子や皇女たちをご心配なさり、また恋しさなどもあってお心を乱され、ご気分がますます悪くなり、起き伏しさえもお苦しみになる。
帥殿は、ご自分の御邸にお迎え申し上げて、何かにつけてお世話申し上げていたが、急に御容態が悪くなり、五、六日してお亡くなりになった。
御年は十七、八歳くらいでいらっしゃっただろうか、御容姿も御心もたいそう可愛らしく、たいそう美しくあられたが、故定子皇后の御有様にも劣らず、物静かで控えめで奥ゆかしいお方であられたのに、このようにただならぬお体でお亡くなりなったとはと、様々に帥殿も中納言殿(隆家)もそのお嘆きは一通りではなく、まことに情けないことであろうと思われる。(当時、妊娠したまま亡くなるのは罪深い事である、という考え方があった。)
内々の悲しさよりも、外聞を恥ずかしく辛いことと思われて辛抱されているが、これほどまでにすべての願いが裏切られることに、このご一家(中関白家)の御有様を世間の人たちは、まずはお噂しているようである。

帝におかれては、人知れずしょんぼりとお力を落とされているご様子で、御匣殿に深く心を寄せられていたのだと拝見するにつけても、まことに口惜しく情けないことと思われる。
むなしく後々の法要などが行われ、服喪の期間が終ってから、帥殿も中納言も宮中に参内なさって、故定子皇后が残された皇子や皇女のお世話などを十分になさる。
御匣殿がいなくなったことを、一の宮(敦康親王)がとりわけ恋い慕われる様子は、それはそれはいたわしく悲しまれることであった。

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賀茂祭の有様 ・ 望月の宴 ( 99 )

2025-01-24 09:21:19 | 望月の宴 ③

     『 賀茂祭の有様 ・ 望月の宴 ( 99 ) 』


こうしているうちに、寛弘二年( 1005 )になった。
司召(ツカサメシ・春の除目)などあって、殿(道長)の君達(公達)は、鷹司殿(倫子)御腹の弟君(教通。頼通の弟。)、高松殿(明子)御腹の巌君(イワキミ・頼宗)などが、みな元服なさって、相応の官職として、少将、兵衛佐などと申し上げるが、春日の使いの少将(嫡男の頼通のこと。)は中将に昇られ、今年の祭(賀茂祭)の使いを勤められる。
(史実としては、頼通が賀茂祭の使者を勤めたことはないらしい。しかし、原作者はこの場面を詳しく書き残しているのは、「この時の使者が、道長の正妻倫子の甥に当たる源雅通で、道長の枇杷殿から出立している」「二年後の寛弘四年の使者を、頼宗が勤めている」といったことと混同している可能性が考えられる。)

殿は、一条大路の御桟敷の建物を長々とお造らせになり、檜皮葺きや高欄などもたいそう立派に備えられて、この数年、御禊(ゴケイ・みそぎの儀式。)をはじめとして、祭を殿も上(倫子)もお出向きになってご覧になっているが、今年は使いの君がお身内からお立ちになるとなって、世間は準備に大わらわである。
その日になると、皆が御桟敷にお出向きになる。殿は、使いの君のご出立の儀式をお見送りになってから、御桟敷に参られた。たくさんの殿方、殿上人を引き連れていらっしゃる。
それほどの身分でない者でも、この使いにお立ちになる君達は、大変な名誉として親たちは支度なさるものだから、まして今年は殿のお身内が使者となれば、この盛大さも当然のこととお見受けされる。お供の侍、雑色(ゾウシキ・雑役を勤める下級職員。)、小舎人(コドネリ・ここでは、近衛府の中・少将が使う童。)、御馬副(ウマゾイ)にいたるまで、至れり尽くせりの様子は、とてもお伝えすることが出来ない。

今年は、この祭の使いが大評判で、帥宮(ソチノミヤ・敦道親王。冷泉天皇の皇子で、花山院とは異母兄弟。)や花山院などが、特別に御車を仕立てて御見物になり、御桟敷の前を何度もお通りになる。
帥宮の御車の後ろには和泉式部(敦道親王の恋人。その激しい熱愛の様子は、「和泉式部日記」に書き残されている。)をお乗せになっている。
花山院の御車は金の漆などというように塗らせている。網代の御車を何もかもご立派にお造りになっている。それは、まさにこのようにすべきだと思わせるすばらしさである。御供には、大童子(ダイドウジ・寺院で童形のまま雑役をする下級の僧。上童子、大童子、中童子の順の序列がある。)の大柄で年配の者四十人、中童子二十人、召次(メシツギ・院で雑事を勤める者。)たち、もとから院に仕えていた俗人たちが仕えている。
御車の後ろには、殿上人を引き連れていて、様々な衣装に、赤い扇を揃えてひらめかせながら、御桟敷の前を何度も行き来されているのを、いつもの年であれば、これほどまで派手ではあるまいと、殿は見奉っているに違いないが、使いの君が引き立って見えるためにだと、上達部(カンダチメ・公卿)はつい微笑み、殿の御前(道長)は、「やはり、ご趣向をなさる院でいらっしゃることだ。自分の子が使いに立つ年には、『我が花を添えてやろう』と仰せられたと聞いていたが、その通りに、思い掛けずもお出まし下さったものだ」と言われて、一同が興じられている。

行列もすべてととのい、使いの君は何となくふっくらと小柄で可愛らしい姿でお通りになる。
殿の御前は御涙が止めどなく流されていらっしゃるが、子への情愛を知っている殿方であれば、誰もが殿のお気持ちがお分かりになるであろう。
京じゅうの宮家、殿方、家々に仕える女童を現代風であるとしても、ばかばかしいほどにまで、幾重とも分らぬほど着重ねさせているのが、十人二十人、あるいは二十人三十人と一団となって通ると、殿は、「どちらに仕える者か」と必ず召し寄せてご覧になりお尋ねになると、「何々の宮の」「かの御邸の」「何々の守の家の者」などと申し上げるのを、すぐれている者には興じられ、それほどでもない者には微笑まれなどなさっているのも、様々にたいそう面白く、当世風らしい有様であった。

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道長と花山院 ・ 望月の宴 ( 100 )

2025-01-24 09:20:14 | 望月の宴 ③

      『 道長と花山院 ・ 望月の宴 ( 100 ) 』


さて、こうしているうちに、帥殿(伊周)が全く官位もない状態でいらっしゃるのを、「たいそうお気の毒なことである」などと、殿(道長)は気の毒に思われて、准大臣の御位にして御封(ミブ・大臣の半分くらいの封戸らしい。伊周の場合は、大臣退職者に当たる千戸が与えられた。)などをお与えになる。
中納言(隆家)は、先年より中納言で、兵部卿と申されているようである。
世間の人は、まことに気持ちの良い配慮だとお喜び申し上げている。

今年(寛弘二年・1005 年)の十一月に内裏が焼失したので、五節の舞姫も参上することが出来なくなった。
このように内裏がしばしば焼けることを、帝はたいそうお嘆きになって、なおもこのようなことが続くようであれば、すぐにも退位しようと御心づもりでいらっしゃる。
(実際には、一条天皇の御代では、これ以外に内裏の焼失は起きていない。ただ、里内裏であった一条院が焼失している。また、この時の火事で、三種の神器である神鏡が焼損したらしい。)

寛弘三年になった。
今年は、大殿(道長)が御嶽精進(ミタケショウジ・吉野の金峰山に詣でる儀式。道長は四十一歳の前厄の年。)をなさることになっている御年なので、正月から外出など気軽にはなさらなかったが、恒例の儀式が次々に行われ、月日が過ぎていく。
今年は不用(事が叶わないこと。)な年なのかお思いになっているうちに、四、五月にもなった。

五月には、恒例の法華三十講の法会を、月の前半の十五日間お勤めになり、後半の十日余りには、競馬(クラベウマ)をさせようとて、土御門殿の馬場を柵などを立派に仕立てさせられる。
行幸や行啓などを仰ごうとお考えであったが、このところ雨の日が多く、催しなどが出来ないような有様なので、それでは、何もしないよりもということで、花山院の御もとに、「畏れ多いことながらお出ましいただいて、馬の様子などご覧いただいてはいかがでしょうか」と申し上げられると、何事につけ華やかになさるご性格なので、「全くうっとうしい気持ちが晴れ晴れすることでしょう。それでは、その当日に」とご返事なさったので、院の御幸のためにいろいろと御支度なさった。

また、院の御供の僧たち、殿上人たちに引き出物を与えぬわけにはいくまい、失礼があっては畏れ多い、院への贈り物は何がよいか、などとお考えをめぐらされる。
その日になると、今日の催しに院がお出ましになるのを光栄なことと思われて、たいそうご歓待申し上げる。院もたいそう興味を示されている。
そして、左右の乱声(ランジョウ・勝った方が笛・鉦・太鼓を大きな音で演奏する。)などが、勝負の度に大変聞き苦しいほど大げさにはやし立てるので、下品なほどである。
やがて、この競馬の催しも終ったので、院はご帰還なさる。御贈り物がたくさんある中でも、世にも珍しい月毛(ツキゲ・白にやや赤みを帯びた毛並み。)の御馬に立派な御鞍などをお置きになり、また、立派な御車に牛を添えて引き出物として差し上げられた。
院は夜になって帰還なさったので、殿がお見送りにいらっしゃったが、この院の御有様は、「棄つれど棄てられぬわざ」(当時の諺らしいが、出家しても世を棄てきれぬ有様を指しているらしい。)と、尊くも感慨深くお見受けされた。
こうした事をはじめとして、殿と院とはたいそう仲が良さげであられた。

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